七十九層:止まらない.03
その潮殻舟は、浮いていた。
貝殻はひときわ大きく、そして古いがよく磨かれていた。
底に重力のウフが埋め込まれ、淡く光を帯びている。
空気を裂くようにかすかに振動し、舟は宙を滑るように進む。
前後左右には吸血鬼兵が護衛し、冷たく周囲を睨みつけている。
血液のような赤いリボンで貝殻は縁取られていた。
サハが「可愛くない」と文句を言ってつけさせた、急ごしらえながらも、上質な布の装飾。
結び目には、それぞれ宝石が縫い込まれている。
舟の内部は、紅い絨毯と暗紅のクッション。
二枚貝の上側は大きく開かれて、もたれるように座るサハがよく見えた。
漆黒と橙のドレス。青白い肌。
珍しく、丁寧に化粧された赤い唇。
一挙手一投足まで「魔族の女王」であることを誇示し、本人は一歩も地面を踏まず、触れさせようともしない。
周囲は彼女の吐く言葉一つ、指先の動き一つに息を呑む。
──はずだった。
だが実際には、“外”に出た瞬間から、サハは興味と興奮が抑えきれなくなっていた。
迷うことなくウルネスの天使領“蒼殻”へつながる大扉へ進軍する中、彼女の甲高い声がグランを何度も呼ぶ。
「ねえ!グラン、あれを見て!あの赤いのは林檎でしょう?採ってきてよ!」
ゼノラ層のへそ──“大扉の街”ノードの中心に、大きく枝葉を広げた林檎の木を見つけて、サハは空中から叫んだ。
地べたでは阿鼻叫喚の嵐でも、彼女の乾いた目には映っていない。
いや──
映ったうえで、無視していた。
それは大人の仕事。
自分には関係のないことだ、と。
グランの目線を受け、すいと羽を閃かせたひとりの吸血鬼が、林檎をひとつ捥ぎ取った。
風に乗るように羽ばたいた吸血鬼兵は、手にした赤い実を、グランへ差し出す。
そしてグランは、何も言わず、ただ微笑むだけで、サハへそれを手渡した。
彼女は、それを当たり前のように受け取った。
甘い果汁に、満足げに笑った。
何も知らない子供のように。
サハを乗せた潮殻舟は、音もなく空を滑っていく。
眼下では、悲鳴が大きくなっていた。
ソルに照らされているはずのノードの街を、いくつもの黒い影が縫うように駆け抜けていく。
逃げる者。
倒れる者。
それを踏み越えて進む者。
そのすべてを、サハはただ眺めていた。
興味深そうに。
まるで、知らない玩具を与えられた子供のように。
ウルネス層──天使領“蒼殻”へ繋がる大扉。
そこには、ソル・ベリリウムの陽光が彫り込まれていた。
潔が良すぎるほど無駄を省いた線と曲線だけの意匠。
その目前に──黒が並んでいた。
裁判所管轄の悪魔たちだ。
揃いの外套。
揃いの歩幅。
揃いの剣。
抜き放たれた刃には、赤い炎が静かに灯っている。
「──止まれ」
声が、重なった。
命令だった。
問いではない。
それが通ると、信じている者の声音だった。
わずかに、空気が張り詰めた。
先頭を行く火魔法族らの足並みが、かすかに鈍る。
だが──止まらない。
構うことなく距離を詰めてくる真紅の軍勢に、悪魔たちは顔をしかめた。
止まるはずだった。
裁判所の頂点に、何千年と居座る死神の存在。
そして、その死神ダーツが築き上げた“魂の重さ”への信仰。
それが、何よりの盾になるはずだった。
“裁定の塔”地下にて行われていた不死実験が露呈してから、まだ一週間と経っていないとしても。
裁判所への信頼の失墜と、ハーウェンへの信仰は別物だと、信じていた。
だが──
次の瞬間。
切っ先の炎が、揺れた。
いや──引き裂かれた。
「……は?」
誰かが声を漏らす。
燃えていたはずの剣の炎が、
引き剥がされるように、ひとつの方向へと流れていく。
「──生温いな」
ビカだった。
片手を上げただけで、悪魔たちの炎が、すべて彼女のもとへ吸い寄せられていく。
それはひとつの火球に姿を変えて、まるで、小さな燃える星が、
ビカの手のひらの上に浮かんでいた。
「な……なにがおきた?!」
初めて見る現象だった。
剣に埋め込まれたウフが、機能していない。
裁判所支給の揃いの武器だ。
自分の鍵ではない。
だが、それでも──
適性のある炎が、消えた。
……いや、違う。
──奪われた。
炎のウフで生み出した熱が、まるごと。
燃えるような赤髪の、小柄な女の手の中にあった。
対処法が定まっていない事態に対して、悪魔は最も弱い種だった。
前例がない。
命令が飛ばない。
動けない。
自らの鍵を握って戦っていいのかすら、上官の判断なしには動けない彼らは、頭上を素通りしていく吸血鬼たちを、ただ見上げることしかできなかった。
彼らが同じ信仰の元に生きていると信じ切っていたこと。
それこそが、悪魔らにとって最大の誤算だった。
「どこから来たんだあれらは?!」
「報告によると、ノクタリスの大扉から続々と侵攻していると──」
「開かずの扉が…?だったら──あれが、魔族だっていうのか……?!」
何千年と開くことがなかったプツカ・ポッカの大扉。
魔族が自ら閉じこもったとされる、その扉から、溢れかえるように飛び出してきている。
「報告を上げろ!指示を仰げ!」
星層間管理局員を押しのけ、ゲートすら破壊する勢いで通り抜けていく魔族たち。
……数が、違いすぎる。
その大多数がノードの街を素通りし、天使領へと向かっていることに気が付くと、悪魔兵らは強張った顔を見合わせた。
天使領では、現在“怪物ジャック”の審問という名の戦争の真っ最中のはずだ。
その真ん中に、魔族らがなだれ込もうとしている。
「……急げ。天使領が陥落すれば、同じウルネス層の悪魔領まで――あっという間だ。」
もはや誰も魔族を止めようとはせず、
悪魔兵らは市民の救助と裁判所への報告に走った。
「なにあれ?あれでおしまい?」
サハがあっさりと撤退していく悪魔たちを見下ろす。
グランは軽く肩を竦めて答えた。
「悪魔とはそういう種族だそうです。規律に忠実すぎて──なにも自分で決められない」
規律に生きるのは動かしやすくて理想的だ。
ルールさえ決めてしまえばいい。
個よりも規範を守れる集団は、それだけで強い。
だが──
細かく決めすぎた、最悪の例だ。
グランは悪魔たちを見下ろして鼻で笑う。
……重要なのは、支配構造と目的だ。
それさえ決まれば、手段は問わない。
駒は動く。
どこまでも。
目的を達する、その時まで。
遅れて到着した狼人たちが、屋根を伝い、狼狽える管理局員らへ無造作に飛びついた。
牙が食い込み、爪が石を砕く。
警備兵が応戦するものの、抵抗など感じないかのように、狼人が喉元に噛み付く。
「つまんねえな。もう終わりか?」
ジルジオの舌打ちとともに、露店のランタンが、踏み潰されるように砕け散る。
それはもはや、戦闘ですらなかった。
ただの“確認”だった。
ここにはもう、抵抗する意思がない。
そのまま、第一陣は止まることなく進む。
吸血鬼が先導し、狼人と火魔法族がその後に続く。
誰も振り返らない。
誰も立ち止まらない。
そのまま、ウルネスの大扉へ滑り込もうとした、その時。
その後方で、一体の影が──空に弾き上げられた。
落下と同時に、花屋の籠を巻き込んで砕けた。
次の瞬間には、別の魔族が数人、まとめて空へ打ち上げられていた。
──天使だ。
「……やはり厄介なのは天使か」
グランはそう呟くと、単騎で魔族数人を相手に圧倒していく天使の戦士を一瞥し、わずかに口角を上げた。
崩れかけた悪魔の隊列。
食い止めようとする天使。
それに群がる魔族。
天使の戦士ひとりで、およそ魔族兵二十人前後──
三、四人程度で囲っても意味はない。
だが、地上の天使は体が環境に適応していないという。
エアフィルターが必要な地上で、これか。
ならば、浮島の戦士たちは、さらに厄介だ。
サハを乗せた貝殻舟を先に進めさせながら、グランは四枚羽を羽ばたかせ、高度を下げた。
風切り音もさせず、戦場の中でも静けさを失わないヴィクトルへと、音もなく近づく。
「ヴィクトル」
感情の色を一切含まない声で、名前を呼ぶ。
ヴィクトルのアクアマリンの瞳が、グランを振り返った。
「片付けておけ」
それだけで十分だった。
大扉の占拠をされないように守ること。
ゼノラ層の資源を抑えること。
悪魔兵や天使の戦士を無効化させること。
あらゆる面倒が、その一言に詰め込まれていた。
だが、ヴィクトルはかすかに眉を寄せただけで、何も言わずに静かに頷いた。
視線を走らせ、街に流れる舗装された川から、水を引き抜くように掬い上げる。
水が、地面を這った。
生き物のように。
靴が濡れたと感じる間もなく、悪魔も天使も、そして市民も区別なく、足元から引きずり倒される。
音は、ほとんどなかった。
体勢を崩した者たちを、水魔法族の兵士らが囲い、拘束していく。
その手緩い制圧に、ビカは舌を打ち、ジルジオは鼻で笑うだけだった。
本陣はヴィクトルらを置いて、ゼノラ側の大扉を潜る。
星層と星層の間にある、夜のような空間を駆け抜け、
やがて視界の先に、次の大扉が現れた。
天へと続くようにそびえ立つ、巨大な門。
蒼殻へと繋がる、ウルネスの大扉。
迷うことなく先陣が扉を抜けた。
途端に、空気が変わる。
乾いていた風が、急に薄くなる。
ノードの街の燃える煙や、ランタンの光、明るい昼の陽もそこにはなく──
眠りに落ちかけたソルが、世界を赤く照らしていた。
星層の大扉以外に何もない、遥か上空に浮かぶ“大扉の島”──ウルスナ。
揺れる空草の青緑の中で、魔族らは思わず足を止める。
全層一の美しさ。
話に聞いて、この光景を想像できた者がいただろうか。
末端の魔族兵だけでなく、ビカも、ジルジオも、そしてグランさえも、
浮島群の美しさに、澄みきった世界に、息を呑んだ。
「……寒いわ」
時が止まったかのような、束の間の静寂。
だが、すぐさま、強すぎる上空の風に煽られ、氷点下の世界にサハが顔をしかめる。
肺が軋むような呼吸。
地上とは明らかに違う環境に、吸血鬼以外が胸を押さえた。




