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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第三幕】止まらない

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348/364

七十九層:止まらない.03


その潮殻舟(ちょうかくぶね)は、()()()()()


貝殻はひときわ大きく、そして古いがよく磨かれていた。

底に重力のウフが埋め込まれ、淡く光を帯びている。


空気を裂くようにかすかに振動し、舟は宙を滑るように進む。

前後左右には吸血鬼兵が護衛し、冷たく周囲を睨みつけている。


血液のような赤いリボンで貝殻は縁取られていた。

サハが「可愛くない」と文句を言ってつけさせた、急ごしらえながらも、上質な布の装飾。

結び目には、それぞれ宝石が縫い込まれている。


舟の内部は、紅い絨毯と暗紅のクッション。

二枚貝の上側は大きく開かれて、もたれるように座るサハがよく見えた。


漆黒と橙のドレス。青白い肌。

珍しく、丁寧に化粧された赤い唇。

一挙手一投足まで「魔族の女王」であることを誇示し、本人は一歩も地面を踏まず、触れさせようともしない。

周囲は彼女の吐く言葉一つ、指先の動き一つに息を呑む。



──はずだった。



だが実際には、“外”に出た瞬間から、サハは興味と興奮が抑えきれなくなっていた。

迷うことなくウルネスの天使領“蒼殻(そうかく)”へつながる大扉へ進軍する中、彼女の甲高い声がグランを何度も呼ぶ。


「ねえ!グラン、あれを見て!あの赤いのは林檎でしょう?採ってきてよ!」


ゼノラ層の()()──“大扉の街”ノードの中心に、大きく枝葉を広げた林檎の木を見つけて、サハは空中から叫んだ。

地べたでは阿鼻叫喚の嵐でも、彼女の乾いた目には映っていない。


いや──


映ったうえで、無視していた。

それは大人の仕事。

自分には関係のないことだ、と。


グランの目線を受け、すいと羽を閃かせたひとりの吸血鬼が、林檎をひとつ捥ぎ取った。

風に乗るように羽ばたいた吸血鬼兵は、手にした赤い実を、グランへ差し出す。

そしてグランは、何も言わず、ただ微笑むだけで、サハへそれを手渡した。


彼女は、それを当たり前のように受け取った。

甘い果汁に、満足げに笑った。

何も知らない子供のように。



サハを乗せた潮殻舟(ちょうかくぶね)は、音もなく空を滑っていく。


眼下では、悲鳴が大きくなっていた。

ソルに照らされているはずのノードの街を、いくつもの黒い影が縫うように駆け抜けていく。


逃げる者。

倒れる者。


それを踏み越えて進む者。


そのすべてを、サハはただ眺めていた。


興味深そうに。

まるで、知らない玩具を与えられた子供のように。



ウルネス層──天使領“蒼殻(そうかく)”へ繋がる大扉。

そこには、ソル・ベリリウムの陽光が彫り込まれていた。

潔が良すぎるほど無駄を省いた線と曲線だけの意匠。



その目前に──黒が並んでいた。



裁判所管轄の悪魔たちだ。


揃いの外套。

揃いの歩幅。

揃いの剣。


抜き放たれた刃には、赤い炎が静かに灯っている。


「──止まれ」


声が、重なった。

命令だった。

問いではない。


それが通ると、信じている者の声音だった。



わずかに、空気が張り詰めた。

先頭を行く火魔法族らの足並みが、かすかに鈍る。


だが──止まらない。


構うことなく距離を詰めてくる真紅の軍勢に、悪魔たちは顔をしかめた。



止まるはずだった。


裁判所の頂点に、何千年と居座る死神の存在。

そして、その死神ダーツが築き上げた“魂の重さ”への信仰。

それが、何よりの盾になるはずだった。


裁定(さいてい)の塔”地下にて行われていた不死実験が露呈してから、まだ一週間と経っていないとしても。


裁判所への信頼の失墜と、ハーウェンへの信仰は別物だと、信じていた。



だが──


次の瞬間。



切っ先の炎が、揺れた。


いや──()()()()()()


「……は?」


誰かが声を漏らす。


燃えていたはずの剣の炎が、

引き剥がされるように、ひとつの方向へと流れていく。



「──生温いな」



ビカだった。


片手を上げただけで、悪魔たちの炎が、すべて彼女のもとへ吸い寄せられていく。

それはひとつの火球に姿を変えて、まるで、小さな燃える星が、

ビカの手のひらの上に浮かんでいた。


「な……なにがおきた?!」


初めて見る現象だった。

剣に埋め込まれたウフが、機能していない。

裁判所支給の揃いの武器だ。

自分の鍵ではない。


だが、それでも──


適性のある炎が、消えた。

……いや、違う。



──()()()()



炎のウフで生み出した熱が、まるごと。

燃えるような赤髪の、小柄な女の手の中にあった。



対処法が定まっていない事態に対して、悪魔は最も弱い種だった。

前例がない。

命令が飛ばない。

動けない。


自らの鍵を握って戦っていいのかすら、上官の判断なしには動けない彼らは、頭上を素通りしていく吸血鬼たちを、ただ見上げることしかできなかった。


彼らが同じ信仰の元に生きていると信じ切っていたこと。

それこそが、悪魔らにとって最大の誤算だった。


「どこから来たんだあれらは?!」

「報告によると、ノクタリスの大扉から続々と侵攻していると──」

「開かずの扉が…?だったら──あれが、魔族だっていうのか……?!」


何千年と開くことがなかったプツカ・ポッカの大扉。

魔族が自ら閉じこもったとされる、その扉から、溢れかえるように飛び出してきている。


「報告を上げろ!指示を仰げ!」


星層間(せいそうかん)管理局員を押しのけ、ゲートすら破壊する勢いで通り抜けていく魔族たち。


……数が、違いすぎる。

その大多数がノードの街を素通りし、天使領へと向かっていることに気が付くと、悪魔兵らは強張った顔を見合わせた。


天使領では、現在“怪物ジャック”の審問という名の戦争の真っ最中のはずだ。

その真ん中に、魔族らがなだれ込もうとしている。


「……急げ。天使領が陥落すれば、同じウルネス層の悪魔領まで――あっという間だ。」


もはや誰も魔族を止めようとはせず、

悪魔兵らは市民の救助と裁判所への報告に走った。



「なにあれ?あれでおしまい?」


サハがあっさりと撤退していく悪魔たちを見下ろす。

グランは軽く肩を竦めて答えた。


「悪魔とはそういう種族だそうです。規律に忠実すぎて──なにも自分で決められない」


規律に生きるのは動かしやすくて理想的だ。

ルールさえ決めてしまえばいい。

個よりも規範を守れる集団は、それだけで強い。


だが──

細かく決めすぎた、最悪の例だ。


グランは悪魔たちを見下ろして鼻で笑う。


……重要なのは、支配構造と目的だ。


それさえ決まれば、手段は問わない。

駒は動く。


どこまでも。


目的を達する、その時まで。



遅れて到着した狼人(ウェアウルフ)たちが、屋根を伝い、狼狽える管理局員らへ無造作に飛びついた。

牙が食い込み、爪が石を砕く。

警備兵が応戦するものの、抵抗など感じないかのように、狼人(ウェアウルフ)が喉元に噛み付く。


「つまんねえな。もう終わりか?」


ジルジオの舌打ちとともに、露店のランタンが、踏み潰されるように砕け散る。

それはもはや、戦闘ですらなかった。

ただの“確認”だった。


ここにはもう、抵抗する意思がない。



そのまま、第一陣は止まることなく進む。


吸血鬼が先導し、狼人(ウェアウルフ)と火魔法族がその後に続く。


誰も振り返らない。

誰も立ち止まらない。


そのまま、ウルネスの大扉へ滑り込もうとした、その時。


その後方で、一体の影が──空に弾き上げられた。


落下と同時に、花屋の籠を巻き込んで砕けた。

次の瞬間には、別の魔族が数人、まとめて空へ打ち上げられていた。



──天使だ。



「……やはり厄介なのは天使か」


グランはそう呟くと、単騎で魔族数人を相手に圧倒していく天使の戦士を一瞥し、わずかに口角を上げた。


崩れかけた悪魔の隊列。

食い止めようとする天使。

それに群がる魔族。


天使の戦士ひとりで、およそ魔族兵二十人前後──


三、四人程度で囲っても意味はない。

だが、地上の天使は体が環境に適応していないという。

エアフィルターが必要な地上で、これか。


ならば、浮島の戦士たちは、さらに厄介だ。


サハを乗せた貝殻舟を先に進めさせながら、グランは四枚羽を羽ばたかせ、高度を下げた。

風切り音もさせず、戦場の中でも静けさを失わないヴィクトルへと、音もなく近づく。


「ヴィクトル」


感情の色を一切含まない声で、名前を呼ぶ。

ヴィクトルのアクアマリンの瞳が、グランを振り返った。


「片付けておけ」


それだけで十分だった。


大扉の占拠をされないように守ること。

ゼノラ層の資源を抑えること。

悪魔兵や天使の戦士を無効化させること。


あらゆる面倒が、その一言に詰め込まれていた。


だが、ヴィクトルはかすかに眉を寄せただけで、何も言わずに静かに頷いた。

視線を走らせ、街に流れる舗装された川から、水を引き抜くように掬い上げる。



水が、地面を這った。

生き物のように。



靴が濡れたと感じる間もなく、悪魔も天使も、そして市民も区別なく、足元から引きずり倒される。

音は、ほとんどなかった。


体勢を崩した者たちを、水魔法族の兵士らが囲い、拘束していく。

その手緩い制圧に、ビカは舌を打ち、ジルジオは鼻で笑うだけだった。


本陣はヴィクトルらを置いて、ゼノラ側の大扉を潜る。


星層と星層の間にある、夜のような空間を駆け抜け、

やがて視界の先に、次の大扉が現れた。


天へと続くようにそびえ立つ、巨大な門。


蒼殻(そうかく)へと繋がる、ウルネスの大扉。



迷うことなく先陣が扉を抜けた。



途端に、空気が変わる。



乾いていた風が、急に薄くなる。

ノードの街の燃える煙や、ランタンの光、明るい昼の陽もそこにはなく──

眠りに落ちかけたソルが、世界を赤く照らしていた。



星層の大扉以外に何もない、遥か上空に浮かぶ“大扉の島”──ウルスナ。



揺れる空草の青緑の中で、魔族らは思わず足を止める。


全層一の美しさ。

話に聞いて、この光景を想像できた者がいただろうか。

末端の魔族兵だけでなく、ビカも、ジルジオも、そしてグランさえも、

浮島群の美しさに、澄みきった世界に、息を呑んだ。



「……寒いわ」



時が止まったかのような、束の間の静寂。

だが、すぐさま、強すぎる上空の風に煽られ、氷点下の世界にサハが顔をしかめる。


肺が軋むような呼吸。

地上とは明らかに違う環境に、吸血鬼以外が胸を押さえた。



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