七十八層:止まらない.02
灰色の病院の中は、あまりにも静かすぎた。
歩ける者たちが数人がかりで、ジールたち重症患者を抱えるが、ヒヨの後ろをついて行くのを戸惑ってしまう。
天井のウフ灯も、泥も砂もない家屋も、全部が自分たちの場違いさを突き付けてくるようだった。
「……おい、あいつはなんて言ったんだ」
カルカロがジールに肩を貸しながら、グリグジャングに問いかけた。
目線は先を行くヒヨに向いたまま、警戒は一切解けていない。
「……妖精語で、ドクターが待ってるって言ったんだよ」
魚人たちは、魚人語しか話せない。
魔族語でさえも、ここではグリグジャングとギルしか使いこなせなかった。
まして、外の層の言葉なんて──銘族でも、堪能な者はそういない。
俺は、銘家だからこそ、全部の言葉を子供の頃に一通り学ばされただけだ。
……いつ使うかも分からない、外の言葉を。
知識こそが財産だと、有無を言わさず叩き込まれてきた。
ヒヨに促され、グリグジャングたちは診察室ではなく、大部屋に通された。
清潔なシーツに包まれたベッドが、整然と並んでいる。
部屋の中には既に人影があった。
女がふたり。
ひとりは枯れかけの紫陽花のような髪色の、全身ツギハギの女──シマだ。
それともうひとりの女は……初めて見る。
濃紺の髪と、分厚い耐熱服と色の濃いゴーグル。
どちらも病院には似つかわしくない出で立ちだったが、急いで病室を用意していたようだった。
枕の数を数え、窓を開けて換気をしている。
ふたりはグリグジャングたちが病室の入口に現れると、作業の手を一瞬止めた。
見えなくても、ゴーグルの女の眼差しが揺れたのが分かる。
「予想より早く着いたな」
ぬるりと──
扉の裏側から、長身の男が姿を現した。
湿った土のような匂いを纏う、地を這うような低い声。
灰色のザンバラ髪と、表情を覆い尽くす包帯の奥で、片目だけの金の瞳が見下ろしてくる。
「……ドクター。ちゃんと連れてきた。こいつらを診てくれ」
グリグジャングが一歩前に出た。
その背後であからさまに警戒するカルカロやギルたちを一瞥し、ドクターは無表情のまま答える。
「ひとりずつ診る。まずは全員シャワーを浴びたまえ。人手は足りていない。清掃の手間を増やすな」
嘲りでも、苛立ちでもない。
病院としての清潔を保つための指示だ。
すぐさまヒヨがシャワー室への道を指し示す。
「共同シャワー室です。三名ずつ利用できます」
「三階は君たち以外、現在は立ち入り禁止にしている。ノクタリス層の毒とやらは、まだ未知が多い」
ドクターは魚人たちの反応の鈍さを、言語の不理解だと瞬時に察した。
……通訳が必要だ。
そして、すべての“患者”を見渡し──
「グリグジャング。君は残って訳せ。まずは、その体が一番大きい者からだ」
青いゴム手袋を嵌めた手で、すっと、ドクターはジールを指さす。
ピクリと、カルカロの眉が寄る。
「ヒヨ、順番にシャワー室へ連れて行け。着替えも忘れるな。グリグジャング、指示しろ。時間がない」
「時間がない……?」
重症なのかと、グリグジャングは焦りを見せた。
だが、ドクターは人数分のカルテを取り出しながら、小さく鼻を鳴らす。
「いずれ、患者が津波のようにやってくる」
それだけで十分だった。
ドクターは知っている。
今まさに、ノードの街で火の手が上がっていることを。
大扉が開き、魔族たちが侵略と略奪を始めたことを。
すべては、窓枠に張られた蜘蛛の巣が知らせている。
グリグジャングは拳を固く握り、カルカロたちを振り返った。
「……ジールから診てもらう。その間に三人ずつ、体を水で洗って着替えろってよ」
「着替える?」
ギルが眉をあげた。
イッカクが自分の体を見下ろした。
水鎧を纏ったせいで、ボロにさらに海水が染み込んでいることを思い出す。
廊下には、泥の足跡がはっきりと残っていた。
ちょうどその時、半身が機械の子供──サブが、ワゴンを押して現れた。
潔癖なほど白い入院着が、何着も山になっている。
「……何人か、サイズが足りないかも、ドクター」
「仕方あるまい。規格外だ。……これほど体が大きい者は、最近見なくなった」
サブの言葉は、悪魔語だった。
さらりと返しながら、ドクターはジールの診察に取り掛かろうとした。
だが、カルカロが、低く唸りながら歯を剥いた。
二重の牙が覗き、ドクターの金の目をカルカロの赤い目が睨めつける。
シマが遠巻きに「うわ!」と声を上げた。
……あっちは、天使語かよ。
「……話をつけろ、グリグジャング。君の仕事だ」
けれど、ドクターは怯みもせず淡々と続けた。
手も、止まらない。
カルカロを完全に無視し、小さなライトで虹彩を確認し始めた。
「カルカロ、ドクターは大丈夫だ。薬を飲んで、もう分かってるだろ」
ドクターに押しのけられてもなお、威嚇を隠そうともしないカルカロの肩を掴んだ。
鋭い目がグリグジャングを射抜く。
「テメーはすぐに信用しすぎるんだよ」
舌打ちをひとつ、落とした。
ジールを診るドクターの手元を漏らさず追いながら、カルカロはイッカクやジェリーたちに顎で指示を出した。
「お前ら、先に水浴びてこい。俺はこの医者ってやつを見てる」
「……水浴びるって、どこで?」
「ヒヨって奴が教えてくれる。あの赤髪の奴についていけば分かる」
ジェリーの当然の疑問に、グリグジャングは入口で待っているヒヨを指さした。
お互いに目配せして、真っ先にイッカクが歩き出す。
「じゃあ俺最初に行ってくる!」
「待って、私も〜」
追いかけるジェリーに気がついて、イッカクが照れくさそうに、彼女が追いつくのを待った。
それを横目で見ながら、カルカロがギルを呼ぶ。
「……ついて行ってやれ、ギル。あの赤髪の方、見張ってろ」
「アニキが大丈夫って言うなら、大丈夫なんじゃないのか?」
「は。こいつはなんでも甘すぎる。何かあってからじゃ遅えだろ」
カルカロは腕を組んで壁に寄りかかった。
灰色の壁に、背中の海水がじわりと沁みる。
それを見たサブが隠そうともせず顔をしかめた。
だが、何も言わないまま、入院着だけを置いてドクターのそばに寄る。
グリグジャングは零れそうになった溜息を飲み込んだ。
無意識に、薬煙草を咥えかけた。
唇に触れる寸前で──ゴーグルの女が戸惑うような視線を向けてきていることに気が付く。
「……ああ、大丈夫だ。火はつけねえから」
とりあえず、悪魔語で答えた。
この病院は、悪魔語も妖精語も、そして天使語も入り混じっている。
どれを使えばいいのか、分からなかった。
「あんた、初めて会うよな。……いきなり押しかけて、びっくりしただろ」
「悪いな」と短く続けた。
病院なのだから、患者が来て迷惑なんてことはないはずだ。
だが、普通の患者じゃないことくらい、分かっていた。
ゴーグルの女は一瞬驚いた顔をして、それからやんわり笑った。
「確かにびっくりしたけど、ドクターに事前に言われてたから、大丈夫だよ」
流暢な妖精語の声は、ひどく優しい響きだった。
“毒のない世界”で育ったら、こうなるのかと思わせるような、柔らかい声だった。
「私、ユヴェ。正確には医療従事者とかではないんだけど……今、一時的にここのお手伝いをすることになってるの」
「へえ……」
詳しくは聞かなかった。
善意で病院の手伝いをしているのか。
あるいは、なにかの理由があるのか。
ただ、初対面で向けられたことがないその優しい声が、この先壊れなければいいと思った。
……どの口が、って感じだが。
今も魔族はどんどんゼノラへ、そしてウルネスへの侵攻を続けている。
いずれ、この病院にも来る。
そうなれば、きっとこの柔らかい声は、
自分たちには向けられなくなる。
誰かを救いたいだけなのに。
ひとつ皿を下げれば、地続きで他の皿が上下する。
──複雑すぎる天秤を、持て余している。
グリグジャングは重たい息を吐いた。
まるで、煙草の煙を細く長く吐き出すように。
病室の一角では、少人数ずつ体を清めた魚人たちが、代わる代わるドクターの診察を受けていく。
ドクターは淡々と、流れるように、だがひとりひとりを丁寧に診て、傍にいるサブに何かを伝えていく。
体の重さ。大きさ。
眼の揺らぎ。舌や爪の色。
心臓の音──
唾液や鰓の構造まで、すべてを詳細に記録しながら、だが、無駄がなく、速い。
診察を終えた魚人たちは、順にベッドへ移されていった。
毒どころか、泥も海水も存在しない場所。
初めて触れる空間だった。
布の張られた場所に体を横たえる経験のない者たちは、緊張で体を強張らせている。
動ける者たちは自然と集まり、ひそひそと不安げに話し合っていた。
ヒヨは休む間もなく、病室を出入りしていた。
ドクターの短い指示を受けるとほぼ同時に、体が動いている。
長年勤めていることがわかる、削ぎ落された意思疎通だった。
一方シマは、体を動かせない重傷者を、その細腕で軽々と抱き上げて運んでいく。
自分の倍近い重さがありそうな成人魚人を、あのツギハギの腕で……
彼女の口元のエアフィルターを、グリグジャングは改めて見た。
そして、前回来たとき屋上の扉を破壊したことを思い出す。
……天使と狼人、どっちが強靭なんだろうな。
そんな中、ユヴェが小さな手帳を片手に持ち、グリグジャングへ歩み寄ってきた。
「……ねえ、みんなが話してるのは、何語なの?」
壁際でひそひそと話す魚人たちを見ながら、そう聞いた。
事前にドクターに聞いたのは、大人数の患者がくる、ということだけ。
鍵職人として多くの扉を繋いだユヴェでも、見たことのない種族と、聞いたことのない言語だった。
まだ自分が知らない種がいるという事実に、
かすかな戸惑いが滲んだ。
……ほとんどの地点に扉を繋いだと思っていたんだけどな。
グリグジャングはちらりとユヴェを見下ろし、ほんの一瞬沈黙した。
「……魚人語だよ」
低く、短く答えた。
妖精語を話す彼女に合わせて、今度は自分も妖精語で答えた。
さっきまで悪魔語を使っていたグリグジャングが妖精語を話したことに、ユヴェは驚かなかった。
ゼノラ層では、言語の違いが当たり前に存在している。
でも。
「……私に合わせて妖精語に変えてくれたの?」
自分の種の言葉を話し、
他人の言葉を聞き取るのが普通だ。
相手に合わせて言葉を変える者は、ほとんどいない。
話せることよりも──
言葉を変えてくれたことに、純粋に驚いていた。
グリグジャングはユヴェの反応に、片眉を上げた。
そんなにおかしなことをしたつもりはなかった。
「?……発音、違ったか?」
「いや──そんなことないよ。少し……古い気もするけど……」
慌てて手を振って否定した。
「相手に言葉を合わせてあげるって、初めてだったから」
……そんなもんなのか。
そうしなければ、意思疎通ができない。
必要に迫られて、そうしているだけだと思っていた。
だが、確かに言われて気が付いた。
ここの奴らはみんな、どの種族の言葉も理解している。
どれかに統一しても、いいのか。
けど──
「……その方が、伝わりやすいだろ」
歩み寄れるなら、歩み寄りたい。
手が取り合えるなら、その可能性を守りたい。
理由はそれだけだった。
……たぶん。
いや、本当は──きっと、これ以上嫌われたくねえだけだ。
子供のころから否定ばかりされて。
自分だけじゃない。
魔族の大多数を占めるネイムレスも、異形種も、存在を無視されるように生きていたから。
そういう奴らの傍に立ち続けたいからこそ、なんだろうな。
声には出さず、そんなことを考えた。
言葉にできるような、綺麗な理由じゃないと、
誰より理解していたから。
ユヴェは黙ったグリグジャングを見て、それから手帳へと視線を落とした。
一拍の沈黙が落ちる。
「……魚人語を教えてくれる?」
ペンをくるくる回しながら、もう一度ゴーグルの奥からアクアマリンの瞳を見上げる。
グリグジャングは息をのんだ。
まさか、そんなことを言われるとは思ってもいなかった。
理解しようとしてくれてる。
歩み寄ろうと。
不安に肩を寄せ合うあいつらに、少しでも届くように。
コートのポケットの中で、ぐ、と拳を握った。
気付かぬうちに、口角がかすかに緩んでいた。
「……話しかけやすいのは、ジェリーからだな」
そう言いながら、足はすでにジェリーの方へ向いていた。
「ジェリー」
名前を呼ばれて、ジェリーがふわりと振り返る。
傍にいたイッカクが警戒の眼差しをユヴェに向けた。
ユヴェは顎を引いて、それでもグリグジャングの後に続いた。
言葉は、まだ届かないかもしれない。
それでも。
歩み寄ろうとするその一歩だけは、
確かに、ここにあった。




