百二十七層:引火点.04
バンズとゾムリス、そして凌を乗せた滑空船がヴェルトルクの港へ停泊した。
ソルは高く、白く空を照らしていた。
だがグリヴェスよりも低空に浮かぶここでは、雲が多いせいか、足元に影が落ちたり晴れたりを繰り返している。
天使の浮島は全層一美しいというのは、どうやら本当らしい。
空の真ん中に浮遊する島。
遠くに見れば小さいが、実際に降り立つと普通の地面となんら変わりなく草を踏んだ。
“交易の島”の喧噪は、ここにはない。
田舎島に分類される、“戦士の島”ヴェルトルク。
人工の気配が薄いこの浮島の方が、凌の性に合っていた。
高空の冷たい風が凌の短い灰銀の髪をさらう。
のどかな風景を見回して、凌は肩から羽織が飛ばないようにそっと抑えた。
「こっちだ」
港の天使と短く言葉を交わしたゾムリスが、振り返って手招いた。
何人かの戦士らしき天使たちが、物珍しげに凌を見つめてくる。
ゾムリスに続いて進むバンズ。
一拍遅れて、凌は彼らの背を無言で追いかけた。
途中、小さな街を抜けた。
この島に暮らす島民たちだろう天使たちは、軽くゾムリスへ声をかけながら、パンを焼いたり、洗濯物を干したりと、日常を過ごしているようだった。
バンズは、彼らから一歩引いて立っている。
凌はふたりの微妙な立ち位置の違いを意識しながら、そののどかな島の様子を、更に一歩引いた場所から眺めていた。
…戦争前とは思えないな。
小さな広場では、戦士たちが穏やかに声を交わしながら、島民の手伝いをしていた。
共同井戸のそばでは、白い衣の男が手話で子供たちに絵本を読んでいる。
言葉はなくても、笑い声があった。
子供らも当然のように手を動かしているのを見る限り、これが日常らしい。
一瞬、手話の男と目が合った。
けれど凌は、その意味を受け取らぬまま、空を見上げた。
……バンズたちと居るからか、敵意はどこからも感じない。
あまりに静かで柔らかい空気は、居心地の良さすら感じさせた。
「……なあ、あんた、また“死角”にでも立ってるのか?」
不意に、魚屋に軽い挨拶を交わしたバンズが振り返る。
その声に引かれるように、ゾムリスも振り返った。
凌は静かにそれを見返し、小さく頷いた。
「やっぱりね。誰も声をかけてこないと思ったよ…」
「…不都合ないだろ」
「言っちゃ悪いが……やっぱ不気味だねえ、妖怪ってやつは」
あまりに率直な言葉に、凌は鼻で小さく笑った。
ゾムリスは何も言わない。
まだ警戒を滲ませる目で一瞥して、そのまままた歩き始めた。
しばらく土の道を歩いていくと、やがてイデラ層にあるコロシアムに似た石造りの遺跡が見えてきた。
入り口は崩れかけ、積まれた石も相当な年季が入っているのがわかる。
蔦が絡み、石畳の隙間には草が覗く。
──それなのに、不思議と澄んだ空気が流れていた。
「この中にいるんだ」
「……へえ」
それ以上の感想を持つほど、この世界に期待していない。
闘技場を見上げるバンズの横に凌も並んだ。
「──会う前に、忠告しておく」
入口前まで来て、くるりと振り返ったゾムリス。
橙の目が、まっすぐ凌を見つめた。
「ちょっと気難しいやつなんだ。……でも、悪いやつじゃない」
多くを語らず、それだけ伝えてゾムリスは体を避けた。
促すように、闘技場の入り口へ誘う。
凌はそんなゾムリスを見やり、おもむろに足を踏み出した。
闘技場の中は、外から見るより廃れてはいなかった。
そこは誰かが住んでいるというには、あまりに自然に溢れていたが、誰かが常に踏むからこそ、石畳には草がない。
すり鉢上に積み上がる石の階段。
円形の闘技台。
その中央に、突き刺さったままの大きな両手剣。
──人類の寓話みたいな世界だな。
誰かが傷を残し、誰かがその上を歩いて、生きている。
ふとそんなことを思った時、凌の視界の端に何かがちらついた。
そちらを向けば、長い銀の髪を風に躍らせるひとりの男が、観客席の最上段に腰を下ろしているのが見えた。
一瞬、凌は息を呑んだ。
その男が、あまりにも美しかったから。
……恐ろしささえ感じさせるほどの造形美。
空気が、ひと呼吸ぶん、止まった。
ポケットに入れたままの包帯の手が、ほんのわずかに震える。
妖怪として生きてきた凌には、よく分かっていた。
整えられた見た目というのは──捕食者であることを示している。
他人を惑わせ、狂わせ、美しいというだけで、心の中へと簡単に滑り込む。
……この男の見た目は、今まで見た誰より綺麗だ。
目を逸らしたくなるほど。
だから余計に、よく見なきゃいけない。
長い手足を無造作に折りたたみ、静かにこちらを見下ろしてくるエメラルドグリーンの瞳。
その男の周りには、謎の銀の球体が重力に逆らって浮遊していた。
くるりと、まるで男の周りを公転するように回る。
「……変なのが来たな」
風に乗って届いた声には、いっさいの色がなかった。
ただ、敵意もそこからは感じられなかった。
「心拍が異常。天使のそれとは大きく異なります」
「へえ。じゃあなんなんだよ」
「……私のデータベースには存在しません。生物として、生きているのが不確かなほどに、リズムがおかしい」
ずいぶんな言われようだ。
凌はかすかに眉を寄せた。
そして、後ろに立っているバンズとゾムリスが、かすかに動揺したことに気が付いた。
それは浮く銀球が“話せる”という事実を初めて知ったからだったが、
凌にとってはどうでもいいことだった。
昨今の人類科学じゃ、薄い板だって流暢に話す。
謎の球体と当たり前のように話す男──ジャックは、そんな凌をまっすぐ見つめる。
まるで、見抜かれているようだった。
「いろいろ言いたいことはあるけど……顔色、だいぶ良くなってて安心したよ」
沈黙を破ったのはバンズだった。
ひらひらと手を振りながら、凌の隣に並んでジャックを見上げる。
ゾムリスは慣れた手つきで煙草に火を灯す。
後から集まった島民や戦士たちを足止めするように、闘技場の入口に寄りかかりながら。
ジャックのエメラルドグリーンの目は、凌から離れない。
「……読んだろ」
「号外のことか」
「なら、話が早いな。裁判所脱走の時、ガットと一緒にいた奴だ。……こいつが証人ってわけ」
羽織の鮮やかさに、本人の色が薄れて見える。
ジャックは、その初めて見る生き物を無遠慮にみた。
白い。いや、色がねえ。
肌も髪も血の気がねえどころか、光に透けるみたいに存在そのものが薄い。
最初はガットに似た気配を感じたが、よく見れば、まるで別種だった。
悪魔とも天使とも違う。
生きて動いてる。なのに、なぜか“死んだ奴”の匂いがする。
「あんたがジャック?」
声まで風に抜けるような透明感があった。
「だから?」
「頼まれたからきた。──ガットにじゃないけど」
「……」
「……本当に誓約を破って逃げたよ」
前後を省いた、あまりにも端的な言葉だったが、それで十分だった。
凌の平坦な声が続く。
「残念だけど証拠はない。ガットの痕跡なんて、残るはずないの知ってるだろ」
銀色の球体──ネクが軽く光を明滅させながら、ゆっくり回る。
ジャックの目が細められる。
しばらく沈黙が降りた。
それからジャックはゆっくりと立ち上がると、視線をネクに向けた。
「……ネク、聞いたか?」
「はい。音声・映像ともに記録済み。証明能力としては弱いですが、嘘の兆候は見られません」
──あの銀球が返事してる。
バンズやゾムリスと同じように、初めてネクが喋る瞬間を見た島民や戦士たちがざわめいた。
雲が太陽を覆った瞬間、闘技場に影が落ちた。
落ちた影が凌を隠す。
ジャックは、雲の影一つで輪郭が曖昧になるその様子を、懐かしむように見つめる。
「いや、待っ…そいつ話せるんすか?いや、てか、それホントっすか?!」
闘技場の入口からひとつの声──アウディが叫んだ。
凌が返すより先に、ざわめきが広がる。
「…ガットが生きて逃げたなら、どうなるんだ?」
「そりゃ、ジャックがここで暇潰す理由がなくなるだろ」
「クリスに好き勝手されてきたから……今度こそ全面戦争か?」
聞こえる声に、凌は目を細めた。
…たぶん深い意味はないだろうけど、まるで、戦争を望んでるようにも聞こえる。
ちらりと視線を向けると、丁度ひとりの天使がパンパンと手を叩いた。
ラスターだった。
「やあやあ、みんなが何を言っても、決めるのはジャックだ。そうだろう?」
軽い口調で、周囲の声を黙らせる。
ゾムリスが長く煙を吐いて、静かに言葉を足す。
「…ジャック、どうするかの決断は、急がなくていい」
それに続いて、バンズもジャックを見上げて言った。
「とはいえ、ガットが生きて逃げたってことが事実かどうか──それはちゃんと、伝えておきたくてね」
ジャックは何も言わなかった。
ただ、凌に注いでいた目線を戦士や島民たちに流し、そしてもう一度、凌へ戻す。
やがて、おもむろに口を開いた。
「──ガットは、なんか言ってたか?」
短い問い。
凌は言葉を選ぶまでもなく、そのまま答える。
「……”天使領に残してきた奴がいる”」
「……」
凌は少しだけ空を見上げた。
「だから、帰るって」
ジャックは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そこにいつもの皮肉も怒気もなく、ただ沈黙だけが落ちた。
闘技場に流れる風の音が、妙に大きく響いていた。
──誰も、その音を破ろうとしなかった。




