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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第二幕】引火点

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百二十八層:引火点.05


ジャックはすぐには答えなかった。

廃闘技場に吹き込む冷たい風が彼の銀髪を揺らし、片耳の紫の石がかすかに光る。


少しの沈黙が降りたのを機に、凌は闘技場の中を見渡した。


深い傷、浅い傷、新しいもの、古いもの。

長い時間を感じさせるそこは、天使という種族が積み重ねてきた歴史の息吹を感じさせる。


また、新しい傷を作るかもしれないと思うと、小さなため息が出た。


「……どんな種族も、争いが絶えないね」


まるで、自分の中にも小さな戦争があるみたいに。

壁の傷を見つめながら、凌がぽつりと呟いた。

思わぬ沈黙破りに、その場にある多くの目線が彼へ向く。


「とくにあんたらは、“誇り”を掲げて戦うんだろ。……目に見えもしないものを頼りに」


飄々と、そんなことを言ってのける凌に、ジャックはただ黙っていた。

ネクがかすかに高度を下げ、機械眼を向ける。

凌の隣に立っていたバンズが、困ったように肩をすくませた。


「……そりゃあ立場が違いすぎて、説明が長くなりすぎるよ」

「へえ?」


凌が片眉を上げる。


「立場って……そんなの()()()()()()()()()()()()


その言葉に、ジャックがわずかに眉を上げた。

凌は構わず、淡々と続ける。


「別に(そう)が違うとか、文化が違うとか、そんな話じゃない。主語を大きくする必要なんてない。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()──

戦いになるかならないかの差は、それだけのことなんじゃないの?」


紅い目は、まるで風に溶けるように遠くを見ていた。

ジャックを向くことはないが、遠くを見つめる眼差しはどことなく優しい。


ジャックは、短く笑った。意味のない笑いではなく──ようやく誰かに、誇りを問われた気がして。


「……そりゃずいぶんと博愛主義だな」


ジャックのぶっきらぼうな声が落ちた。

凌は肩をすくめるだけだった。風がその仕草を撫でていった。


「世の中、名前が残る奴らばかりでできてない。むしろ、歴史の“行間”にいる奴らが、どれだけ慈悲を持って生きられたか。それに尽きるんじゃない」


ジャックは返さなかった。

けれど、その瞳の奥でわずかに何かが揺れた。


それは英雄信仰が根深い天使種には、なかなか生まれない目線だった。

島民や戦士らが口を噤んだまま、じっと凌の背を見つめる。


二十年前、ジャックが新年の儀で言い放った言葉が蘇る。

『誰であれ、力で捩じ伏せて、他人の命を奪っちまうような業火を……英雄って崇めること自体、馬鹿らしいだろ』

あんな鋭い刃ではない。

口調も声も優しいけれど、

言っていることは、かつてのジャックと変わらないように聞こえた。


ジャックは静かに目を伏せる。


名を残すことが強さの証なら、クリスは“名の残らない誰か”を救う社会を作ってきた。

それって、この男が言ったことと、そう変わらねえよな?

それは、天使としても、きっと誇るべき信念だったはずだ。


どこかでストンと腹落ちした。

長い間交わらなかった、正義の道を、ようやく視界に捉えたような感覚。


──でも。


名前のねえ奴らばかりに目が向いて、力のあるやつは他人のために生きろと否定し、声を奪い、正義の名で『黙らせる』方へ傾いているなら。


それは──違うだろ。


その言葉は、喉の奥で溶けた。


「……なあ、テメー、凌とか言ったっけか」


紙面で見た名を思い出しながら、ジャックは凌に声をかけた。

どこかを見ていた紅い目が見上げてくる。

その色が、夕暮れの太陽のように見えた。



()()ってなんだよ」



一瞬の間。


すり鉢状の闘技場へ風が吹き込んだ。

ジャックの長い髪が靡く。凌の鮮やかな羽織も。


まるでジャックを中心に巻くような圧があった。

ダーツを前にして覚えたような、視線を絡め取る感覚を凌は思い出していた。

でも、あの死神の恐怖を覚える引力とはものが違う。

もっと力強く、熱く、惹き込まれる力。


……きっとこの男の魂も、重いんだろうな。


そんな事を思いながら、口を開いた。


「……本当の意味なんか知らないけど、でも」


ぽつりと、凌の語尾が溶ける声が落とされる。


「名前のあるなし関係なく、”今、手を伸ばせば届く範囲にいる誰か”に花を持って接する。俺にとっての慈悲って、そういうことだよ」

「……」

「もしそれが嫌いな奴でも、一度は手を伸ばすことにしてる」


…教科書みてえな答えだな。

ジャックはかすかに鼻で笑った。


バンズが帽子を抑えながら、横目で凌を見つめた。

全員が、それだけの度量を持ってりゃ、どの世界でも争いなんか生まれない。

それでも擦れるからこそ、戦争はなくならない。

譲れない自分の芯を、誰もが必ず真ん中に持っているから。

でも凌の芯は、まるで一度削れることを前提としているような在り方に見えた。


誰かと擦れてなお、他人を傷つけるのではなく。

その軸自体が、他人との境界に立っているように。



「でも、別に顔も知らない誰かのためにやってる訳じゃない」



視線を逸らしかけていたジャックの瞳が、不意に戻った。

達観の上に成り立つような、自分を蔑ろにするような発言は好きじゃない。

そう吐き捨てようとした矢先に、凌は淡々と告げる。



()()()()()()()()()()。一度会ったくせに、見て見ぬふりした後悔を、後で背負いたくないから」



それは慈悲を自己都合だと、はっきり言い切るものだった。

心が他人に向いていないまま、自分のために手を差し伸べる。

さっきまでの美しい言葉たちが、裏返る感覚。

優しい声のくせに、色ののらない平坦な響きの理由が納得できた。


でも、他人のために生きろとただ告げてくるクリスより、何十倍も理解ができる。


闘技場をひとすじの風が抜けた。

それが、誰の答えでもあるように思えた。


「……自分のため?見返りが欲しいだけなんじゃねえのか」

「言っただろ。後で自分がこうすりゃ良かったって思わないためだけにやってる。──見返りが欲しいなら、多分一度きりじゃ済まないと思う」


凌はポケットの中から片手を抜いた。

包帯が巻かれたその手を見つめながら、言葉を足す。


「”恩送り”って言って、自分が受けた恩を、別の誰かに渡す。そうすれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……」

「俺はただ──ずっと恩を背負い続けるのが、息苦しくて、無理なだけだけど」



獏の粛清から救ってくれた悪魔──その娘を今度は守るように。

いつか、亜月が自分から受けた恩を、また別のやつに使ってくれれば、それでいい。



「慈悲って、輪なんじゃないかって最近思う。ハーウェンの輪。死が救済とかじゃなくて──世代を超えて、生き繋いでいくもの」

「……」

「……俺にとってはね。あんたのは知らない」


風が、闘技場の塵を巻き上げていった。


投げやりに聞こえるのに、どこか余白を残す言葉を落として、凌は黙った。

ジャックはしばらく何も言わなかった。

でも言葉が届いていないわけではなかった。

むしろ、いままで自分が無自覚な上で、いつの間にかヴェルトルクを変えていた理由が、ほんの少し理解できたような気がした。


全部自分のためだった。

誰かのためにって本気で動いたのは、ガットの命を守る時だけだ。

でも、島民の手伝いを断らなかったのは、なんでだ?

暇だったから手伝っただけだと思ってた。

……本当は、無視して距離できるのが、なんか……居心地悪かっただけかもな。

グリヴェスとの交易路をつないだのも、自分の食い扶持だけにしなかったのは…?


あの時の自分の気持ちを思い出すには遠すぎる。

でも、その時の小さな面倒や、手助けが、折れかけた自分を支えてくれたことは確かだった。


──恩送り。ハーウェンの慈悲の輪。

神獣の言葉に左右されるのは好きじゃねえが、反論したいほど、自分の中に答えはなかった。



「……ゾムリス」


話を黙って聞いていた男の名前を呼ぶ。

入口前で煙草を吸っていた彼が顔を上げた。

しかし、ジャックの目線は、凌を一瞥した後、大剣へと移っていた。


「……あいつが逃げたなら、それで十分だ」


話題の急な戻り方に、ゾムリスはわずかに肩を揺らした。

「なら…」とゾムリスが言いかける。

だが、ジャックはゆっくりと首を横に振った。


「でも、ガットは帰ってくる気でいる」

「……」

「クリスは許さねえだろうな。社会ってやつも。俺らふたりが揃うのは、一番怖えだろ」


皮肉でも(あざけ)りでもない。

ただ事実を告げる声だった。


風が、闘技場の中央を抜けた。

砂がわずかに舞い上がる。


「ただ放っておいても、あいつは帰ってこれねえ。──だろ」


ジャックの目線は揺るがない。

静かだった空気に、微かに火が灯るような“何か”が走った。


──ガットが身を隠せば、誰にも見つけられねえ。

ただそれは、止まった時間の中で走り続けるような、一生の逃亡だ。

気の休まらない時間が──死ぬまで続く。

天使領に帰ってきたとしても、この島は、確実に燃える。

……ヴェルトルクだけじゃねえ。蒼殻(そうかく)、全部だ。


「なら、やるしかねえよな」


それは誰にでもなく、自分の芯に語りかける声だった。


……クリスは認めねえはずだ。

あいつがガットを裁判所へ送ったのは「時間のウフ適性を持っている」からだけじゃねえ。

なにより、「俺の味方」だからだ。


──自由と引き換えの正義は正しいのか?

──個を潰して回る社会は美しいのか?


何一つ望んじゃいないもののせいで、時間を、自由を削られてきた。

その上、命まで狙われ続ける一生なんて、黙って見てられるわけがねえ。


クリスの言い分が、全く分からねえわけじゃねえ。

それも慈悲の形で、正義で、誇りのひとつなんだろ。

でも、俺の慈悲と、正義と、誇りとは違う。



……目の前にいる相手と、分かり合えるか、許し合えるか──か。



……だからこそ。

言葉を削らず、行動だけで語らず。

手を伸ばす価値が、確かに()()()()()



「……ネク。クリスに送れ」


ジャックは目を細める。

彼の声に反応するように、ネクのセンサーが小さく共鳴音を出す。

闘技場に集まった天使たちがざわめいた。


両手剣には触れなかった。

けれど、声と背中が、剣よりも鋭かった。



「俺の誇りとテメーの正義、本当に共存できねえのか。──確かめる」



その言葉が、ヴェルトルクの空を震わせるように広がっていった。

風がざわめく音だけが、答えのように返ってきた。


ヴェルトルクの空に、火のない火花が散った。



*



エザンバウト南端に(そび)える白燈(アルシェ)

その城は相変わらず白く美しく整えられ、ひとつの汚れもなかった。


大きな暖炉の火に照らされて、クリスは執務机へ向かっていた。

座れば沈み込むような質のいい椅子。

白燈(アルシェ)の椅子”──それこそがまさしく、天使社会統治者の証であり、天使領“蒼殻(そうかく)”における()()()()が座る場所だった。


天井には明りがないが、代わりに空すべてを見渡せるようにいくつもの大きな窓がある。

その窓と窓の間には金でできたランタン。

火を灯さずとも、太陽の恩恵を受けすべてが明るく照らされている。


パチリと暖炉の火が爆ぜる音。

炎は暖かいはずなのに、この部屋の空気は、どこか鉛のように重い。


ふいに、廊下から足音が複数聞こえた。

陽光と雲の意匠が掘られた扉が静かに開き、数名の報告官が絨毯を踏みながら入ってくる。


「……クリス様。ご報告が」

「時間のウフ適性者、ガット・ビター。悪魔領刻昨日22時15分、裁判所の監視下より、正式に“逃亡”と判断されていたことを確認しました」


報告書と号外がデスクに並べられる。

クリスはそれを見下ろしたまま、掌の熱を感じていた。指先が堅くなる。


「報告によると、裁判所裏手のイェオロフの鱗跡より逃走。その数四名。ガット・ビターのほかに、新聞にも騒がれている“獏”の山本凌ほか、内部協力者がいた可能性も否定できません」

「また、ガット・ビター、山本凌両名のウフ適性は、すでに死神の誓約書によって適性反転(ペナルティ)を受けているとのことです」


報告書と共に、悪魔領“安寧(あんねい)(もり)”でばら撒かれた号外を複数枚、デスクの上へ置く。


「悪魔側は、ガット・ビターがいずれ“蒼殻(そうかく)”へ戻ることを視野に、星層(せいそう)大扉(おおとびら)前の検問強化を初めているようです」


その言葉を聞いても、クリスの手元にある資料を捲る指は止まらなかった。

報告書の内容は、どれも同じ。


多くの悪魔たちが見つめる中、彼ら四人は“夜の小道(ペナンブラ)”と呼ばれる禁足域をそのまま歩き、

悪魔ならば誰も近寄ろうとしない恐怖の対象、イェオロフの森へと入っていった。

天使たちがヴァルカニア祭を行う期間、悪魔たちは夜明けまで“沈黙の時間”(モーン・ムーン)を守る。

けれど、ソルが昇ったからといって、その森に捜査を広げるには、おそらく時間がかかる。


天使が雲を恐れるのと同様に、悪魔たちは深い森を恐れている。


──同じだわ。


クリスは金の瞳を伏せた。

資料の端をギリと掴む。


信仰をものともせず、雲を真っ二つに切ったジャックと、同じ。

天使には理解できないけれど、悪魔たちが信じるものを、ガットもまた土足で踏みにじって、嘲笑うように姿を消した。

胸の奥で、二十年前と同じ怒りが疼いた。


……なにも変わってない。

やはり、ジャックとガット──このふたりを、会わせてはいけない。


社会の秩序を守るためなら、個など切り捨てるしかないのよ。


……それにしても、この号外の内容。

『裁判所の地下で行われていた()()()()——被験体の死亡率は非公開』

──その一行を見つめる金の瞳は凍り付いていた。

指先が、紙を裂くほどに強張っているのも気づかずに。


“秩序”を掲げる悪魔たちの塔の下で、こんなことが行われていたなんて。

これが公になった今、真偽はともあれ、裁判所の信頼は瓦解する。

その火消しも同時にするのであれば──


……悪魔たちがガットを捕らえるのを待つ時間はない。



「……彼は、どこへ?」



全ての新聞には、“消息不明”の悪魔文字。

それだけで、彼らの社会でも混乱が起きていることが手に取るようにわかる。

クリスの冷ややかな声を受けて、報告官の手が小さく震えた。


「詳細な所在は未確定です。ただ、協力者と思われる“獏”が妖怪種との情報から、この“山本凌”と関係のある個所に裁判所は捜査網を広げているようです」

「…地上で天使が身を隠せる場所は限られているはずよ」

「本来ならば、天使区が多い“山脈都市”セレスカ──あるいは“大扉の街”ノードの中でも、空調整備済みの建物のみに絞れば捜索は容易かもしれません。……ですが、ガット・ビターはこの四律動、()()()()()()()()使()()()()()()()()()()との報告も……」

「……四十年間、一度もエアフィルターを、使わずに?」


静寂。

資料を捲る手が止まり、クリスはようやく顔を上げる。


「はい。あの……悪魔たちの、話によると」

「……彼、本当に天使なのかしら…?」

「……それは、分かりません」


クリスの金の瞳は揺れていた。

地上で息をするということは、天使にとっては肺を焼かれ続けるようなものだった。

気温や湿度が高いとしても、服装を調整すれば──なんとかなる。

だが“濃すぎる地上の空気”だけは、意志の問題ではなく、身体が全身で拒むものだ。


フィルターなしで地上で生きる。

それは、羽を持たぬ天使が空を駆けるに等しい。


脳裏に、エザンバウトへ墜ちてきたジャックを思い出した。

翼がないのに、低空のヴェルトルクから、滑空船もなしに駆け上がってきたあの姿──



……どちらも、“今”の天使とはかけ離れている。



けれど、本能的に背筋が冷える感覚を覚えながらも、クリスは表情を崩さなかった。

暖炉の火がパチリと爆ぜる音が、不気味なほど大きく響く。

眼差しがわずかに震えたが、すぐに収めた。


「……フジを呼んで」


報告官の背筋がさらに強張るほどの低い声で、彼女は言った。

足早に彼らが退出し、靴音が遠ざかっていく。


やがて、ノックと共にフジが現れる。

影のように静かに、けれど存在だけは鮮烈にそこにいた。


「……どうだったァ?」


音を立てないように扉を閉じて、フジはデスクの前まで歩み寄る。

すでに答えを知っているような軽さの声だった。


「本当だったわ。ガットは逃げた」

「……」

「複数の協力者がいるらしいわ。でも、うちひとりしか身元が掴めていない」


クリスは淡々と、自分に言い聞かせるように言葉を続けた。


「“通信機”のせいで、今頃“蒼殻(そうかく)”中がこの話題で持ち切りね。そして、グリプはゼノラの商人にも太いパイプを持っている。彼も別のルートで、この情報の信憑性をつかんだら、ジャックへ伝えてしまうでしょう」

「だろうなァ」


フジの口元が、愉快そうに吊り上がる。

机の上に組んだ傷の多い指先を見つめるクリスが、その笑みを見ることはなかった。


「時間のウフ適性については?」

「……誓約書を破って、死神の適性反転(ペナルティ)を受けている。もう彼に“時間”は扱えない」

「なら、どうする?」


戦争を防ぐための道を探すのか。

言語外に問われたそれに、クリスが返すことはなかった。


あの“星”を失速させるための選択肢リストが、頭の中を素早く走る。


たとえ死神に適性を奪われたのだとしても……

ガットがジャックの最大の枷だったことは変わらない。

このまま“飼い殺し”にできればと願っていた。戦争にならなければいいと。

けれどこの先の道は、最初から“審問”しか用意されていない。

二十年も前から用意してきた。

“この日”が訪れないことを、全ての天使が祈りながらも──


たったひとりを殺すための、準備を粛々と。


「……これで、ようやく“点火”だなァ」


フジの声が背にかかる。

クリスは立ち上がり、窓越しに空を見下ろした。

あの空の向こうに、彼がいる。


──ジャック。


あの男が、もしこの報を耳にすれば、きっと“立たずにはいられない”。

再び、自分勝手な“誇り”を掲げて、この世界に火を灯す。


たったひとりの命のために。



「……三日後、ソルファリウムにて“審問”を行うわ」



強く、強く拳を握った。

爪が掌に食い込んで、痛みが思考を締める。


「その場に、彼を立たせなさい。最後の問いの場よ。選ぶのは、彼自身」

「……」

「“正義”と“誇り”、“社会”と“個”、“平和”と“自由”……どちらがこの天の秩序に値するか──示してもらう」


彼女は知らない。

今、まさにこの時、ジャックもまたネクを通して声を上げたことに。


フジは、満足げに笑った。


「了解しました」


フジは部屋を出ていく。

クリスは扉が閉まる音を聞きながら、小さく息を吐いて、目を細めた。


「──裁きではない。証明よ」


──なのに。


そのはずなのに、胸の奥に、微かなざらつきが残った。


理屈では説明できない。

彼の言葉は、正しく、筋が通っている。


それでも──

まるで、こちらの秩序そのものを、静かに踏み越えられたような感覚が消えなかった。


だから、彼が沈黙している時間に、私たちは正義を研ぎ澄ませてきた。

それを、ついに、執行する時がきてしまったのね。



「“正義”が、まだこの世界に通じるものかどうかを」



もし通じないなら……その時こそ──



この空は堕ちてしまうでしょうね。



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