百二十五層:引火点.02
ゼノラの中央都市、ノードの街を囲う大きな壁の外側──の影。
構造上の問題から、全く日の光を浴びないそこには、石壁に沿うように朱色の鳥居が立てかけられるように立っている。
“鬼灯通り“
妖怪という、異種族の中でも異例の存在である者たちが棲まう場所。
バンズはその鳥居の前に立って、静かに待っていた。
口元を覆う透明なエアフィルター。
地上の濃すぎる酸素を遮りながら、鬱陶しい湿度を誤魔化すように、その隙間に煙草を差し込む。
ソルの日が落ちかけ、伐採禁止の背が高い樹冠の上だけがまだ赤い。
……浮島なら、今ごろ強烈な西日が差してるころだ。
森に片足突っ込んでいるこの場では、闇が多い。
木々の影が揺れ、バンズはほんのわずかに身を固くした。
不意に、鳥居の中心が波のように揺らいだのが見えた。
石壁が歪む。
原理など到底理解できないその光景に息を呑んだ時、石の壁の中から、ひとりの男が姿を現した。
白い──いや、儚い、と言った方が近いか。
白いポロシャツに色の薄いジーンズ。履き潰したスニーカー。
服の隙間からは包帯が覗き、指先まで覆っている。
右目だけを器用に瞑り、左目の紅い目が眠たげにこちらを見ている。
肩にかかる緋色と翡翠色の羽織だけが、やけに鮮やかだ。
ガットとはまた違う、別の影の薄さをもつその男は、灰銀の髪を風に靡かせ、
眠たげな紅い瞳で、それでもまっすぐにバンズを捉えた。
「…俺に用があるのは、あんた?」
敵意とは言えないが、明らかに警戒している。
今しがた出てきたばかりの鳥居から離れる様子はなく、その男、獏の青年──凌は、両手をズボンのポケットに入れたまま、バンズを見つめた。
空気に溶けるように優しげな、それでいて平坦な声。
バンズは吸っていた煙草を落として潰し、軽く両手を上げた。
「そうだ。バンズって言う。あんたが獏の……山本凌かい?」
凌の目線が下がる。
しかしすぐに上を向くと、端的に。
「あんた、天使?それとも悪魔?」
エアフィルターと、黒い服を目線で指す。
バンズは聞かれ慣れたそれに「いいや」と首を振った。
「天使さ。亡き妻のために」
バンズの言葉に、凌は一瞬の沈黙を落とした。
「…ふーん」
興味なさげに。
しかし、凌は静かに足を進める。
間合いなど気にしないそぶりで近づいてくる彼にたじろいで、バンズが一歩下がった。
すると凌はその場で屈んで、先ほどバンズが踏み消した煙草の吸い殻を拾い上げる。
「…ディアナ・ホロを信じるわりに、自然には優しくないんだな」
「…あ、ああ、すまない」
「ゼノラの壁の外は神獣が多い。想うなら、ちょっとは手間をかけてやんないと」
「……」
「ただ黒を纏うだけなら、悪魔たちと変わんないよ」
バンズには彼が不思議に映った。
どこか飄々としているが、風に飛びそうなほど儚げにも見える。
存在そのものが、現実から半歩ずれたもののように見えた。
「で?」
煙草の吸い殻を包帯の指先で転がしながら、凌が問う。
「何も話さないなら、俺は帰る」
「いや…一つ、あんたに聞きたいことがあって来たんだ」
「へえ。答えられるといいけど」
バンズは自分の頬に汗が垂れるのがわかった。
…なんだろうね、この、妙な圧は。
ジャックやガットとも違う、異質な何かを感じつつ、言葉を慎重に選ぶ。
「ガット・ビターって、知ってるだろ?」
バンズの声は抑えられているが、真っ直ぐだった。
「そいつの居場所が知りたいんだ」
「……」
まっすぐ見つめてくるバンズの眼を、凌の紅色の瞳が同じように見返す。
風がひとつ吹いて、ふたりの間をすり抜けた。
やがて、凌はため息をひとつ落とす。
「……自発的に隠れてるやつのことを、そう簡単に話すほど、俺の口は軽くない」
「……だよなあ」
バンズはぽりぽりと後頭部をかいた。
そう、うまくいかないか。
荷物を抱えるよりは、情報だけ抜いて帰りたかったが……
「いや、ほんと、なんて言えば信用してもらえるか分かんないんだけどさ……」
凌は沈黙する。
言い訳も嘘も、見透かす目をしている。
少しの間頭を抱えるバンズを、凌は静かに立って待っていた。
バンズがチラリと視線をやっても、淡々と。
苛立ちも、焦りも、何も感じさせない無表情で。
「……わかった。取引しよう、獏の兄さん」
バンズは目を伏せたまま、静かに言う。
「俺は“ガットが確実に逃げた”って証明を、ある天使に知らせたい。それをしてくれたら……俺に出来るだけのことをするよ」
凌の目がわずかに細まる。
「例えば、裁判所から身を隠すなら──不可侵条約のある浮島の方が安全じゃないか?」
あの女郎蜘蛛の言い草じゃ、この男は鳥居の中に留まり続けることを拒んでる。
だったら、そこに道を引いてやればいい。
もっともらしい理由をつけて。
けれどバンズが言った瞬間、空気がほんの少し変わった。
ざわりと、目の前の男の影が不気味に動いた気がした。
凌は目を伏せると、ふっと淡く笑う。
「へえ。なんでそんな提案するんだ?」
今度こそ見間違いじゃなかった。
男の影から、腕のようなものが無数に伸びている。
ざわりと、何かを手招きするように。
「鳥居の中は安全だ。でも、まるでここだけじゃ足りないって言ってるように聞こえる」
低く、暗い声だった。
「そ、れは……」
思わず喉が鳴った。
凌の紅い目が、ひどく冷たく射貫くように向けられている。
「新聞に、ガットと並んであんたの名前があったからさ。裁判所に逆らったなら、追われるだろ…?」
「……」
「裁判所と違う層って言ったって、妖怪ってつながりですぐ見つかる。俺だってたどり着けた」
あの女郎蜘蛛に会えなきゃ、もしかしたらずっと探し回ってたかもしれないが……
あえて言わずに、バンズは言葉を続ける。
「天使領なら、戦士もたくさんいる。同じウルネス層でも──“蒼殻”にいた方が、得策じゃないかい?」
また、しばらくの沈黙が落ちる。
まるで何かを推しはかるような眼差し。
凌はじっと、目の前の黒づくめの男を見つめた。
…言ってることはもっともだ。やっぱり、分かりやすい隠れ家だよな。
もし悪魔たちに見つかっても、店長の許可なくこの鳥居はくぐれない。
でも、その“仕組み”を紐解かれて、炙り出されないとは言い切れない。
だったら──
「……あんたらに恩を売っておくのも、ひとつの手だな」
ふっと、凌が肩の力を抜いた。
短く息を吐いた凌が、鳥居を振り返る。
が、すぐに目線はバンズへ戻った。
「いいけど、保護してもらうのは俺じゃない」
「……は?」
「女と子供。俺はどうとでもなる。……けど、このふたりの命を守ってくれるなら、のんでもいい」
声は柔らかかった。
無感情に見えて、どうやら少し、この男の何かをほぐしたようだ。
「…わかった。責任持って守ると約束するよ」
「……言葉はあまり信用しないタチなんだ」
「じゃ、まあそれはおいおいな」
バンズは、帽子の縁を下げながら、わずかに笑ってみせた。
「ところで」
妙に言葉を切る凌。その間が、余計に怪しく見せた。
そうは分かっていても、バンズはどうすることもできず、ただの影に戻ったそれを一瞥した。
「誰に話せばいいの」
「……ジャックってやつさ」
言ってもわかんないか、と説明を続けようとしたが、その名前が落ちた瞬間、凌の顔に微かな変化が走った。
「……ああ」
バンズは思わず眉を上げる。
「…知ってんのかい?」
天使の新聞ですら、明確に名前が載ったものは少ない。
だが、商人たちを通じてゼノラでも名前が広がってるのは知っていた。それと、真偽掴めぬ噂話も。
ただ、この男の反応は……まるで名前以上のことを、すでに知っているように聞こえる。
「妖怪は情報集めが得意だ。噂話は耳にしてる」
わずかに緊張するバンズをちらりと紅色の目が見やる。
肩をすくめるように、凌の鉄面皮が薄く笑ったような気がした。
「でも俺は──ガットから直接聞いた」
それだけ言って、凌はふっと背を向け、鳥居の中へと入っていった。
*
鳥居を潜った凌は、思っていたよりも早く現れた。
その後ろに、若い女の子と子供を連れて。
「…本当に外出て大丈夫なの?」
「騒がなきゃな」
「え、てかウルネス層行くの?なんで?どうやって?」
「この天使が連れてってくれる」
「…」
なんか、ずいぶん雰囲気が違うな。
かろうじて成人していないくらいの茶髪の少女と、明らかに年端の行かない大きすぎるゴーグルをかけた少年。
それに面倒臭げに相手をする凌の空気は、さっきとは打って変わって静かだ。
いや、もともと騒いではなかったけどね…
その場で立ったまま動かないバンズを、三人がじっと見た。
「あー…行こうか?」
「星層間管理局、通るだろ」
「え?!てことはまた影の中?!」
「僕はじめて!」
途端に騒ぎだすふたりを前に、凌は聞く耳も持たず。
ノードの街の外壁沿いに、ゆっくりとした足取りで進み出す。
「…行くならさっさと行こう。“沈黙の時間”の間に星層を越えたい」
「……ほっといていいのかい?」
「いつものことだから」
「……」
なんだかなあ…
ぶつくさ文句を垂れる子供らを背に、バンズは小さくため息をついた。
ウルネスの天使領へつながる大扉は、他三枚と同じように、今日も街の外縁を囲む高い壁と一体化して立っている。
見上げれば陽光──ソル・ベリリウムの意匠が刻まれ、その下部には生き物の力で開閉可能な大きさの小さな扉が、マトリョーシカのように切り取られている。
扉の前、横に幅の広い階段の傍で、凌は静かに立ち止まった。
ハーウェンの時間も深く、空には月が浮かんでいる。
だが、天使領へ続く大扉前はヴァルカニア祭の真っ只中で、ランタンが煌々と燃えている。
その狭間。闇が立ち込める建物の影に、凌の白さは異様に見えた。
「息止めろ」
「…本気でまた…?」
「じゃなきゃ通れないだろ」
なんの事だか分からないバンズをよそに、凌は後ずさる女の子と、目を輝かせる少年を面倒くさそうに見る。
そして問答無用と言わんばかりに、ふたりの子供を、月明かりに伸びる自分の影の中へと突き落とした。
影がまるで底なし沼のように、あっという間に、引きずり込んでいく。
「…あんた影のウフ適性者か」
「……」
「いや、でもたしか誓約破りで適性剥奪って新聞に……」
答えはない。
ただ、ひとりになった凌が、静かにバンズを向き直る。
「ここからは、俺に話しかけるなよ」
「は?」
「影が濃くなるから」
理解させる気のない説明に、訳が分からないながらも頷く。
最近の若い奴って、なんでこうも言葉足らずなんだ?
胃がキリキリしそうな気持ちを無理やり押さえたバンズは、静かに大扉の中へと入っていった。
イデラ層の複数の扉につながるものとは異なって、天使領への出口はひとつだけ。
ゼノラ側の星層の大扉をくぐれば、ウルネス側の大扉が、まるで夜のような空間の先に見える。
目の前にあるように思えるのに、実際は遠い。
それほど、扉の大きさが異様だった。
バンズは手慣れた手順で、星層間管理局のゲートを抜けた。
ふと、管理局員から鍵を受け取った時になって、思い至る。
いや、そもそも凌はどうやってこのゲートを渡る気なんだ?
この時期、悪魔たちは“沈黙の時間”を守って、日が落ちたら活動をやめる。
だが、今は異常事態もあって、視界の端々には黒衣を纏った裁判所関係者が数名、忙しなく走り回っている。
ガットや、その協力者である獏を探しているのは明らかだ。
そんな中、こんな場所を通れるわけが無い。
──しくじった。
子供らに気を取られて、大事なことを抜かしてた。
怪しまれない程度に、後ろを歩いているだろう凌を振り返る。
……が、そこに、凌の姿はなかった。
驚き、あちこちに目線だけを走らせるが、いない。どこにもいない。
トンズラこいた?
それとも裁判所関係者に見つかって隠れたのか?
列の後ろから押されるまま、バンズは無理やり前へ進んだ。
困ったことになった。
これじゃガットが逃げた証拠をジャックに伝えることができない。
爪を噛んで、壁際に寄る。
ふとそのとき、隣に誰かが立った。
「立ち止まるな」
「?!」
それは凌だった。
さっき隅から隅まで見渡して見当たらなかった姿が、確かに隣にある。
足早に、しかし静かにふたりはウルネス層側の大扉を潜った。
天使の領土の玄関口、ウルスナ島。
何もない平地に星層の大扉だけが佇むその地を踏んだ途端、気圧が変わる。
高所に設置されているそこは、風が強い。
白い息が、ウルネスの空に吸い込まれていった。
「あ、あんたいつの間に?!」
エアフィルターを剝がしながら、ようやくにして出た声で問い詰める。
凌は静かに自分の影の中へ手を入れて、さきほど突き落としていた子供ふたりを引き上げて言った。
「妖怪は死角に入るのが得意なんだよ」
「……」
凌の“消え方”は、ガットのそれを思い出させた。
ただ──違う。
まるで気配を抉り取るように“無”へ落とすガットと違って、凌の気配は、“影”そのものに溶けていくようだった。
柔らかいのに、得体が知れない。
それが逆に、不気味だった。
「……それにしても、あんた強引だな…影のウフって、生き物をしまっておくのは一刻が限界ってあったよな?」
「……」
「まして影にしまったまま星層を越えるなんて、恐ろしくで誰もやらないって。何かあったら……」
想像するだけで胃が凍る。
事実、影のウフに誰かをしまったまま、密出入層をする者は一定数いた。
だが、その多くはそのまま、影の中から忽然と姿を消している。
“影のウフでは星層は越えられない”とは、距離の制限から単に他層の影へは移動できないというだけではない。
制限時間が、各層間の時差を許さない。
──そういう理由も、確かにあった。
けれど──凌の“影”は、ただの影ではない。
悪夢が蔓延り、空間や時間が歪む。
その出入口は影のウフと同じように見えても、実際にはもっと別──それは、“夢の入口”。
もっと言えば、彼の“胎の中”だった。
だから影のウフを封じられてなお、肥大縮小が出来なくなっても、自分の影にものをしまえる。
ただ、精神的な意味で、長時間彼の影の中に沈むことは不可能なことは同じだった。
でもそれは、目の前の男にタダでくれてやる情報ではない。
「…それより、急ごう。こいつらが死んじまう」
地面にへたりこんだまま、ずいぶんと憔悴している子供たち。
傍にしゃがむ凌の手には、羽織の裾から取り出したエアフィルターが握られていて、苦しそうに喉を抑えるふたりへ差し出していた。
足元には、影の中から引き出した防寒着が、いつの間にか置かれている。
ただ、子供らの怯えた顔は、新しい層に来たことや、寒さからくるものだけではないようだった。
「さっさと案内してくんない」
凌は白い息ひとつ吐かず、声だけが風に流された。
バンズはえも言われぬ気持ちのまま、用意しておいたグリヴェスの滑空船へ三人を導いた。
商船だが、この際仕方ない。
申し訳なくその旨を伝えたが、凌はまるで興味がなかった。
少女…亜月は凍えながら落ちないのか不安そうに、
そして少年…翔は興奮気味で、話を聞くやつがひとりもいない。
「こ、これなに?!浮くの?!うう、浮く船?!」
「…お、お、落ちないよね…?」
「……遅い。早く乗れ」
「……落ちるより先に凍え死ぬよ。さあほら、これ着て」
寒さに歯を鳴らしながら、船の浮く仕組みを質問攻めしてくる翔を適当にいなしつつ、凌は尻込みする亜月の背中を押す。
バンズは船に積んでいた炎のウフを編み込んだ防寒具を取り出した。
「あんたらのそれ、少し古いだろ」
寒さに合わせて温度を変える服。
凌にもらったものの上から重ねて着れば、じんわりと体の内側から温めてくる。
ふたりは一息ついたように新しい環境をおのおの受け止め始めた。
凌はというと──
天使の自分でさえ目を疑うほどの薄着のまま、何食わぬ顔で船縁に寄りかかっている。
その口元にはエアフィルターもない。
息も白くならない。不思議だ。むしろもう怖い。
三者三様の反応に、バンズは思わず顔を引き攣らせた。
滑空船の重力の波が揺れる。
ふわりと、足元が浮き上がる感覚。
またあがる悲鳴。いや、歓声。どっちも同じか。
航路の先、最も近くに見える島──グリヴェス。
四方から流れ落ちる滝のような水柱が、高空の風に煽られて霧散していた。
ゼノラ層との時差もあり、昼の陽が水の粒に反射して輪っかの虹をかけている。
見た目の距離より、実物は遠い。
目と鼻の先にあるように見えて、なかなか近づかないグリヴェスへ船は舵を切る。
暫く経つと、感動の声を上げているのは翔ひとりだけになった。
そしてさらに時間が経つと、その声さえ風に溶けていった。




