百二十四層:引火点.01
ゼノラ層、大扉の街ノードにある、商業区のはずれ。
ちいさな煉瓦造りの建物の前に、バンズは立っていた。
夕暮れの赤が、煉瓦の壁と格子の硝子を照らしていた。
金継ぎの走るひびは血管のように赤く光り、蜘蛛の巣そのものを思わせる。
「……やっぱ、灯りは点いてないか」
ガットが裁判所を脱走した。
あいつの性格を知ってる奴なら、誰もが疑いたくなるような無謀な行動。
その真偽を確かめるべく、同じ紙面に協力者として名前を連ねる妖怪“山本凌”の情報をつかむため、
バンズはゼノラ層で最も幅を利かせているというその“店”に来ていたのだが──
……何年も、誰も出入りしてない扉だ。
同じ妖怪種がやってるって話だから、少しは期待したんだけどねえ。
ここの店主は客を選ぶ。
“必要のない”者には、姿さえ見せないという。
バンズは肩をすくめた。
地上の濃すぎる酸素を薄めるための、エアフィルター。
その透明なマスクを邪魔そうに指先でいじりながら、踵を返しかけた。
その瞬間。
扉上のウフ灯がカチリと音を立てて勝手に点る。
赤い残光と白い光が混じり、硝子越しに歪んだ影が走った。
扉の鍵が、ひとりでにカチャリと外れる。
「……っ」
背筋に冷たいものを感じる。
店の中に生き物の気配はしない。
だが、何かに見られている感覚。
ひとつやふたつじゃない。……もっと、多い。
一度店の周囲を見渡した。
誰もいない、閑散とした通り。
深呼吸をしたあと、バンズは警戒しながらもゆっくりと足を踏み入れた。
中は外観とは裏腹に、よく整えられたアンティークカフェのようだった。
けれど灯っているのは天井のウフ灯ひとつだけ。
その光に照らされるのは、艶がある木製の小さな丸テーブルと椅子が二脚。
ほかの調度品はすべて白布に覆われ、形を隠している。
狭い。だが、掃除は隅々まで行き届きすぎていて、逆に居心地が悪い。
飾り棚やカウンターの上、あちこちに透かし彫りのランプが置かれている。
だが、やはりそのどれもに光はない。
きちんと開店していればおかしなところは何もない。
でも、使われていないはずなのに埃がひとつもない。
……不気味に、整いすぎていた。
沈黙の中、天井の灯から細い糸がするりと降りてきた。
小さな蜘蛛が一匹、光の中へと姿を現す。
その影から、まるで風が吹くように、女の声が落ちてきた。
「まあ……こんな時間に珍しいお客さまね。そろそろ日が落ちる。暗闇は嫌いでしょうに」
柔らかい声音。
だが、どこか冷ややかな毒を含んでいる。
「さあどうぞ?お掛けになって」
姿も見えないのに、圧がある。
バンズは思わず冷や汗を感じながら、言われた通り椅子に腰を下ろした。
「……あんたが、女郎蜘蛛って情報屋で、間違いないんだよな?」
「そうよ」
ふわりと、笑うような声が聞こえる。
嘲りではなかった。
どこか、悪戯のような軽さがある。
「俺は──」
「名乗らなくていいわ。知ってるから……バンズ・ヘルパー」
蜘蛛の脚が、カサリと動いた。
「蒼殻の方で、ちょっとしたいざこざが続いているみたいね?」
「……ちょっとした、ね」
妖怪種は個々で寿命が異なるらしい。
この声の主がどれほど長く生きてきたのかは知らないが、
天使社会全部を左右する派閥争いが、まるで子供の喧嘩のような響きに聞こえてしまった。
女郎蜘蛛。名乗らず、姿も見せず。
だがゼノラ層のことなら知らないことはないと噂される女店主。
……店長って、呼ばれてるらしいが。
「知ってるなら、話が早い。……男をひとり探してる」
「ガット・ビターの居場所は教えないわ」
ぴしゃりと、言葉より先に払われた。
バンズは思わず顔をしかめた。
エアフィルターから、呼気が漏れ出る音だけが店内に響く。
「……対価を払っても?」
「情報って扱い方が大事なのよ。──天使の坊や」
「……」
「あなたの対価に、私が何を差し出すかは私が決めるわ」
小さなウフ灯の影が、まるで蜘蛛の足のように揺れた気がした。
それに絡め取られそうな錯覚に、バンズは呼吸を整える。
「近道しようとしちゃダメよ。急く者ほど、足元をすくわれるんだから」
母が子を案じるように。けれどその実、獲物を絡め取る蜘蛛の余裕。
声はやさしいのに、背筋にじわりと汗が滲む。
「あなたが支払う内容は決めてある」
「……何を払えば?」
「天使領“蒼殻”の情勢」
「あそこ、寒いのよ」と、店長が困ったように付け足した。
けれど、実際の声の響きに、そんな色はない。
確かに浮島群には環境的に虫がいない。
空に適応した鳥や動物はいても、すべて“熱”があってこそだ。
蜘蛛で情報を集めるというこの妖怪に、天使の島々は近寄れないのだろう。
「グリヴェスの島主、グリプの護衛筆頭。実際には、政務補佐も少し齧っているようだし、定期的に情報を流すことくらい簡単でしょう?」
「定期的って……俺は護衛だぜ?渡せるもんと、渡したら首が飛ぶもんだって──」
「あら、あなたが掴もうとしてるのは文字通り蜘蛛の糸よ。握って上まで登ってこれるか、切れて下まで落ちるのか……ちょうど真ん中にいること、忘れないでちょうだい」
目の前にぶら下がる蜘蛛とは別の蜘蛛が、飾り棚の奥で動いた。
カサリと、小さな本の上を滑っていく。
イデラの文字だ。読めない。
けれど“蜘蛛の糸”の寓話は耳にしたことがある。
「……神は信じてないけどね」
「ふふ、殊勝ね。でも──あなたが罪悪感を抱えている相手こそ、“神獣に近い”。だから忠告してあげてるの。あなたが足を滑らせないように、ね」
──罪悪感。
それがどうしてバンズに根付いているのか知っているというのなら…
この女はもうすでにずいぶんと自分のことを調べ上げている。
いや、俺だけじゃない。
ジャックも、ガットも──下手したらゾムリスやラスターたち周囲の戦士まで。
じゃなきゃ、説明がつかない。
自分の胸に食い込むそれは、ジャックって旗を利用したことに対する、贖罪だ。
それでガットが裁判所に行っちまった。
全部が自分のせいじゃないって頭ではわかってる。
それでも、その一端を握ってしまったのは事実だ。
……そしてこの妖怪は、それをすべて、“知っている”。
「…わかったよ。できるだけのことはする。──で、何を俺に教えてくれるんだい?」
諦めたようにバンズが肩をすくめた。
店長の声がほんの少し、静かに落ちる。
カサリ、と蜘蛛の脚が布の上を滑る音がした。
「私が教えてあげるのは、山本凌の居場所よ」
「……新聞に載ってた、もうひとつの名前か」
グリプに指示されたのは、その男の所在を探ること。
なるべくしてなった、という風に思えばいいんだろうけど、どうにも落ち着かない。
「あの子を連れていけば、ガット・ビターが無事に逃げおおせたことが明らかになる。それをジャック・J・ジッパーに知らせることが、あなたの仕事でしょう」
「……ほんと、何でも知ってるって感じだな」
「全部じゃないわ。だからあなたと取引するのよ」
揺れる蜘蛛の影の裏。
体は遠いところにいながらも、店長は椅子に座るバンズをしっかりと見つめていた。
店長は、静かに胸の内で思考を張り巡らせる。
最近のウフの高騰、星層扉の値上げ。
それらはゼノラに嵐の匂いを運んできていた。
物流の流れも、どこかきな臭い。
あれは天使領の戦争の前触れか──
それとも、最近開かないはずの扉が開いた、という噂からのものか。
少し前にドクターの病院にも、おかしな患者が来ていたわ。
いずれにせよ……天使領の情報が足りない。
複数の商人と繋がっていても、あくまで得られる情報は表層と噂ばかり。
でもこの男なら、戦士という立ち位置──更に前統治者ライパビの“右腕”だった過去を持つ。
そして今、天使社会を騒がす片側とも関係を持っている。
情報を引き抜くには、ちょうどいい。
蜘蛛の巣に絡め取るには、なおさら。
「凌を連れ出して、堕ちた星に会わせればいいわ。ガット・ビターは生きている。あの子ならちゃんと話してくれるわよ」
本当は、せっかく凌が手元に帰ってきたのに手放すのは惜しい。
鳥居は私の許可なしでは通れない。鬼灯通りは完璧な隠れ家よ。
でも外界の戦が燃え広がれば、鳥居ごと呑まれる日が来るかもしれない。
本来なら裁判所がゼノラ層の秩序を守るはずだけれど……
裁判所の地下実験の露呈。信頼の失墜。
そして、凌自身が誓約書を破ったことによる、犯罪歴。
もうあの死神や悪魔たちは用済みだ。
あの子を縛るだけでは死なせてしまう──だから別の糸も張っておく。
悪魔と対局に位置する天使。
それも、“太陽の神獣”に近しい者とつないでおけば……
「山本凌は鬼灯通りの中にいる」
「ノードの壁の外にある、妖怪たちだけの街って噂の……?」
「そうよ。あなたが鳥居の前まで来たら、出て話を聞くように伝えてあげる」
蜘蛛は光を受けてきらりと光り、その影は壁に大きく広がった。
「交渉は自分でしなさいね」
「……優しくないねえ」
「大丈夫よ。あの子は優しいから」
まるで母親のような慈愛に満ちた声だった。
風なんてないのに、ウフ灯がかすかに揺れた。
「でもね、頑固なところもある。どれだけ私が糸を張っても、抜け出そうとしてしまう、困った子」
「……」
「外に出たいのなら止めはしないわ。でも──その先に待っているものは、綺麗なものだけじゃない」
「じゃあなんで、そいつの居場所を俺に…?」
店長は答えなかった。
答える必要がないとばかりに、沈黙だけが落ちる。
バンズは思わず息を呑んだ。
代わりに、灯りに向かって蜘蛛がするすると昇っていった。
「蜘蛛って、二重三重に糸を張るものなの。……あなたもその一本になるだけの話よ」
バンズは苦笑した。
「……おっかないね」
白布に覆われた家具の下で、「もそり」と別の影が動いた気がした。
最初はただの埃避けにしか見えなかったそれが、まるで蜘蛛の繭玉のように見えて、ゾッとする。
今更ながらに、バンズは理解した。
ここ全体が、最初から蜘蛛の巣だったのだと。




