百二十三層:火花の予感.03
あれから時は流れ──
物語はついに、“今”へと戻る。
白燈にクリスが座してから、すでに二律動。
十年に一度のヴァルカニア祭は、二度目の最中。
……ガットが裁判所へ送られ、ジャックが島を割った日から、四十年。
ソルが眠り、ハーウェンの時間が始まるころ。
天使の島々は、ヴェルトルクひとつを除いて祭のランタンがいくつも揺れていた。
その明かりに照らされ、グリヴェスの港広場の中央で、報道局の男が新聞を掲げる。
「号外だよー! 号外!悪魔の裁判所から天使が脱走!」
「見たかよ!? これ! この名前、確か──あれだろ?!」
仕事帰りの商人、夕食の席を抜けた天使、これから警備に向かう戦士たち。
手にした号外には、太い見出しが躍っていた。
《──第六裁判官、誓約破りか》
《悪魔社会の秩序を乱す危険分子 ガット・ビター姿をくらます》
《“裁定の塔”の地下実験、暴いたのは──》
紙面ごとに見出しは違った。『消息不明』『誓約破り』
──だが、どれも同じ名前を指していた。
読む者はみな、一瞬だけ言葉を失う。
裁判所の厳格さは周知の事実だ。
その塔の地下で、不死実験が行われていたという事実は、あまりにも衝撃的だった。
だが、他層が体制のほころびに目を凝らす一方で、天使たちは──名前に釘付けになっていた。
ガット・ビター。
かつてヴェルトルクに彗星のように現れたふたりの天使のうちの、ひとり。
そしてもうひとり──怪物ジャック──の動きを封じていた、最大の重し。
「……これは、世界が変わるぞ」
号外を受け取った戦士のひとりがつぶやいた。
細部まで読む余裕もなく、タイトルを睨んでいる背後から、ひょいと紙を持ち上げる影。
相変わらず黒づくめのバンズが、顎を撫でて笑う。
「はは……やってくれるね、ほんと、あいつは」
「バンズさん、どうするんですか?」
若い戦士の問いに、バンズはゆるく眉を上げた。
街は祭の喧噪とは別のざわめきに揺れている。
ウルネス層の天使領とゼノラ層をつなぐ星層の大扉──ウルスナの島に最も近い島、グリヴェス。
紙だけの時代は終わり、いまは通信機も映写機も当たり前だ。
……この情報は、なにより早く回る。
「どうするもこうするもないさ。──ま、こうなったら、行くとこまで行くしかない」
号外を手に、バンズはその足でグリプの屋敷へ向かった。
途中、同じ号外を手にしたゾムリスが視界をかすめる。
視線が一度だけ交わり、彼は戦士数名を率いて逆方向の港へ駆けていった。
ああ、何もかもが──始まっちまうよ。
白亜の館へ駆け込み、足早に執務室前へ。
軽くノックし、返事を待たずに扉を押す。
地図を広げていた若き主に、バンズは号外を差し出した。
「……ガットさんが……?」
見出しだけを追って顔を上げた、青い瞳。
すぐさま本文へ走る視線を、バンズは黙って見下ろす。
「ボス、どうする?」
紙面の上を動き続ける瞳を見つめ、静かに問う。
やがて読み終えたグリプは、地図の上に号外を置き、ふうとひとつ息を吐いた。
「…待って、バンズ…。まずは、そう、本当なのかどうか?情報の信憑性を確かめよう」
「……ああ、だよねえ」
──前より、貫禄が出た。
迷いはあるが、選ぶ答えがまっすぐだ。バンズは口の端だけで笑う。
「──ここに、協力者として名前が出ている……“獏”の“山本凌”。この男を探して」
「…了解」
踵を返し、扉へ向かう。そこで背を呼び止める声。
「バンズ」
迷いの残る声だった。
振り返ると、握った手を開いては閉じ、グリプが所在なくこちらを見る。
「……ジャックさんにも、すぐ届くよね」
「……そりゃあ、流石にあの田舎島とはいえ」
「……誰か向かわせて、冷静に話ができるか──いや、今はまだ…」
何度か首を振って、グリプは改めてバンズを見た。
「確認を急ごう」
力のこもった声でそう言い、今度こそバンズを送り出した。
*
同時刻。
エザンバウトに佇む美しき白城、白燈。
潔癖なほどに整えられたクリスの執務室でも、長らく止まっていた時間が動き始めていた。
暖かい暖炉の中で赤い炎がパチパチと弾ける。
グリューの鷹を掲げた月桂樹の装飾が光を跳ね返す。
クリスは号外を静かに読み終え、睫毛を伏せた。
「……ついに、来てしまったわ」
手元の万年筆が、紙の端をかすかに叩いた。
震え──恐れでも武者震いでもない、別の熱。
深く息を吸って吐き、デスク越しにフジを見上げた。
「フジ。準備を始めて。全隊長、各局責任者を集めて、作戦会議を」
「……」
「……もしも彼が“戻る”のなら、私たちはまた“あの日”に引き戻される。先手を打つしかない。──それと同時に、この情報の真偽を確かめて」
フジは何も言わない。
だが、その目はすべてを知っているようだった。
フジが無言で頷き、出ていく。
「これ以上、あなたたちに振り回されるわけにはいかないのよ」
報道されたのは「脱走」だけ。
けれど、本当に恐ろしいのはその対価だった。
──ジャックと交わした、あの契約。
四十年も前のことなのに、刃のように鮮明に戻る。
膝を折る青年、机上の封蝋。
私は秤にかけた。差し出された重みを。
いまになって、ようやくその重さが骨に沁みるというのに。
ガットの身が自由になった瞬間、ジャックの首輪は紙切れになる。
──「脱走」。
その二文字を、クリスの金の瞳がじっと見つめた。
悪魔はガットの身柄を追い、天使はジャックの一歩を監視する。
彼がまた“ガットのために”立つなら、私たちも動くしかない。
淡い怒りと、わずかな悲しみが、瞳の底で静かに沈む。
遥か下の空に浮かぶヴェルトルク。
その中心に穿たれた穴のような闘技場で、彼もきっと、この知らせを受け取っているはず。
あの男は変わらない──歳月をかけて、小さな島から出もせず、静かに黙していても。
その名前は、彼を動かすには十分すぎる火種だった。
*
同夜。
ヴェルトルクの明るい闇の中、ジャックは投げ捨てた号外ではなく、流星群の空を見上げていた。
今年ももう終わる。
地上と空と、それぞれに降るふたつの雪の季節。
天使の暦では──“双雪”の頃。
季節なんて気にしたことねえけど……
そういや、ガットがいなくなった時も、ちょうど年の暮れだったよな。
島民が持ち込んだ号外のせいで、懐かしい名前を思い出していた。
……懐かしくはねえか。
ここにいる限り、どうしてもあの金髪がチラつく時がある。
そんなことを思いながら、空の酒瓶を転がした。
ふいに、複数の足音が登ってくる音。
石段でできた観客席の最上段。
そこに腰かけるジャックを見上げるように、戦士たちが集まっていた。
ランタンの灯りがないのに、闇を恐れない影たち。
ジャックのエメラルドが、ちらりとそちらを見やる。
「……ジャック」
口を開いたのはゾムリスだった。
数日前から当番でグリヴェスに出ていたはずの彼の手には、あの号外。
全員の目が、月明かりに浮かぶジャックを静かに見つめている。
まるで、廃れたはずの闘技場が生き返ったような“熱”が、そこにあった。
「読んだんだろ?新聞」
言葉は短かった。
煙草の灰を落とすように、ゾムリスは呟く。
ジャックは目を細める。──返事は、それで十分だった。
「本当かどうか、確かめるのが先だよ」
ラスターが風に揺れる前髪を払いながら言う。
まだ動くなよ、と言いたげだ。
「悪魔たちが意図的に流した誤情報ってことも、十分あるからね」
「裁定の塔の下に不死実験施設…そんなもん、嘘で流しても意味ねえと思うけどな」
すかさず戦士の誰かが口をはさむ。
握りこんだ拳の中に鍵はないのに、いつでも抜けるような気配。
ジャックは鼻で笑った。
「──好きにしろよ」
そして、また星を見上げる。
ネクが静かに軌道を変えた。
彼の視線を邪魔しないように。
星を見上げていたが、わずかに細めたエメラルドは別の何かを見ているようだった。
「…でも」
ジャックの声がぽつりと落ちる。
コツン、と転がった酒瓶が音を立てた。
「もし本当なら、俺だけ座ってるわけにはいかねえよな」
誰もなにも言わなかった。
両手剣は相変わらず闘技場の中心に突き立ち、
その重力に囚われるように、鍵束は柄に掛かったまま。
星が流れる。
白い尾で空に無数の爪痕を刻む。
静かに。音もなく。
“時間”が、戻り始めた。




