百二十二層:火花の予感.02
白燈の空席が埋まってからというもの、天から見下ろすその浮島──ヴェルトルクに眠る“怪物”へ誰もが祈ることが、日課になった。
朝の廃闘技場には、風しか、響いていなかった。
空は白み始め、透ける宇宙がゆっくりと薄れていく。
木の葉がひとひら、石段を滑り、円の中央へ落ちる。
濡れた髪を風に任せたまま、ジャックは立っていた。
石畳の中央には、突き立てられたままの両手剣。──抜かない印のように。
その脇で、ジャックはひとつの鍵を手のひらで転がす。
周囲を漂うネクが、一定の軌道を描きながら観測ログを刻んでいた。
「ジャック、本日は一時間十五分、鍵の確認。使用鍵数は四本、適性外三本。拒絶反応データは──」
「あー、いい。めんどくせえ」
短く吐くと、ネクは即座に音声を切る。
ジャックは鍵を銀の輪にからりと掛け戻した。
指先に残った微かな痺れが、風の冷たさで消えていく。
しばし、風だけ。
遠くの島の縁で風がぶつかる音が、薄く重なる。
ジャックは剣を抜かない。
代わりに、足元の小石をつま先でどけ、銀輪を腰に押し込んだ。
そのとき、闘技場の入口で誰かが石畳を踏みしめる音がした。
白い衣に陽光の刺繍。
ノイマンが静かに、今日も紙袋を手にやってくる。
ジャックはそれに気が付くと、何も言わないまま歩き始めた。
ネクがするりとその後ろを追従する。
崩れかけた石のアーチの下で、ノイマンが「おはよう」の手話と共に、パン屋の袋を差し出してくる。
それをいつもの調子で受け取ろうとして、ふと、ジャックの手が止まった。
灰青の瞳が彼を見る。一拍の間。
左手の甲に、右手の小指側をそっと乗せ──手をすっと持ち上げた。
『ありがとう』
いつも子どもたちに絵本を手話で読むノイマン。
遠巻きに眺めて覚えた、数少ない手話のひとつ。
言葉なんかなくても態度で伝わる、と思っていた。
ガットといて、不便を感じたことがなかったから。
でも、そうじゃないと気づいたからこそ、手は動いた。
黒手袋──沈黙を表す、焦げと擦り切れの多い手で。
ノイマンはわずかに目を見開く。
驚きの余白を残したまま、今度こそ紙袋をひょいと受け取り、ジャックは歩き出した。
空草の絡む割れた石畳は、やがて踏み固めただけの土の道に変わる。
自分を守るために変わらないでいるのも大事だ。
けれど、自分でいるために変えなきゃいけない時もある──最近、そう思い知った。
数歩先で振り返る。誘われるように、ノイマンも彼の後を追う。
ノイマンは震える唇を静かに噛んだ。
ずっと見つめていた“焔”。
一度消えかけ、揺らぎ、灰になりかけたそれ。
昔、イヴァンの息子が手足を失い、誇りを失くし、そのまま火に還ったのを見てしまったから……
ジャックも同じ道を歩んでしまわないかと、ずっと不安でならなかった。
でも、また確かに燃えている。
ノイマンの眼は、見えないはずのそれをしっかりと見ていた。
あの頃よりあたたかく、研ぎ澄まされた“陽”の色を。
燈守としてではない。
ただ、ひとりの天使として、そのことがなにより嬉しかった。
島はまだ起きていない。
朝の祈りは、いまも街の高いところに引っかかったままだった。
あの新年の儀の全土放送以来──多くの島は“ジャック派”を名乗るのをやめた。
クリスがジャックを“化け物”と断定したことに加え、彼女が本格的に浮島統治を広げはじめたことも、理由のひとつだった。
新聞は、あれだけ“英雄視”してきた彼を、今は“怪物”と呼ぶ。
紙面は“怪物、座を拒む”で揃い、論は薄い。
まるで裏から足並みを揃えさせられているみたいに。
けれど、蒼殻の民は口にしないだけで、相変わらず揺れている者が多かった。
鍵を奪われた戦士も多くいたが、ジャックの無言の優しさを受け取った者も多かった。
そしてなにより、放送の中でジャックが口にした「英雄」の在り方。
『誰であれ、力で他人を捩じ伏せて、命を奪っちまうような業火を……英雄って崇めること自体、馬鹿らしいだろ』
過去の名を尊ぶ気持ちを罵った、と受け取る者がいる一方で、
「奪った命の勘定で、名を上げるな」と聞き取った者たちもいる。
それは確かに、“天使という種”への拒絶と否定の言葉だった。
同時に、忘れてはいけない価値観を思い出せと告げる声でもあった。
表向き“ジャック派”を名乗る島がなくなったことで、護衛の必要を失った戦士たち。
その多くは、またヴェルトルクへ戻ってきた。
ただ、グリプの護衛だけは、入れ替わりながら続く。
孤立を進めるヴェルトルクがつながる、唯一の貿易相手という前提のほかに、
グリプがクリスの対の火になると、戦士たちが信じはじめていたからだった。
世間は目まぐるしく変わっていく。
通信機が普及し、声が島々を直接飛ぶ。
だからこそ、憶測もすぐ歩き出す。
「あの化け物がまた、動くんじゃないか──」
けれどジャックは宣言通り、何もしなかった。
ただ毎朝ソルより早く起き、夜はハーウェンのまなざしの下で眠る。
けれど、その単調な日々の中に変化もあった。
街に降りて、また島民たちの手伝いをするようになった。
ヴォルドの家の雨樋を直したその日から、彼の姿は街や港でよく見かけられた。
重たい樽を滑空船から積み下ろし、子供に市場の棚から果物をひょいと取ってやり。
花屋で鉢に水をやり、老婆の荷物を家まで運ぶ。
ウフが詰まった箱を下ろすジャックの横で、ネクが小さく点滅し、重心を示す。
“日常”が戻ってくる。
でも、そこにあの金髪はいない。
かわりに物言わぬ銀の球だけが静かに回る。
言葉は少なく、動きも無駄がない。
鍬を肩に担ぎ、畝に沿って種をまく。
“戦うための男”が、今はただ“生きる”という時間を選んでいた。
けれど、それは以前と似ているようで、ひとつの点が異なっていた。
それは、ジャックが他人の“言葉の選び方”に意識を傾けるようになったことだった。
表向きの沈黙は変わらない。
でも、たまに聞き返す様子は、まるで子供がひとつずつ“話し方”を覚えていく過程によく似ていた。
戦士たちも島民も、ジャックのゆるやかな変化に何も言わなかった。
彼が戦士であったことを忘れるくらい、“ただのジャック”として接するようになっただけだった。
島の子供は前と変わらない調子で声をかけてくる。
「ジャック、明日も遊びに来ていい?」
「好きにしろよ」
必ず約束を交わしてから帰っていく小さな背中たち。
「またねー!」
その声を聞いて、かすかに笑みが浮かんだように見えた。
だが、すぐにまた元の無表情へと戻ってしまう。
毎日は、静かに、静かに続いていく。
食堂を手伝う日。鍛冶屋の荷を運ぶ日。島の縁で網を繕う日。
──特筆はないが、確かな時間が流れていた。
──そして、ふとした拍子に、それは訪れる。
何気なく差し出された酒瓶を手に取った瞬間。
背中に「俺のは?」と声をかけられた気がして、振り返る。
だが、そこには誰もいない。
酒場でテーブルを囲んでいた誰かが、ちらとジャックを見る。
彼が言葉を失ったときは、いつも“あの男”の名前が心をよぎった時だと、皆もう知っていた。
けれど、誰も何も言わない。
沈黙は、優しさとしてそこにある。
ガットはいない。
でも、今も裁判所のどこかで、命を繋いでいるはずだ。
派閥なんて気にせずにいた頃のような日常を感じれば感じるほど、過去がまぶたに焼きついてくる。
そしてもう、それが戻らないものだというように、心臓がキリキリと締め付けられる。
「……ったく」
ジャックは、ひとつだけ悪態をついて酒を煽った。
いつしか、鍵束は両手剣の柄に掛けたまま。
武器どころか、鍵さえ握らない日々が──もう、長い。
*
今日も何もないようで、何かが変わる一日が終わる。
火を落とし、天使たちがそれぞれの家に戻ると、ヴェルトルクはまた静寂に包まれた。
灯のない夜道を、ひとつの影が歩く。
一定の距離を保って漂う銀の球体──ネク。
相変わらず、島民の前では口を開かない。それが暗黙のルールだった。
今夜は闘技場ではなく、そのすぐそばの丘へ。
小さな岩に腰をかけ、ジャックは夜空を見上げる。
エザンバウトの崩れた残骸が、沈まないまま、空の高みに止まっている。
あれを壊したのは、自分だ。
もし──また“次”があれば、同じ結果を生むかもしれない。
「……ネク」
呼びながら、使い古しの黒い手袋を見つめる。
焼けと擦り切れの上に、最近ついた汚れが混ざっている。
「このままでいれば、世界は平和って、ほんとかもな」
短い沈黙ののち、ネクが答えた。
「確かに、“あなたが立たなければ平和”という見解は一定の支持を得ています。──ですが、それは“あなたが存在しない方が都合がいい”という意味ではありません。存在を黙らせたい者と、存在を守りたい者が、同じ空の下にいます」
「慰めんなよ。凹んじゃいねえ」
どこ吹く風とばかりに笑い、ジャックはネクを軽く小突いた。
夜の風は冷たい。けれど、どこか心地よい。
「でも、俺がこのまま、種まいて、網直して、酒飲んで……そうやってるだけで、誰かのためになってんだろ?それが“社会”だって、あいつらが言いたかったのはそういうことだよな」
「……」
自分のやりたいことだけのために剣を振るなって、クリスは言った。
力があるなら、怖がらせたり、壊すんじゃなく、立場が弱い奴を守れって。
あちこちの島に引っ張り出しながら、燃やす先を選べってフジは笑ってた。
あのうさん臭い笑みは好きになれねえが、言いたいことはわかる。
「拳を握る、握らねえ、降ろす先を選ぶ。言葉も、何を言って、飲み込んで、温度ひとつに気を張って──その全部に“型”がいる。その基準を決めるのが社会ってやつ……」
「……」
「でもそれ、やっぱ気持ち悪いよな」
ジャックは目を閉じた。
そして静かに呟く。
「それ、“俺の意志”はどこにあんだよ」
ため息と一緒に吐き出して、視線を上げた。
星がひとつ尾を引き、遅れて星樹の白い花びらが夜空を横切る。
春の合図だった。
「誰かが殴れって言ったら殴るのか。殴るなって言ったら止めんのか。今、戦わなきゃ全部失うってわかってても──滾る言葉も飲み込んで、それを守るのが“正しい生き方”なのか?」
「……」
「たぶん、それが共存って言葉なんだろうな。──でも、その輪の中に“俺”は、いつまでたっても入れねえ」
視線を上げたまま、ジャックは続ける。
「相手を傷つけねえ言葉遣いも、気ぃ使えって言うのも、少し分かってきた。……けど、知れば知るほど、言いてえ事が喉奥で止まる」
風が長い髪をさらりと流す。
耳のアメジスト色の石が、揺れた。
「……それが“正解”で、それが“普通”なのか?」
そしてぽつりと、風の中に落とすようにつぶやいた。
「…何回も考える」
「……」
「でも何度考えても、俺は、同じ選択しかしねえ」
あの日、あの瞬間に何度立ち返っても、選ぶものは変わらない。
“世界の平和”と“ひとつ命”……結果的にどちらも守ったことになっていても。
心の中じゃ、顔も名前も知らねえ誰かの未来なんか祈ってない。
それが気に入らねえ、子供のままだって、クリスは、世界は、責めてくる。
──死んでほしくねえって思う、誰かひとりのために立つってのは、そんなに悪いことなのか。
彼の中の天秤が軋む。
その皿に乗せられたものの重さに、天秤自体が耐えきれなくなっているように思えた。
「いっそ、全部ぶっ壊してもいいと思う時もある」
「…あなたなら、それは可能です」
「──できる。けど、やるかは別だ」
たぶん、そう思えるようになっただけでも、前進だった。
周りの奴らがどこかで、誰かに教わりながら学んできたそれを、間違えながらも肌で感じて。
やっと今、ここに立ってる。
無理に剣を振り上げる必要もねえ。
黙って毎日暮らすのもありなんだろう。
多少の不自由は、ほとんどの奴らが許容する社会の仕組みってやつだと、島の連中といると感じる。
「でもよ……」
どこか揺らめく炎を思わせる声だった。
ネクはジャックの周りをくるりと旋回する。
空に固定されたままの彼の視界を邪魔しないように。
「やっぱそういう構図で成り立つ正義ってのは、納得いかねえよな」
生まれもったウフ適性が理由で罰せられる社会。
強い力があるってだけで囲われる社会。
弱者に優しく、強者に厳しい社会。
「……俺らふたりとも、望んで手に入れたものじゃねえのにな」
今は、明確に動く理由が見つけられねえ。
でも、もしなにかの拍子に、自分の中の炎の揺らぎを感じたら。
──その時は今度こそ、世界さえも壊すんだろうな、この手は。
拳を握ると、革がギュッと鳴った。
いよいよ思考が面倒くさくなって、ジャックは後ろに寝転がった。
「…まあ、もう暫くはこのままでいい」
「それもまたひとつの選択です、ジャック。私はあなたを尊重します」
「……ずいぶん口が回るようになったな」
「あなたの影響です」
「それ、責任感じろってか」
「コメントを差し控えます」
夜空に、ふたつの影が並ぶ。
そのひとつは沈黙を貫き、
もうひとつは淡く、銀に光る軌道を描き続けた。
まるで、それが “まだ消えていない火” を証明するかのように。




