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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第二幕】火花の予感

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百二十一層:火花の予感.01


時間は少し巻き戻り──新年の儀を終えた日の夕方。

眠りに落ち始めたソルを背に、ツュシカの鐘の残響と共に、一隻の滑空船がヴェルトルクの桟橋へ静かに滑り込む。


船べりに腰をかけたままのジャックと、頭痛を抱えた戦士たち。

どこ吹く風とばかりに銀髪を揺らすジャックへ、ゾムリスは恨めしそうな目を向けた。


「お前は、もう少し、他人を焼かねえ“距離”ってもんを覚えろ」


ジャックは返事の代わりに舌を突き出し、そのまま桟橋へ飛び降りる。

ふわり──重さを感じさせない着地。

子どもじみた仕草に、誰も笑わない。

桟橋の板が軋む音だけが短く鳴った。


ネクが音もなく、その背を追う。

銀球の側面で機械眼が三拍子に明滅し、まるで呆れたように赤が点る。


続いて戦士たちが滑空船を降りていく。

迷うことなく闘技場へ向かうジャックの足取り。

その姿は、どこかすっきりとして見えた。


「なにもあんな言い方しなくても良かったのに……」


ラスターがジャックの横に並び、わざとらしくため息をつく。

肩をすくめ、やれやれとばかりに首を振った。


「俺の言葉で否定しろっつったろ」

「子供っすか……?」


アウディら若い戦士まで、呆れたようにジャックを見やる。

ずっと遠くにいる理想の戦士──でもこうして隣に立つと、中身は幼い。

外見は完璧なのに、虚像の皮が剥がれたように、あまりにも子どもじみて見えた。


ゾムリスは煙草の煙を吐き、静かに続ける。


「お前はともかく、ガットまで派閥が立っても無視してた理由、ようやく腑に落ちた」


グリプが上げた声明だというのに、立ち上がったのは“ジャック派”。

顔も出さない島主と、見目麗しく噂の絶えない戦士──世間がどちらを象徴に選ぶかは、分かりきっていた。

その火消しを、ジャックはグリプの仕事と割り切って放置していたが、ガットまでそれを無視していた理由を、いまになって理解した気がする。


「俺がやる気ねえって言ったからだろ」


ジャックはあっけらかんと言い、ヴェルトルクの小さな港を抜けて、闘技場への一本道を進む。

道すがら、全島放送を見ていた島民が彼の姿を見てざわめく。

それが安堵か、警戒か──どちらでも構わないという顔で、ジャックは歩き続けた。


「……それだけじゃねえ。あいつは分かってた。──お前じゃ、誰かの上には立てねえ」


ジャックは鼻で笑う。


「やっとこさ分かったのかよ。英雄じゃねえって」


戦士たちが一斉に、深く息を吐いた。

空気が軽くならないため息だった。


「…戻ってきたか」


街を抜ける途中、共同井戸のすぐそばで懐かしい声がした。

立ち止まり、ジャックが視線を向ける。

コツ、コツ、と聞き慣れない杖の音。


「……お前、生きてたのかよ」


杖をついて、片手をノイマンに引かれながら歩いてきたのは、ヴォルドだった。

一歩前へ出るだけで膝が笑う。

歩幅が縮み、しわが増え、白く濁った目が、記憶よりも広く曇って見えた。


ジャックの口から漏れたのは、少し乾いた声だった。

けれど、ほんのわずかに目元が緩む。


「なんだその言い草。引きこもりに言われたくねえな」


ヴォルドはへへへと、昔の調子で笑った。

彼が闘技場に晩酌に来なくなって久しい。

たぶん最初は気を遣ってのことだったが、いつの間にか、この距離を歩くことさえままならなくなったのだろう。


ジャックは、闘技場へ向けていた靴先を変えた。

ゆっくりと近づいてくるヴォルドへ歩み寄り、井戸脇のベンチへ。

ヴォルドが腰を下ろすのに合わせ、ジャックも隣に座り込んだ。


ノイマンが杖を立てて息を整え、ネクが銀球の影を短く落とす。

石畳の上で水桶がかすかに揺れ、夕風が近くのパン屋の匂いを運んだ。


「……聞いてたぜ、全部。派手に振ってきたな」


ヴォルドの横顔は笑っているのに、目だけは笑っていなかった。

指先がふいに動く。

そちらを向くと、小さな広場に白い幕。

空中に浮く四角い箱が、何も映さないままで留まっていた。


ジャックは、それが何の役割を果たす装置なのかは知らない。

ただ、自分の周りを巡る銀球と見比べて、それ以上は何も言わなかった。

聞いたって言うなら、聞いたんだろ。


ジャックは気だるげに首を回す。

戦士たちは、掘り返された記憶に顔をしかめた。

ヴォルドはまるでそれが見えているかのように、低く喉の奥で笑う。


「ま、ちゃんと言うようになったってだけでも、成長だな」


言いながら、ヴォルドは小さな酒瓶を取り出した。

風で真っ白な髪が揺れる。

いつも通りの、のらりくらりとした雰囲気だ。


「飲むか?」

「その足でまだ飲むのか」

「こいつが俺の燃料さ。毎日俺が死んでねえことに乾杯でもするとしようや」

「……それは冗談にすらならねえよ」


へへと笑う老天使を軽く睨み、ジャックは素直に受け取る。

蓋を外して、口をつける。

喉が、少しだけ熱くなった。


すぐそばに立っているノイマンが、困ったように笑った。

戦士たちも、誰もなにも言えない。

この老天使の寿命が、そろそろ尽きようとしていることは誰の目から見ても明らかだった。

好きに飲ませればいい。

花壇の花が、静かに揺れる。


湿った空気の中で、ジャックとヴォルドだけは別だった。

ゆっくりと杯を傾けるヴォルドの横で、ジャックが酒瓶を煽る。


「……で?」

「ん?」

「なんか言いたくて、わざわざ声かけたんだろ?」

「へへ、ばれたか」


ヴォルドは杯を傾け、ちょっとだけ湿らせただけで戻した。

喉仏が一度、上下する。


「なあ、ジャック。説教する気はねえけどよ」

「……」

「俺はお前が好きなんだ。だからひとつ言わせろ」


また酒を一口煽って、少し噎せる老天使。

ジャックは黙って座っている。

手元の酒瓶を、わずかに回しながら。


白燈(アルシェ)に座れだの、座るなだの。英雄だの怪物だの。まあいろんな言われ方するよな」


ヴォルドはわざと声量を上げた。

街にいた天使らが、その声にかすかに動きを止める。

見ないふりが、音でほどけた。

誰かが息を詰める音がした。


「うんざりするのも分かる。お前は何してても目を引くから、みんな話題にしやすいのさ」


視線が一瞬、ジャックに集まった。

長い銀髪、夕陽を反射するエメラルドの瞳、耳で光る紫のピアス。

ただベンチに足を投げ出しているだけなのに、見慣れない美しさ。

戦士の目が、一瞬だけたじろぐ。


「だから余計に、好き勝手してるって思われやすい。目立つから、誰かのために生きてるやつなのか?ってみんなが値踏みする」

「……勝手かよ」

「そういうもんだ。お前が甘いシュクトパイを食ってるってだけで、新聞が騒ぐぞ」


誰も言いすぎだ、とは言えなかった。

今のジャックなら、それこそ小石を蹴っただけで面倒につながりそうだった。


「──とくに、力ある戦士は怖いからな」


その一言で、ジャックは言いかけた文句を飲み込んだ。


羨望も、期待も、好意も。

いろんなもんが乗っかる目線をいつも浴びていた。

だからわかる。

恐怖だって、同じくらいそこら中から向けられていたことくらい。


黙り込んだジャックに、ヴォルドは「でもよ」と続ける。


「お前はお前の道を行きゃいい。島の連中も戦士も、自分の道を歩く。それが、お前の道に沿ってる時だってある」

「……」

「勝手にすんのはお前だけじゃねえのさ、若造」


喉に引っかかる酒を落とすように、ゆるやかに胸を叩くヴォルドから、思わず目を逸らした。


ヴェルトルクに昔からいた島民たちが、いつの間にか店先や家から出てきていた。

その顔はどれも暖かくて、まっすぐにジャックを見ている。

後から渡ってきた移住の天使らも、ちらほらとその輪に混ざっている。

だが同じくらい、視線を逸らす者たちもいた。


()()()()が同じ距離にある。

でも──

島をゴロツキから取り戻してくれたと言う古い島民。

自分を慕って集まったゾムリスやラスターら戦士たち。

火を見たいと言って居続けるノイマン。


同じ距離にあっても……

この島の中じゃ、圧倒的に“熱”のあるまなざしの方が多い。


「……」


ジャックはむず痒さを逃がすように酒瓶をあおった。

たいして強くもない光酒(こうしゅ)が、喉を焼いて落ちていくようだった。


「……結局、説教じゃねえか」

「へへ。年取るとどうしてもな」

「うるせえ耄碌(もうろく)じじい。酒やめとけ、死ぬぞ」


そう言って、ヴォルドの手の杯を取り上げると、そのままの勢いで飲み干した。

空っぽになった手を、どこか嬉しそうに見て、老天使はからりと笑った。


「…飲んだな?ジャック」

「あ?お前が飲むかって──」

「じゃあ、()()()()()()よろしくな」

「……は?」

「そりゃそうだろ。世の中タダなんて都合のいいもんはねえ」


ジャックは返さない。

けれど、掌の中で瓶をゆっくり転がしている。

ヴォルドは悪戯に笑って、ゆっくり立ち上がる。

よろめいた腕を、ジャックはつい反射で掴んだ。

ノイマンが反対側から支える。


「まずは俺の家の雨樋(あまどい)、直してもらうとするか」

「…おい待て、まだなんも…」

「明日な。ソルが起きたらすぐ来いよ。雨のたびにうるさくて仕方ねえんだ」

「……」


低空のヴェルトルクといえど、雨が降るのは本当に稀だ。

それなのに、ジャックは、ヴォルドの腕を掴んだその手に、知らず力を込めていた。

それは止めるためではなく、支えるためだった。


「……クソ、長生きはほんとに口が上手くなんだな」

「まだ負けねえよ」


ヴォルドの笑い声が、空に溶ける。

ジャックの胸に、ほんのわずかに──温度が戻っていた。


ヴォルドはノイマンに支えられて帰っていく。

片手で短い手話を切るように結び、胸へ戻す。意味は分からない。

けれど、たぶん──「おかえり」だ。

なんとなく、そう思った。


酒瓶を片手に、ジャックはふたりの背を見送る。

隅の戦士が、ぼそりとこぼした。


「……全部敵に回していくくせに、嫌いになれねえのがタチ悪いよな」

「ね。言い方は最悪でも」


ラスターがすかさず口を挟む。

誰ともなく頷いて、また別の戦士が苦笑まじりに続けた。


「その見た目で、その性格で、その言葉遣いが致命的なんだよな」

「ジャックは社会を回せねえ。でも天使って“種”を回してる。止まってた歯車をぶっ壊して」

「はは。よく分かんねえけど、分かる気がする」


ネクの赤が一度だけ点滅する。

ジャックは答えず、瓶の口を軽く鳴らした。

井戸の水面に小さな波が走り、夕風がそれを平らに戻していく。


煙草の長い煙を吐きながら、ゾムリスがジャックへ向き直った。


「俺たちも──誰もお前に椅子に座れとは言わねえ。クリスとやり合えとも言わねえ」


声は落ち着いている。

橙の瞳がいったん地面に落ち、そこからまっすぐジャックを射抜いた。


「椅子に座るなら、グリプだ。あいつはあの歳で外も内も見る。──お前のこともな」


ジャックの元を離れ、グリヴェスでグリプの護衛を請け負っていく中で、ゾムリスや一部の戦士は気づいていた。

グリプには商才だけでなく、統治の才がある、と。


声変わり前の小さな子ども。

周りの大人に支えられてはいるが──

市場で値切りを止め、地図に印を打ち、言葉選びやタイミングを誤らない。

意志は強く、決断は速く、対外のやり取りでも怯まない。


ジャックとガットが互いの欠けを埋め合うように、

グリプとジャックもまた、表と裏だった。


グリプの名があがって、ジャックはわずかに目を見開く。

──長い時間があっても、俺の看板を自分の色に塗り替えられなかったガキ。

だが、目の前の連中の顔は違っていた。


ちゃんとそこに、火を見てきた目だ。

いや、火種を受け取って帰ってきた目だった。


気づけば、ジャックの口角が、ほんのわずかに緩んでいた。


「確認させて。君はもう何もしない。ガットのために。──そうだね?」

「ああ」


酒瓶を片手に歩き出したジャックを、ラスターが追う。

短い返事が落ちた。

ぞろぞろと進む列で、戦士たちが目くばせを交わす。


「……今更言いたくないけど、裁判所で“生かされてる”のは、きっと贖罪なんかじゃない。悪魔は甘くない。天使を目の敵にする場所で独りで生き続けるのは、地獄と変わらない」

「……地獄のほうが、まだマシかもな」

「それでも、いいんだね?」


ゾムリスがぼそりと加え、煙草の灰が落ちる。

ラスターが最後の確認とばかりに、ジャックの正面へ回り込んだ。

自然と、足が止まる。


「俺が暴れて世界を焼いても──たぶん、あいつは帰ってくる。けど、俺もガットも、そんなの望んじゃいねえ」

「……」

「恨まれるかもな。けど、生きてさえすりゃ、あいつも勝手にできるだろ」


そこで生き続けるなり、逃げ出すなり──なんだっていい。

ただ、俺が黙ってるってだけで命が保証される仕組みがあるうちは、

それを捨ててまで、自分を優先させる気はねえ。


ネクの赤が、了承みたいに一度だけ点った。


「……ふたりって、血はつながってないんですよね? 家族でもないなら、どんな──」


恐る恐るアウディが切り出した。

ふたりの過去に触れるには、まだ勇気がいった。


ジャックは軽く肩をすくめる。


「たぶん他人だ。よく知らねえ」

「知らねえって……いつから居んだよお前ら」


ゾムリスが半ば呆れたように言う。

ジャックは思い出すように一瞬、目線をあげた。


「……気付いたらいた。いつとか、覚えてねえ」

「……」

「でも、だとしたら余計に……ガットさんもジャックさんも、なんでそこまでお互いに命預けられるんすか?」


言葉を選んだようで、その問いは直球だった。

けれど、ジャックは怒るでも呆れるでもなく、ただ静かにひとつだけ、息を吐く。


「知らねえよ。俺は頼んじゃいねえ。けど、あいつが勝手に命張ってるだけだ」

「勝手にって……なんの理由もなしに毒味やらしないと思うよ」


ラスターが顔をしかめる。

それでも、ジャックの目線はぶれなかった。


「……バカ真面目に、昔指示されたことやってるだけだろ。護衛とかなんとか、たまに、腹が立つけどな」

「……」

「ただ、あそこをぶっ壊して出てきたのは俺だ。あいつが世間の目に晒された責任は、俺にある」


ほんの少しだけ、声に苛立ちをのせながら。

けれどどこかに諦めに似た気だるさが滲む。


「でも、それだけじゃねえ。たぶん、()()()()()だ」

「名前?」


話の飛躍に、誰もが首を傾げた。

ジャックは宇宙を透かし始めた空を見上げる。

新年最初の星が流れるのが見えた。


「“内臓(ガット)”。あいつが昔、自分でつけた。──きっと、そのまんまの意味だ。俺の内臓みてえなやつ」

「……」

「だからかもな。死なせらんねえの」


しばし沈黙。


誰かがハッとする。

これだけ長い時間を共にしながら、誰も“ふたりが名乗る瞬間”を見ていない。

噂だけが、本物に輪郭を与えていたのだと、今さら思い出す。


ネクがくるりとジャックの周りを巡る。

それを一瞬だけ目で追ってから、ゾムリスが煙草を咥え直した。


「……お前の名前は?」


ジャックは酒瓶を空け、一拍あけて、口角だけで笑う。

わずかに細められたエメラルドグリーンが、どこか悪戯に笑いながら。



「──“ただの男(ジャック)”。イデラじゃ、そう言うらしい」



──そして、数日後。鐘は蒼殻(そうかく)の空に広く鳴り響き、街は“座る音”を聞くことになる。


それは新しい時代の始まりの音であり、

ひとつの星が燃えたまま、静かに眠りへ落ちた合図でもあった。



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