百十七層:君を救わないと決めた日.03
「──俺は、白燈に座らねえ」
その言葉の余韻が白城の中庭に落ちたまま、誰も動けなかった。
歓声も、怒声も、押し殺した嗚咽さえ、すべてが止まっていた。
ジャックは人垣の中央で立ち止まったまま、淡々と口を開く。
「勝手に決めんなよ」
ひとつひとつ、石を落とすような低さだった。
白亜の城を囲む美しい風花たちが、ざわりと揺れる。
彼の周りを回るネクのライトが、わずかに明滅した。
「誰も頷いてねえってのに、英雄だの抑止力だの……」
「……」
「俺が力を振るう先を、なんでテメーらに決められなきゃなんねえんだよ」
声は張らない。
けれど、その静けさこそが鋭くて、全員の胸に杭を打った。
壇上のクリスの喉が小さく鳴った。
胸の奥で期待が一瞬だけ燃え上がり、次の瞬間には氷のように砕け散った。
フジはただ黙ってこの状況を眺めている。
その後方の使者の誰かが、息を飲んだ音がした。
ジャックの声は、姿は、花壇に変わらず浮き続けるカメラが全てを捉えていた。
その美しい外見も。
見かけにそぐわぬ粗暴な態度も。
切って落とされるような、鋭い言葉も。
全部、リアルタイムで蒼殻中に届いている。
その事実を思い出して、アントラたち技術者たちがわずかにたじろぐ。
「英雄じゃねえ。ヴァルカンでもねえ。──ただの“俺”だ」
睨みつけるでもなく、淡々と。
「……それ以上の名前、勝手に作んな」
そう告げる声がその場を貫いた。
“英雄”を求めていた耳には、あまりに無骨で──けれど、それ以上に抗いようのない現実の音だった。
「俺が剣を振るったのは、あいつを救うためだった」
「……」
「敵に回す覚悟は、悪魔だけじゃねえ。……テメーらでもだ。邪魔するって言うなら、叩き潰す」
ざわめきが、一気に広がりかけて、でも声を上げられなかった。
ただクリスの金の瞳を捉えて離さないエメラルドを、皆が黙って見つめるしかなかった。
「新ジャック派だかなんだか知らねえが──勝手に名前使われんのが気に入らなかったから、潰しただけだ」
ひとつひとつが、否定の言葉だった。
全てが崩れていく。
長い月日をかけて、整えてきたはずの英雄の道を、土足で、踏み抜いてくる。
「そもそも──」
一拍の間を置き、ジャックは人垣を見渡した。
「英雄英雄って、お前ら全員他責すぎんだよ」
声は鋭く、やけにその場に響いた。
「誰であれ、力で他人を捩じ伏せて、命を奪っちまうような業火を……英雄って崇めること自体、馬鹿らしいだろ」
一帯に、奇妙な静けさが落ちた。
「誰かに全部背負って貰おうって姿勢が、まず気に入らねえ」
天使たちの顔が一斉に「……今、何を言われた?」という色で固まる。
怒号も歓声も受け付けない。
ただ呆然と、まるで言葉の意味を理解するまで時が止まったかのように。
それは、天使という種族そのものを敵に回すような言葉だった。
神獣信仰が根深いように、長きに渡り英雄を尊んできた天使種。
戦果を挙げ、民を守るために刃を振るい、炎を灯して導いてきた数多くの英雄たち。
ヴァルカン以外の多くの名が燃え尽きたとしても、彼らがいた事で今があることは確かだった。
そして最も尊ばれるべき英雄こそ、最も多くの戦果を残したということは──それだけ、力によって全てを統べ、多くの命を奪ったということでもあった。
悪魔だけじゃない。
内乱もあった。
そういう伝承は、確かに残っている。
ヴァルカンは、多くの民を救い、多くの暴徒を灰にしたと。
──鍵に誇りが宿るのか?
かつてこの男が落とした問いより遥かに重い何かが、全ての天使に突き刺さる。
──命の上に立つ誇りは、存在するのか?
…本当に。
ざわめきは怒号にも歓声にもならず、ただ『理解できない』という沈黙に変わっていった。
ネクがわずかに軌道を乱す。
ピ、ピ。と警戒音のようなものが鳴ったが──
誰にも届くことなく、風の中に消えていく。
センサーに「記録不能」の文字が一瞬だけ走り、すぐに消えた。
本来なら、どんな言葉も正確に記録できるはずだった。
だが今、ジャックの声はただの情報ではなく──“熱”として胸に残ってしまった。
「……これは、定義できません」
ネクは初めて、記録と解釈の境界で揺らいでいた。
自身のコアの温度が上がっていることだけを、ぼんやりと自覚していた。
後ろに控えるゾムリスが、歯を食いしばった。
「……そこまで言えとは、言ってねえ……」
横のラスターも頭を抱え、数名の戦士が半歩後ずさる。
誰もが思った──ジャックは“否定”するつもりでここに来た。
だが、ここまで“全否定”するとは。
「……台本、作るべきだったっすね…」
アウディが空を仰ぐ。
でも、たぶん何言っても無駄だ。
こいつの破壊力を忘れていた自分らが悪いと、戦士たちは改めて目の前の火の御しがたさに目を逸らした。
壇上のクリスは金の瞳を大きく見開いたまま動けなかった。
期待が膨らんだ分だけ、その落差が鋭く胸を裂いていく。
声が震えそうになるのを、必死に噛み殺す。
その一歩後ろで、フジだけが肩をわずかに揺らす。
銀の瞳が細くなり、笑みとも嘲りともつかない“線”が浮かぶ。
やっぱりこうなるかァ……
言葉には出さない。
けれどその笑みは、最初から結末を見透かしていたようだった。
広場の空気が、ぴたりと止まっていた。
花弁さえ舞うのを忘れたように。
誰の息遣いも、声も、音もない。
壇上に立つクリスと、その前に現れたジャック。
ふたりの間に流れる声だけが──ただ、世界の中心に響いていた。
「……何を言っているの、ジャック」
金の瞳が震える。
声は為政者のそれであろうとしたが、掠れが滲んでいた。
「はっきり否定しに来てやったんだよ」
対するジャックの声は冷たく、しかしまっすぐだった。
「テメーが回りくどいことするから、面と向かって“止めろ”って言いに来た。それだけだ」
「……あなたって天使は……本当に……!」
吐き出すようなクリスの言葉は、震えにかき消される。
それだけなら、他にもやりようがあったはずだ。
どうしてこんなに、全てを根底から破壊しようとするの。
どうして、自分だけは間違ってないって顔するの。
どうして、私を、全部、否定しようとするのよ……!
「安心しろよ」
クリスの拳が震える。
今にも目の前の男の顔を引っぱたきそうだった。
ジャックは構わず一歩進み出る。
その影が壇上へ伸びた。
「お前が俺に着けた首輪だけは忘れてねえ」
その言葉に、クリスの喉が小さく鳴る。
壇上の風花が、音もなく傾いた。
彼女の脳裏に、あの日の光景がよぎる──
“若さより愛を選べ”と、“自分より弱い者を守れ”と彼女が告げたあの瞬間が。
「テメーが最初に始めたことだ。自由より命を選べって。社会を学べって言ったな?」
ジャックの声は低く、鋭く突き刺さる。
見下ろしてくるエメラルドグリーンは、ひどく静かだ。
「でも結局、学べって言っても体良く俺の火消しを情報戦に使ったってことだろ?その先で“椅子に座れ”って言うなら──そりゃ、御免だ」
「……!」
「命と引き換えにした“自由”まで、テメーにやるとは言ってねえ」
言葉が出ない。
胸の奥で崩れ落ちる感覚だけが、彼女を蝕んでいく。
積み上げてきた覚悟も、祈りも、期待も──すべてが足元から崩れていくようだった。
クリスの表情から、何も感じないわけじゃなかった。
けれど、あなたのためと言われて信じた自分が、今は無性に腹立たしかった。
ジャックは首をわずかに傾け、群衆の方を見やった。
その眼差しは苛烈で、だが不思議と淡々としていた。
「天使社会の統一でもなんでも、勝手にやれよ。最初から、そんなもん邪魔する気はねえって言ってただろ、俺は」
「……ッ」
「好きにしろよ。でも──」
白い花弁がひらりと落ちる。
その落下を踏みしめるように、ジャックは声を強めた。
「ガットの命で椅子に縛ろうってんなら、話は別だ」
群衆が息を呑む。
クリスはその一言に、背筋を走る冷たさを覚えた。
「勘違いすんなよ」
ジャックは振り返りもせず、壇上を降り始めた。
背を向けながら、吐き捨てた。
「首輪はついてても──咬み殺す覚悟が抜けたわけじゃねえ」
沈黙が広場を覆った。
ざわめきは起きない。誰も、歯の白さを想像できなかった。
英雄を夢見た者も、恐怖を抱いた者も。
誰ひとり、声を出せなかった。
ただ、美しすぎる白燈の中庭に吹く風だけが、ふたりの言葉をさらっていった。
静寂が落ちる。
クリスの睫毛が微かに揺れた。
目頭が熱を持った。
何か、何かを言わなければ、そのまま形になって零れてしまいそうだった。
「……あなたは、まだそのひとりのために、すべてを投げ出すつもりなのね」
その声には、痛みと怒りと諦めが入り混じっていた。
「私よりも強いのに。私より、ずっと自由なのに。……なのに、あなたは結局、世界の何も見ようとしない」
「……それ、強いとか自由とか、関係ねえだろ」
ジャックは一度足を止め、振り返った。
冷めきった声で、淡々と応じる。
「あの日、俺が選んだのは“ガットの命”だ。“世界の平和”じゃねえ。テメーに言われたからじゃなく、自分で選んだ。選んだからには、貫いてる。他は全部、そのあとだ。──それだけの話だ」
「……」
「お前の正義がどんなに崇高でも、俺の芯と擦れたら、それまでだ」
ジャックは、彼女の軍服の胸に輝く鷹と月桂樹の紋章に一瞥をくれた。
その眼差しには、ほんの一瞬だけ、遠い記憶が差し込んでいた。
「自分の心臓に火を灯せよ。他人の芯まで燃やして、正義ヅラすんな」
「────」
クリスは返す言葉を見失ったまま、ただその場に立ち尽くしていた。
「ガットのためにも、俺は何もしねえよ。社会のためにただ黙って息してろ。そうすりゃあいつも世界も生き延びる。それが、テメーの望みだったろ」
「っ、それは…!」
「だからあそこに座ってやってた。…けど、その椅子には座りたくねえ」
言葉と共に、音もなく何かが崩れ落ちる。
それはきっと、“期待”という名の最後の足場だった。
クリスの胸にあった“英雄像”が、粉々に砕け散る音がした。
この瞬間、クリスは“白燈にジャックを賭ける”という可能性を、自ら焼却した。
その言葉が、決定打だった。
ジャックは再び踵を返して歩き出す。
その背に、戦士たちが静かに追従していく。
「……いつまで、そんな子供みたいなことを言い続けるのよ…!」
言葉にした瞬間、自分の胸に返ってきて、焼けるように痛かった。
声が震えそうになるのを、彼女はぎりぎりで抑えた。
いや、震えていたかもしれない。
それが怒りか、悲しみか、悔しさなのか、もう分からない。
「たったひとりのためだけに世界と向き合って、何になるの? 誰も救えないまま、燃え尽きるだけじゃない」
「……」
「彼は戻らない。──二度と、あなたの前には」
まるで負け犬の遠吠のようだった。
自分自身でも、滑稽とさえ思えた。
二度と。その言葉に、ジャックの歩みがわずかに淀む。
でも、それでも背を向けたまま、静かに答えた。
「それでも──あいつはまだ生きてる」
一拍の静寂。
ジャックは、言葉を選ぶように舌先で奥歯を押した。
「地球の裏側でもなんでも、まだ、生きて呼吸してる」
クリスは黙っていた。
もう何も言わない。
けれど、その手だけが微かに震えていた。
その言葉は正しく、あまりに──残酷だった。
それは、ジャック自身の“変化”の証でもあった。
長い時間をかけて、取り戻した誇りの形。
けれどあまりにクリスが思い描いていた形とは程遠い。
何色にも染まらないという決意。
今の彼は、自分の意思で動き、自分の芯で立っている。
だからこそ、これはもう、覆らないのだと現実が突きつけてくる。
彼の長い銀髪がひらりと靡く。
去り際の背は、かつての英雄を想起させるには十分だった。
──それでも、背は去った。
壇上に立つクリス。
睫毛が震える。
声を出そうとした唇が、かすかに開いて、結局ひとつも言葉を零せなかった。
沈黙。
それは歓声や怒号よりも雄弁で──
彼女は、為政者の仮面を剥がさない。
背筋を正したまま、ただ群衆を見下ろす。
その金の瞳に宿るものを、誰も読み取ることはできなかった。
ジャックや戦士たちが去ったあと、沈黙の中で最初に声を上げたのは島民だった。
「……聞いたか…?本人が認めたぞ!」
「俺たちの仇が、英雄になれるはずがねえ!」
「ほ、本物ってあんなに乱暴なの……?」
その怒声は、もはや誰に向けられたものかも分からなかった。
怒声と嗚咽が重なり、広場に響き渡る。
けれどすぐに、別のざわめきが混じった。
「……でも……」
「じゃあもし、あの友とかいう奴のために、また剣を振るうことになったら……?」
「敵は悪魔だけじゃねえって……今度は、島を割るだけで済むのか?」
その一言に、群衆がざわめき立つ。
「危険だ」「化け物だ」「抑止力どころじゃない!」
声が飛び交い、熱狂と恐怖がごちゃ混ぜになる。
壇上のクリスの心臓が強く打った。
英雄として掲げるはずが、いつ爆発するかわからない化け物として恐れられていく。
この放送をもって、蒼殻のほとんどの天使は、ジャックを英雄から化け物へと手のひらを返した。
英雄信仰すら愚弄する、自分のことしか考えられない危険な男。
声も、姿も、全てがさらけ出されたことで、全ての天使が自らの目で見て、判断を迫られる。
だが、そのうちの何人が、彼のこれまでがどんな人生かを想像できたのか──
それでも、画面の向こうで言葉を失ったまま、ただ立ち尽くしていた天使たちもいた。
声は炎のように膨れ上がり、風花すら焼き尽くす熱気を孕んでいく。
けれど、その炎は、誰の誇りも温めなかった。
それでも──彼の言葉だけは、凍ったまま燃えていた。
……そして誰もが思った。
次にあの男が剣を振るうとき、それは抑止力ではなく“破滅”だ、と。
*
全てが終わった、夜。
誰もいない廊下で、クリスはひとり風の間へ向けて歩いていた。
各島の責任者や使者からの言及、荒れる島民……
全部を収めることはできないまま、逃げ出すように私邸へ向けて靴音が鳴る。
はずなのに。
白い柱に背を預けた瞬間、膝から力が抜ける。
「……あなたが、私を救ってくれると思ってたのに」
小さな声。
誰にも聞かせるつもりのない、ただ自分だけに向けた弱音。
言葉が柱に反響して、静かに自分へ返ってくる。
粗暴でもなんでも、強くて、優しくて──
誰かを傷つけないように、弱者には手を上げないようにできるあなただから……
きっと、いつかは、私の正義を肯定してくれると思ってた。
笑っているのか泣いているのか、自分でも分からない。
声に乗せた瞬間、やっと胸の奥がきしむように痛んだ。
「……期待した私が、馬鹿だったのね」
ぽつり。
笑ったつもりだった。
けれど音にならなかった。
涙は落ちなかった。
もう、全て枯れてしまったのかもしれない。
……やれることは、全てやったわ。
ここまで来たらもう、戻れない。戻ってはいけない。
それだけを残して、彼女は顔を上げた。
次に戻る時には、また仮面を纏うために。
白い柱の向こうを抜ける風が、まだ残っていた彼女の熱を攫っていった。




