百十五層:君を救わないと決めた日.01
ソルの光が真上に差し込んでいた。
エザンバウトの白燈──その中庭は、凍える高度にも負けず咲き誇る風花で満ちていた。
青や赤、白など色とりどりの花々が、まるで祈りのように揺れる。
凍てつく高度に根を張り、誇りを咲かせる風花──それは天使たちにとって、希望の象徴だった。
年の暮れの荒れた復興祭を経て……今日は、年の初めの儀。
その開始へ向けて、クリスは政務服の埃を払った。
フジが時間を気にするように腕を見る。
音時計──振動が、直接鼓膜を揺らす。
アントラが生み出した同層間通信機は、あれから目まぐるしい発展を遂げている。
それは彼は毎夜隠れてネクを更新している、その日進月歩の成長によるものだが──
この場にその真実を知る者はいなかった。
クリスの声は蒼殻全土へと送られる。
いや、音だけではなく、ざらつきは残しつつも、映像までもが届く予定だった。
今日、この瞬間は、天使種に限らず……
人類の科学が、ウフと掛け合わさってより発展したことを告げる、歴史的な瞬間でもあった。
白燈の白い城壁沿いに、いくつかの椅子が並べられている。
各島々の責任者や、使者がそこに座り、年初めの言葉を待っていた。
そのすぐ後ろ、通信機の調子を見届けるために、アントラたち技術局の天使も控えている。
「……はあ…このためだけに徹夜三昧とか」
大あくびをこぼしながら、アントラが小さくぼやく。
すぐ隣に立っていた副主任が、そんな彼の脇腹を小突いた。
「黙ってください主任」
「いやだって、マジありえなくない?言い出したの、三日前だよ?通信機ってね、一個じゃ成り立たないの。受ける側が必要なの」
「知ってますって、だから黙って──」
「四十九の浮島分の受信機作らされたんだよ?!四十九!!三日で!!“お願いね”の一言で!!」
「主任お願いですから…!」
膨れ始めるアントラの気圧を、研究員たちが必死に抑える。
それを脇に立ったままフジがちらりと一瞥し、軽く鼻で笑った。
小突く声とぼやきのやり取りに、周囲の兵士が小さく吹き出しかける。
だが壇上に立つクリスが姿を現した瞬間、空気は一変する。
風花が揺れを止め、兵も民も一斉に息を呑む。
クリスは金の瞳を細め、胸の奥で静かに言葉を形づくっていた。
──二十年。
あの日割れた島は、決して元には戻らない。
それでも民は復興を選び、街は立ち上がった。
だからこそ、もう一度告げねばならない。
未来を繋ぐ火を。
白燈の壇上に立つと、背筋が粟立つ。
ここに立つことを、ずっと拒んできた。
私にはできない。やりきれない。ふさわしくない。
でも、それもこれっきりよ。
今日はただの新年の儀ではない──決断を告げる場なのだから。
エザンバウトの島民たちは、檀上に立っているクリスへ期待のまなざしを向けていた。
彼女が新年の儀を行う場所は、今まで決まって、街の中央広場だった。
彼女は決して白燈の敷地に踏み入らなかった。中庭にも、廊下にさえ。
いつもその回廊に併設された風の間までしか行かず、
どんなに島民たちが願っても、その椅子に腰かけると約束することはなかった。
だが今、彼女は自らの意志で、過去たくさんの統治者たちが立った演説壇の上にいる。
皆のまなざしが明るかった。
数日前の復興祭での爆発した民の声。
それがようやく彼女へ届いたのかと、熱を孕んだ目が無数に見上げてくる。
やっと、あの空白の椅子を彼女が埋めてくれるのか、と。
クリスの瞳がゆっくり開かれる。
皆の瞳は彼女に注がれていたが、彼女の視線は決して民へは落ちない。
見据えるのは──街、過去の傷跡、そして未来。
クリスは深く息を吸い込み、言葉を放った。
「エザンバウトが割れてから──今年でちょうど二律動」
風花が一瞬だけ空に滞り、民衆の喉が同時に鳴る。
「復興は進み、街並みは以前と見劣りしないほどになりました」
凛とした声が音のウフで拡声される。
クリスの全身を映すように置かれた小さなカメラ。
石造りの城壁と花の中庭に、ただ一つだけ浮いている鉄の箱。
まるで、時代が軋む音すら聞こえる気がした。
イデラ技術と複数のウフの複雑な結合によって改良されたそれらが、蒼殻全土へ彼女の声を、姿を、確かに届けていく。
遠く離れた島々でも、この場の声と映像が同時に届く──誰もが初めて味わう、不思議な一体感だった。
「あの日を思い出すたびに、心が抉られる者も多いはず。それは、仕方のないことです。あの痛ましい“災害”は、避けようのなかったものでした」
言葉が広がるたび、中庭の空気がかすかに揺れた。
──本当は、避けられた。私が別の火を選んでいれば。
クリスは指先が痺れる感覚をやりすごすように、ゆっくり拳を握る。
「私たちは光の元に生きている。でも光には必ず影が付いて回る。あの日落ちた衝撃の裏には、悪魔たちの影があったことを、皆すでに知っているはずです」
風花の花弁がざわりと音を立て、白亜の城の高い壁に反射して、ざわめきが幾重にも返ってくる。
新年の言葉にしては不穏な流れに、目の前の島民が数名、顔をしかめた。
けれど、クリスは止まらない。
「彼らは私たち天使種とは相いれない存在。数の暴力で各社会に侵食し、今なお、我々蒼殻に、深くその法を届かせようとしている」
列の前方で、年老いた天使がうつむきながら両手を組むのが見えた。
戦の記憶は、まだ誰の中からも消えてはいない。
「多くの者が忘れられていないはず。悪魔たちとの度重なる戦争で、私たちは常に暗闇を恐れている。今は前統治者ライパビの忘れ形見による不可侵条約によって、かろうじて成り立っているこの平穏は、いつ夜に飲まれてもおかしくないのです」
幼い子供でさえ、親が暗闇を恐れるように教え込む。
それが天使の常識で、生存を高める智慧でもあった。
クリスはひと呼吸置き、喉奥に残る震えを押し殺した。
背後にそびえる白燈の椅子が、沈黙のまま彼女を見下ろしている気がする。
逃げ道のない冷たい視線。
だがそれこそが、次に続けるべき言葉を形作っていた。
ざわめきが広場をかすめた。
白燈の中庭に集った数千の目が、壇上に立つ彼女へ吸い寄せられていく。
空席の椅子の存在感が、背後で重くのしかかる。
クリスは深く息を吸った。
この言葉を告げるために、ここまで歩いてきた。
これ以上の逃げ道はない。
「だから──」
声が震えそうになった。
だが──この瞬間だけは揺らいではいけない。
壇上の足元には、幾千の花弁が風に揺れている。
その下で見上げる民衆の瞳に映るのは、決して“ひとりの女”ではなく、蒼殻を背負う為政者の姿でなければならない。
あの日からずっと、誰も座らせてこなかった椅子。
血と涙で守られ、同時に空席のまま、恐怖の象徴にもなってきた椅子。
それを前に立つ足が、わずかに重くなる。
けれど、だからこそ──言葉にしなければならない。
「──私は決断しました。この白燈を、これ以上空席にはしない」
広場にざわめきが走る。
ざわめきが花々に吸い込まれるようだった。
彼女は一歩、壇の中央へ進み出る。
睫毛を震わせないように一度目を閉じ、そしてまっすぐに、青く広がる空を見つめた。
「その座にふさわしい者──ジャック・J・ジッパーを迎える」
言葉が空気を裂いた。
沈黙が落ちた。
「──え?」と、誰かが呟いた声がした。
それが目の前に集まった島民の誰かなのは分かっていたからこそ、クリスは、目線をそちらへ向けられなかった。
やがて、歓声が最初に上がったのは、外から来た使者や責任者たちだった。
「やはり!ついに来たか!」
「ジャックが白燈に座る!」
「クリス様ではなかったか……いや、しかし彼が座れば蒼殻は安泰だぞ!」
彼らの声が風花を震わせる。
背後の観覧席から割れるような拍手が響き、クリスは喉の渇きに気が付いた。
掌に汗が滲む。
だが次の瞬間、島民の怒声がその熱狂を切り裂いた。
「ふざけるな!島を割った張本人だ!」
「彼が何をしたのか忘れたとは言わせない!」
「英雄?笑わせんな!あいつは化け物だろ!」
涙交じりの声。剣を抜きかける戦士の拳。
歓声と怒号がぶつかり合い、広場に浮くカメラがざわめきに煽られて揺れた。
クリスは唇を噛んだ。
胸の奥に杭を打たれるような痛みを覚えながらも、声を張る。
「……静まって!」
金の瞳が、群衆を射抜いた。
音のウフが彼女の声を空気へ震わせる。
「……分かっている。あの崩壊を、この島が忘れることはない」
睫毛が震える。
でも、背筋だけはまっすぐだった。
「けれど──彼の力は、この蒼殻を守る。未来を紡ぐ火になる」
その声は空へ通ったが、誰の耳にもわずかな掠れが混じって聞こえた。
「もう彼だけなのよ。あの死神に対抗しうる“力”を持っている天使は」
民のやるせない顔。鼻をすする音。
「…ふざけんな!白燈は、戦で命を落とした統治者たちの椅子だ!」
「認められるかよ!もうその椅子は血で汚れてる!」
そんな声がまだ湧き上がる。
一方で、喜びを隠せない顔のまま、黙り込む使者たち。
「なあ、でも、悪魔のせいなんだろ?あいつがここを割ったのだって、誤解だって……」
ぽつりと、誰かが口にした。
「──は?」
「法律を強制しに何度もエザンバウトに悪魔が来てたから…クリス様が悪魔と結託したって勘違いしたせいって、新聞に書いてあった」
「だからって……じゃあ、復興作業に顔も出さねえ奴が、座るのを黙って見てろってのかよ?!」
「でも、代わりに他の島の戦士たちを制圧して回ってたんでしょ?」
声が波のように押し寄せる。
否定と肯定。拒絶と擁護。
生まれ故郷を更地にされた恨みと、私が整えた英雄像を信じる者の声。
……心臓が裏返りそうだわ。
でも、
クリスはまぶたをきつく閉じながら、胸の奥に沈む重さを隠した。
──これでいい。
これで彼も、動くはず。
けれど喉の奥には、「もし拒絶されたら」という恐怖が絡みついていた。
視線を浴びすぎて足が震えそうになった。
彼女は再び湧き上がる喧噪の中で、ただ祈るように息を吐いた。
風花の香りの中、アントラは白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、冷めたまなざしでそれらを見ていた。
「……結局、“武力”も“科学”も、戦争道具にしかならないんだよね」
「…主任」
「あーーやってらんない。ほーーんとクソ」
頭をガシガシ掻きながら嘆くように空を仰ぎ、遠慮ない声を響かせる。
分厚いゴーグルの奥の瞳が一瞬、花壇に浮くカメラをとらえた。
……全部の島に通信機を送った。
ネクのコアを書き換えた夜を、眠気と一緒に思い出す。
この放送は、全ての天使が、同時に耳にしてるはず。
映像は、ちゃんと映ってるか怪しいけど。
──あの男は、きっと街に降りないから、ヴェルトルクの島民に言われるまで、気づかないだろう。
いや……
ネクが、受信してるか。
けど、今のあの子がそのまま、ジャックに真実を告げるとは思えない。
だいぶ“生き物”の心を理解するようになった…と思ってるけど。
バカ親目線かも。
でも、だからこそじゃない…?
これ、本人が知ったら──
……あれ?
ふいに、背筋が凍った。
これ、もちろんジャック本人は知ってるんだよな…?
頭の後ろに組んでいた腕が崩れる。
壇上のクリスを見る。
多くの“声”に板挟みになったまま、それでもなお凛と立つその背中を。
その一歩後ろに控えるフジの口角が、やけに歪に吊り上がった気がして──
それが余裕の笑みなのか、嘲笑なのか──ただの挑発なのかも、分からない。
「……嘘でしょ」
喉の奥に氷を流し込まれたように、全身が固まった。
ぞわりと、肌が粟立つ思いがした。




