百十四層:愛と誇りと、正義と命.06
翌朝、わずかな仮眠の時間を挟んで、ジャックはソルの目覚めを廃闘技場の管理室で待っていた。
まるで生活感のない空間だった。
壁を抉るように作られた水道には水気もなく、暖炉に火が灯った様子はしばらくない。
そのすぐ脇の壁にかけられたままの調理器具には埃が溜まり、床に薬莢がひとつ、静かに転がっている。
──物がない。
けれど──二つのベッドだけは違った。
片方は乱れたまま、もう片方はきちんとシーツがかけられている。
使われた形跡はないのに、不思議と埃は積もっていない。
まるで、いない誰かの帰りを待つように。
あるいはただ、自分が忘れないために。
小さなテーブルに不揃いな椅子二脚。
そのうちの一つを窓際へ寄せて、寄りかかるようにひび割れたガラスの先へエメラルドを向ける。
「……ネク」
水平線に溜まる光をじっと見つめながら、ぽつりと、言葉を落とした。
肺が冷え切った空気を吸い込み、わずかに軋む。
狭い管理室の天井付近に留まっていたネクが、ゆっくりと降下した。
ジャックの目線の高さまで下りたとき、彼は窓の外を見たまま続ける。
「……グリューって神獣、知ってるか」
ネクは間を置かずに応える。
「はい。神獣グリュー。勝利と戦争を象徴する存在。姿は月桂樹と鷹。天に掲げられる誇り高い“誉”を表す意匠です」
「……」
「“生は強者に寛容で、弱者に冷淡である“。この一文がグリューの言葉とされています」
ジャックはその言葉を聞きながら、空を仰ぐように目を細めた。
どこか、過去を透かすような目だった。
「月桂樹に鷹、ね……。言われてみりゃ、あいつの背負ってた紋章だな」
エザンバウトで、クリスが掲げていた旗を思い出す。
堂々と、空を睨むような鷹と、栄光の冠のように絡まる月桂樹。
ジャックは軽く舌打ちした。
「…でけえよ。高すぎて見上げる気にもなんねえな」
ネクのセンサーが反応し、緩やかにジャックの周りを回った。
「あなたは、その“象徴”に疑問を?」
「疑問っつうか……そんなもん、ほとんどの奴にとっちゃ重しだろ」
その声に、棘はない。
ただ、めんどうくさそうに、こぼれ始める光の粒を見つめている。
「それに、誰かが笑ってても、誰かは泣いてる。全員が笑ってる世界なんか気持ち悪ぃだろ」
戦争なんて、始めた瞬間に、どこかで誰かが泣くようにできてる。
なのに、あいつは──クリスは、勝った先にしか正義を語れねえって言うんだよな。
「誇り高いのはいい。……勝ち抜いたやつが正義を決めるってのも、言いたいことは分かる」
「……」
「……でもよ、力のねえやつが、じゃあ“お前のそれは正義じゃねえ”って言われたら、そいつはどこ行きゃいい?」
吐き出すようでいて、声はどこか淡々としていた。
それは怒りというより、長く見てきた矛盾に疲れた者の声。
「勝ったやつが掲げる旗の下に並べ、って?……そんなの、ただの脅しじゃねえか」
ネクがわずかな駆動音を立てながら、ゆっくり回る。
ジャックは窓の外を見たまま、目を細めた。
「だから──あいつは“弱者救済"を掲げてんのか?戦えねえ奴らの代わりに立って、そいつらの声が通るように。……でも、その弱い奴が必ず正解を言ってるとも、限らねえだろ」
風が吹き抜ける。
下空に浮かぶ分厚いの雲の隙間に、わずかな陽が覗いた。
「グリューってやつは、力の強弱のこと言ってんのか?“勝ったから正しい”って、それだけの話かよ」
──見つめていたのは、陽の差し込む先ではなく、まだ雲に閉ざされた“下”の空だった。
「強いやつは生きやすくて、弱いやつは生きにくい、ね」
「……」
「だったら一番生きやすいの、俺のはずだろ」
傲慢とも取れる言葉のはずなのに、ネクは否定ができなかった。
驕り高ぶるわけではない。
ただ単純な、事実を述べている物言いに、言葉を挟む必要を感じなかった。
「そのくせ、なんでこうも──歩きづらいんだよ」
ぼそりと零れた声が、胸の中心を締め付けた気がした。
意図してないのに、目線が一瞬、整えられたままのベッドへ向く。
それから壁の調理用品。床に転がった薬莢。干されたままのタオル──
多くを望んだことなんてない。
豊かな生活も、うまい飯も、地位も名誉も、どうでもいい。
ただ生まれたからには、“自分”でいたかった。
生まれ持った見た目も、ウフ適性も、
歩いてきた道の選択も、その結果も。
“自分”だから、いまここにいて。
──“自分”だから生きてるって、それがわかってれば十分だった。
……生きてる。
その単語を呟いた瞬間、胸の奥で息が熱に変わった気がした。
だからジャックはポケットから両手を取り出し──静かに、胸の前で炎を抱いた。
ソル・ベリリウムと、誇りを意味するその手の動きを、ネクは静かに見つめる。
「……ソルは」
「……」
「ソルが残した言葉は?」
ぽつりと、自分の手のひらを見ながらジャックが問いかけた。
ほんの少しの間を開けて、ネクは応える。
「神獣ソル・ベリリウム。太陽と誇りと生命の象徴。その伝承には“誇りとは、ひどく燃えにくい炎のようなものである”という一文が刻まれています」
「……」
「また、その言い伝えによると、昼の神獣は、“全ての生き物に生命という形で誇りを宿す”とされます」
「──生命」
命って形で、“誇り”が宿るなら。
ジャックはもう一度、胸の前で炎を抱いた。
窓ガラスを突き抜ける朝の強い光に照らされて、両手が確かな熱を抱いていく。
まるで、本当の火を抱いているようだった。
誇りなんてもんは、もっと単純な──
強さとか、弱さとか、そんなもん関係なくて……
ただ、“生きる”ってこと。それだけなんじゃねえのか。
どんな生き物にも。
性別も、年齢も、言葉も、生き方も関係なく。
どんな小さな命にも、灯りはある。
ただ、生きるってこと。
──ただ、それだけ。
ネクのセンサーが、わずかに明滅する。
ネクは記録の言葉を探しながら、けれどしばらく、沈黙を選んだ。
それはまるで、機械でありながら“胸の奥に火を抱いた”かのように。
ジャックは腰から鍵束を外し、朝の光にかざした。
重さを確かめるように、掌の中で転がした。
つまみに刻まれる、数々の神獣の意匠をじっと見つめて。
やがて鍵束をテーブルへ投げるように置くと、飲みかけだった酒瓶を一気に煽った。
「……神獣ってのは勝手だな。だから言葉は面倒なんだよ」
「ジャック、その発言は多くの反発を生みます」
「は、今更だろ」
その目は、もう曇ってはいなかった。
まっすぐに、銀色の空の向こうを見据えていた。
ネクは何も言わず、鮮やかな陽の光に照らされる彼の傍にゆっくりと漂っていた。
それは、ネクのセンサーが、初めて“言葉にならない熱”を記録した瞬間だった。
そして同時に、ジャックが“言葉より先に伝わるもの”を確かに残した瞬間でもあった。




