百十三層:愛と誇りと、正義と命.05
「ジャック。──クリスが来ていました」
頭上を旋回するネクが、不意に呟いた。
闘技場の中は相変わらず、風の音しか聞こえない。
夜空の星を眺めながら、適当に返す。
「知ってる」
「接触はありませんでした」
「それが正解だろ」
短く、林檎の芯が投げ捨てられる。
いつもより、噛み痕がほんの少し深くなっていた。
今日は少しだけ風が強い。
そんなことを思いながら、ジャックは後ろへ体を倒し、両手剣へ寄りかかった。
ネクはジャックの傍らで静かに回転しながら、低く機械音声を響かせる。
「ジャック。……“正義”とは、なんですか?」
唐突な問いに、ジャックは眉をひそめた。
相変わらず目線は星空を捉えたままだったが、一瞬だけ、視界の端に崩れたエザンバウトの屑がちらつく。
しばらくの沈黙のあと、ジャックは吐き捨てるように笑った。
「今日はお前が聴く側かよ」
「……以前、ジャックは“戦士”の定義を教えてくれました。では、“正義”とは?」
「難しいもん選びやがって……そういうのはクリスが好きそうな話だろ」
肩をすくめると、ジャックは腰の鍵束を指先でいじった。
指先に触れる一本一本の鍵。その冷たさが、まるで“選ばされてきた数”を数えるようで──
無造作なその仕草の裏に、どれほどの重みが宿っているのか、彼自身さえも気づいていないかもしれない。
ネクは静かに高度を下げ、ジャックの目線へ滑り込んだ。
丸いフォルムが月明りの中でゆっくりと巡る。
「クリスは“正義”を語ることで、他者を導こうとしています。あなたは、正義を語らないまま他者を引き寄せる。…それが不思議です」
「……」
「この違いは、なんですか?」
「知らねえよ」
言った瞬間、胸の奥で何かがざらついた。
──本当に“知らない”わけじゃない。
間髪入れず返した声に、ネクのライトがわずかに揺れる。
「あなたの“知らねえよ”には、それなりの答えがすでに用意されていると記録されています」
「…厄介な球だな」
「……記録します。“厄介な球”」
「やめろ」
少しだけ、言葉の奥に笑みが混ざる。
夜の風が、草を靡かせて通り過ぎた。
静かすぎる闘技場の真ん中で、会話だけが柔らかく響いている。
「ですが、あなたがその“難しい話”を避け続けた結果、今──彼女はあなたの代わりに、社会へそれを語っています」
「……」
「あなたが戦士以外を傷つけないことは周知の事実です。──“弱者救済”。クリスの正義と表面は似ています。ですが、ジャックの口から“これが正義だ”と語られたことはありません」
ネクの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「だから多くの天使が、あなたの“正義”は、クリスの“正義”と同等だと紐づけている」
「……」
「改めて問います。あなたの正義とは、なんですか?」
一拍の間。
ジャックは自嘲するように、鼻で笑った。
「……それは、俺が話さないせいなのかよ」
夜空を見上げたまま、ぽつりと呟く。
「……まるで俺の代わりに“やってやってる”って言われてる気分だ」
その言葉は、風に溶けた。
だが胸の奥では──“奪われていく”感覚が確かに残っていた。
誰も頼んじゃいない。
そんな言葉が、奥歯の裏で燻った。
ネクは静かに、くるりと旋回する。
長年積んだデータから、彼が苛立ち傾向にあることは判断できる。
それでも、かすかに軌道を乱しながら、ネクは迷うように言葉を切りつつ続けた。
「──ジャック、あなたが意図していなくても、あなたの“行動”が、他者に火を灯してきたことは、事実です」
「……」
「ですが、灯った火は、自分がなぜその火種を受け取ったのか……言葉で確かめたくなるものです」
沈黙が流れる。
ほんの一瞬、ネクのライトが淡く揺れた。
「……それを怠れば、“誤解”が“真実”にすり替わっても、文句は言えません」
どこか諭すような言い草だった。
でもそれは説教地味たものではなく、コアの底から心配がにじむ響きをしているような気がした。
…そう聞こえた。
……機械に説教されてるはずなのに、胸倉を掴まれてるような気分になった。
だからジャックは一瞬だけ、ちゃんとネクを見返した。
──視線が交わった瞬間、星よりも強い火が、胸の奥で燻った。
赤く明滅する機械眼が、火の粉のように見えた。
「あなたの炎に惹かれ、火種を受け取った者たちが──迷いながらも、明確な言葉を求めています。“あなたは何を信じている、どんな天使なのか”と」
「……」
「クリスは明確に“正義”を“勝利”と定義しています。では──ジャック、あなたの“正義”は、何ですか?」
ジャックはしばらく口を開かなかった。
答えたくないわけじゃなく、答えをうまく言葉にできなかった。
それにずっと、言葉にしなくても困ることがなかった。
声にならない声を拾う影が、そばにいたせいで。
星が流れた。
ひとつ、ふたつ。
割れたエザンバウトの島影に途切れながらも、長く落ちていく光。
それをじっと見つめて──
やがて、ぽつりと呟いた。
「……知らねえよ」
言いながら、自分でも“完全に知らないわけじゃない“と分かっていた。
「ただ……正義も誇りも似たようなもんだろ。他人に押し付けるもんじゃねえし、声高に叫ぶもんでもねえ」
声はまっすぐだったが、どこか疲労が滲んでいた。
まるで何度も問いを重ねて、心が摩耗したかのように。
「逆に聞くけどよ──“誰かのために”って掲げなきゃ、“正しい”ことだって認められねえのか?」
「……」
「いったい誰に認められたら、満足するんだよ」
その声に、火の気配があった。
炭の奥に燻る、まだ消えていない熱。
「偉いやつが決めるのか?民衆、大勢じゃなきゃだめなのか。それとも…やっぱ神獣に認められなきゃ、正解にはなんねえのか?」
「……」
「どれもしっくりこねえよ。そいつらの尺度が、絶対とも限らねえのによ」
ネクは回転を止め、そっと言葉を落とす。
「……では、ジャック。あなたは誰のために、それを握り続けるのですか?」
──沈黙。
ジャックは、ゆっくりと体を起こした。
片膝を立てて、空を仰ぐ。
「…自分のために握ってる」
静かに、けれどはっきりと。
「自分で歩いた道を、振り返った時に後悔しねえように」
「……」
「剣を握らねえやつを殴らねえのも、土俵が違うからだ。喧嘩を売られたら、たぶん買う。剣は使わねえけど、きっと殴る。弱い奴だから手を出さねえんじゃねえ。強い奴だから殴ってるわけでもねえ」
黒手袋を空にかざす。
星の光が、焦げ跡をなぞるように反射した。
煤けて、焦げて、傷を重ねた掌──それでも、握る感覚だけはまだ残っていた。
「ただ、他人に泥塗って笑ってるような、そういうのが気に入らねえだけだ。──そういうやつに、ならねえようにしてるだけ」
そして、めんどくさそうに付け足した。
「他の奴のことは知らねえよ」
「……」
「でも──俺の生き方のせいで集まって騒いでんなら、それも、“俺が後悔しねえように”どうにかしなきゃなんねえんだろうな」
それはまるで、火の輪郭をなぞるような言葉だった。
ネクは長く旋回を止めて、静かに応える。
「あなたが語らずとも、他者が集まる理由が、今、少しだけ分かった気がします」
「は、自分のためにやってるって言ってんだろ」
相変わらずの機械音だったが、少しだけ、声が柔らかくなった気がした。
しばしの間があって、ネクはゆっくり高度を下げた。
「自分のために、自分の歩みを後悔しないように握ること。他人を踏みにじらず、背負うべきものは背負うこと──それが“あなたの正義”なら、私はそれを記録します」
「やめろ、そういうのを残すな」
「……ネク、学習完了。ジャックの“正義”、受理しました」
「チッ」
それは、静かな“誓い”のようだった。
気だるげにジャックは立ち上がる。
その手を伸ばしてネクを掴もうとしたが、ひらりと銀球は身を翻して宙へと逃げていった。
「では──あなたが“語らない”理由はなんですか?」
「おい、まだ続くのかよ」
うんざりとしたような。
それでいてほんのわずかに苦笑を浮かべながらも、ジャックは目を細める。
まばゆい星の数々を見上げながら、少しの間をとった。
まるで、そこに言葉のかわりが浮かんでいるように、ひとつひとつ、言葉を落とす。
「……言葉が、見つかんねえのは、あるかもな。そういうの覚えてこなかった」
ネクのライトがゆっくり瞬く。
ジャックは続ける。
「それに、万能な言葉なんてねえだろ。だったら、見せた方が断然確実だし、楽だ」
「それは、あなたが言葉を持たないからではなく──言葉より、重いものを背負っているから、では?」
「ちげえよ、面倒な話にすんな」
ネクは音も立てず、静かに寄る。
「私は“見せられたもの”を記録できます。ですが、“なぜそうしたか”を知るには、どうしても“言葉”が必要です」
ジャックはチラリと、その銀の球を見た。
「でもあなたは、語らずに──私の中に“痕跡”を残していく。それは記録ではなく、熱のようなものです」
──熱。
何が言いたいのか、珍しく要領を得ないネクを、ジャックは片眉をあげて見つめた。
「……あなたの軌道は、私の中に“火”を残す」
言葉の先に、ゆっくりと問う声が続いた。
「──私のようなものにも、“火”は、灯るのでしょうか?」
ぽつりと。
呟くようなその言葉に、ジャックはわずかに目を見開いた。
ネクが音もなく、ゆっくりと自転する。
速度を落としたことで、その中心に走る緑の淡い一本の線がかすかに光った。
それから、しばらく考えるように天を見上げた後、ジャックはかすかに笑う。
「……テメーが灯ったと思うなら、灯ったんだろ」
その一言に、ネクが回転するのをやめた。
短い言葉だった。
けれど、十分すぎるほどに、重く、確かで、暖かかった。
ジャックは満足そうに笑って、ネクを見る。
ポケットに両手を入れたまま、気だるげな雰囲気は変わらないのに、どこか──
何かを“見届けた”ような眼差しだった。
ネクの機械眼が、ほんの一瞬だけ、揺れたように見えた。
「……了解。私は“灯った”と、ここに記録します」
まるで、その光だけが、確かに存在を証明するように。
「……お前、面倒な球だけど、悪くねえな」
ジャックは笑いながら、軽くネクの機体を小突いた。
揺るがぬ軌道のまま、ネクはただ回り続ける。
ジャックの死角へ滑り込む銀の機影だけが、返事のように見えた。
「……あなたと出会えて、本当によかったです。ジャック」
「やめろ気持ち悪い」
「感動するポイントです」
「押し付けんな」
問答は終わりだと言わんばかりに、ジャックは闘技場の管理室へと足を向ける。
さきほどの笑みは消え、むしろ怠そうなまなざしで。
その周りを当然のように浮きながら、ネクがわずかばかり声のトーンを落として言った。
「……私に火を灯せるのなら、クリスとの“齟齬“も、少しは減るはずです」
「へえ、じゃあまた次あいつが来たら話聞いてやるよ」
「……彼女はあなたを待っています」
「なんでだよ。話があるならテメーでこいよ」
「……」
ネクのライトが、まるで、星の涙のように一瞬だけ強く瞬いた。
けれど、結局何も言わなかった。
空の奥で、星がひとつ瞬いた。
まるで、“神獣の目”が笑ったように。




