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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第二幕】愛と誇りと、正義と命

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百十二層:愛と誇りと、正義と命.04


──パン、パン。



乾いた手の音が、妙に空間へ広がった。

冷ややかで、でもどこか余裕のある表情のまま、フジはすべての視線を集める。


白い軍衣の裾が風に鳴り、列が静まる。

幼子の鳴き声だけが響く中、フジは降り立った静寂を明け渡すように、クリスへ振り返った。

わざとらしいほどの恭しさで腰を折って、「さァどうぞ」と言わんばかりに銀の瞳を向けてくる。


──まるで私の苦悩をわかったうえで、「うまく隠せよ」と言われているようで。


逃げられない。

逃げたいとさえ、思わせてもらえない。


一瞬そんな考えが浮かんで、すぐにかき消すように、目を閉じた。



「──皆の痛みは、私も知っているわ。……失われた日常は、何をどうしても戻らない」



声を張った瞬間、火鉢の炎が一斉に揺れ、彼女の言葉に呼応するようだった。

まるで言葉の重さを確かめるように。


けれど耳を澄ませば、かすかな掠れが混じっていることに、誰もが気づいた。

ゆっくりと目を開く。

その金の瞳が、島民と使者の双方を等しく射抜く。


「けれど同時に、ジャック・J・ジッパーという男が、今の“蒼殻(そうかく)”にとって無視できぬ存在であることも、また事実なのよ」


ざわめきが再び広がろうとした瞬間、彼女はほんのわずかに息を呑み、声を強めた。


「感情も、理も。どちらも欠けてはならないわ。けれど今日この場では……これからの未来を思い描いてほしい」


声はまだ凛としている。

だが、その芯に積み重なった疲労が滲んでいることは、誰の耳にも届いていた。

彼女自身が、この“英雄”を生み出すために犠牲を選んだ張本人だからこそ──その痛みは、誰よりも深く胸に沈んでいる。


クリスは声を張った直後、ふと胸の奥が重くなり、無意識に吐いた溜息を自分で聞いた。

視界の端がわずかに揺れる。

ほんの一瞬のめまい。


気づかれまいと背筋を正した。だが最前列の島民が、心配そうに見上げていた。

その視線は痛い。

“強くあるべき”と纏った外殻を、たやすく貫いてくる。


「……さあ」


クリスは目を閉じ、声を整える。


「炎を絶やさないで。私たちは今、進むためにいるのよ」


島民たちはやるせない顔のまま、炎へと花を投げ入れる。

数名がそれでも抗議しようとして、クリスの私兵によって広場の外へと連れ出される。


使者たちは互いに視線を交わし合ったが、それ以上の言葉は出なかった。

この場を覆う沈黙と炎の匂いが、彼らを黙らせていた。


──わかっている。

このままではいけない。


胸の奥で、クリスは独白した。


エザンバウトの民にとって、ジャックは“英雄”ではなく、あの日島を割った元凶。

その憎しみも、不安も、すべて正しい。


けれど、彼を象徴にするには──ここでも、少しずつでも理解を広げていかなくてはならない。

彼の無害性を、彼の持つ引力を、時間をかけてでも伝えていくしかない。


ヴェルトルクのように一瞬で受け入れられることはないだろう。

だが、ジャックをこの島に連れてこられれば。

彼と関わり、触れることで。



──あの崩壊は、彼が望んで始めたものじゃない。


そう確信できる日が、きっと来るはずよ。


事実、一部の島民たちは彼が全てを浮かせた理由を前向きに捉えているわ。

彼の純粋さを目の前にすれば、それは確信に変わるはず。


クリスは炎を見つめながら、胸の奥に重さを抱えたまま、静かにそう願った。


なのに──


ジャックは、相変わらず闘技場から出ようとしない。

戦士や島民たちは、前と同じように接するようになっていると聞く。

でも、彼だけは、まるで殻に閉じこもるように、まだあの遺跡に居座っている。


どうして……どうして、あれほどの力を持ちながら。

こんなに、“望む声”が大きくなっているのに。


苛立ちと焦燥が入り混じる。

自分は胃が裏返る思いをしながらも、こうして天使たちの前に立ち続けているのに。

噂ではなくて、本人と関わらないといつまでも虚像でしかないのに……彼はただ沈黙を貫くだけ。


それでもなお、誰よりも多くの心を惹きつける。

想われて、配慮されて、生かされている。

それが羨ましくて、恐ろしくて、そして──悔しかった。


会いに行って、ちゃんと確認しなくちゃ。

けれど前のように正面から立てば、きっとまた反発されるだけ。

正義を説いても、彼は耳を貸さない。



じゃあ……どうすればいいのよ…



クリスはひとつ深く息を吸う。

公的な顔が剥がれそうになるのを必死に抑え込む。

背後で、フジがただ静かに彼女を見つめていた。



──決めるのは、いつだって自分だ。



*



夜のヴェルトルクは、ひたすらに冷たかった。

昼の喧噪は、ここには一行も残っていない。


まるで地図上に存在を忘れられたように、ただ自然の塊に戻ったように。

ひとりの天使もいない、深い深い夜。

風は強くて、葉擦れの音だけが耳に届く。


ソルが沈めば熱源はなく、ここには天蓋(てんがい)の恩恵もない。

ランタンは必要最低限しか灯らず、あちこちには闇が存在している。

その暗闇が、無意識のうちにクリスの背筋を凍らせた。


けれど、空は綺麗だった。

ハーウェンの青白いまなざしが、すべての輪郭をはっきりと映している。

透ける宇宙のような夜空を、白い火線がたえず横切る。


その光る尾を、こんなにはっきり見たのは初めてだった。



「…星って、こんなに明るいのね」



政務服に外套を羽織っただけのクリスは、闘技場の外周に立っていた。

島民も戦士も寝静まるこの時間。

フジとふたりだけ、目立たぬように、湊ではなく廃闘技場に近い島の外縁に小舟をつけた。

普通なら船着場のない所での乗り降りは危険だからしない。

でも、誰の目もない所で、ジャックに会うためだった。


建材の崩れた石段、風に擦れる蔦の音。

遺跡を侵食する草花は、六律動前に初めて訪れた時よりも生い茂って見えた。



……彼と最初に会ってから、もう六十年。



淡い色の風花(かざはな)が、夜風にも飛ばされずに揺れている。

彼女の短く整えられた銀髪が微かに風に揺れ、その背後には、無表情なフジがついていた。


闘技場のランタンは数あっても、灯りはひとつもない。

初めて、ここに来た時のことを彼女は思い出した。

あの時は昼間だった。

そのせいか、印象は、目の前の闘技場とはまるで違って見えた。


突然現れたふたりの天使。

その姿を初めて瞳に写した瞬間の衝撃を、今でも思い出せる。



──美しかったわ。…まるで、一本の研ぎ澄まされた刀剣のように。



なんびとにも折れない、確かな芯と、全てを巻き込む大きな引力。

銀の長い髪。生命の色の瞳。まるで御伽噺から出てきたかのような、整った姿。

ジャックに会った時、物語で読むヴァルカンは、かく在ったのではないかと思わせた。


けれどその光景を前にしても、クリスの胸は冷えたままだった。



──どうして、私はまだここで立ち止まっているのかしら。



星に照らされる石段の闇を前に、外套を握る手に、力がこもった。


天使社会の報道の多くは、すでにジャックを“英雄”と断定して終わっている。

エザンバウトの崩壊も久しく、紙面に載ることも減り。

“新ジャック派”を本人が潰すことで、他島での目撃が増え、噂が噂を呼び、都合よく解釈され──

今では、彼の“強さ”が悪魔たちへの牽制になっていると解釈された。

噂が秩序に採用されるとき、事実はしばしば遅れて到着する。


事実、ガットが異例の判決を受け、第六裁判官の席に落ち着いたのは……

クリスの書状の裏側に、ジャックの存在を垣間見たのもあったはずだ。



たったひとりで空を昇り、島を割る。

退化の著しい多くの種において、その“力”はあまりに異常だった。


クリスの耳には届いていた。

ジャックの存在はいまや“蒼殻(そうかく)”だけにとどまらず、

同じウルネス(そう)の悪魔領、一部ゼノラ(そう)にまで及んでいる。

そしてアントラによる通信機…あれが発展を遂げる今、より速度をもって、これからも広がっていく。



……もうすぐなのよ。

社会は、あなたを受け入れる体制を整えつつある。


あとは、あなたが立って、皆の前に出て、

その力を皆のために使ってくれさえすれば、それでいいのに。



クリスは崩れかけた闘技場の入口から、中をそっと覗いた。

石畳の中央に突き立てられた、重力の剣。

あの時見た澄んだ光は、もう見えない。


地面の境界線を隠すように生い茂る、短く尖った空草(そらぐさ)

その足元には食べかけの林檎、少しだけ減った水の瓶。

カサリと音を立てるパンの袋。


柔らかく落ちる影のなかで、銀の球体──ネクが軌道を描いていた。


とても、静かな空間だった。

けれど彼女の目は、中央の大剣に背を預けて座る、ひとつの影を捉えた。

星灯りが、その輪郭だけを、やけに鮮やかに浮かび上がらせていた。

まるで、まだ彼だけが、夜に争っているようにさえ見えた。


ジャックだった。

身じろぎもせずに、ただ、そこにいる。


「……」


呼べばきっと、また反発される。

黙っていれば、この距離は永遠に埋まらない。

その狭間で、喉はただ凍りついた。


背中をこちらに向ける彼は、きっと気がついていないだろう。

すり鉢の底から、瞬く星々を見上げる姿があまりに儚く映って、クリスは拳を握った。



もう、十分に待ったはずよ。

あなたの大切にしている自由も、ある程度残している。

ずっと政務につかなくてもいい。

ただ象徴として、白燈(アルシェ)に座ってくれさえすれば。

それだけで、もう十分なのに。


なのに──どうしてずっと、そこにいるのよ。



あれほどの引力をもって“英雄”と呼ばれる男が──

目の前では、ただ夜に沈み、黙して影に座っているだけ。



──まるで、“ただのひとりの男”みたいに。



言葉にならない想いが、胸の奥でぐるぐると渦を巻いた。


確かな苛立ちと、失望。

誰よりも強い男が、武器を捨てて座り込んでいる様が、どうしても許せない。

許せない…?それとも、つらい…?


“英雄”なら安心して任せられるのに。

今目の前にいるのは、“ただの男”で、

その背に、私はあまりにも大きな荷を載せようとしている。

もうわからない。心がぐちゃぐちゃだ。


でも。


……あなたが座ることを許されて、なぜ私はこんなに、心をすり減らしているのかしら。



一発殴ってやりたかった。

胸倉をつかんで、無理やり起こして。

いつまでもそうやってて、何が変わるのよって。



いっそ、立場なんて脱ぎ捨てて、本当の声でぶつかってしまおうか──



名前を呼べば、この距離はすぐに埋まる。

けれど、それで何が変わる?また拒絶されるだけかもしれない。

それでも──足が動いた。


そう、足を踏み出しかけたその時だった。



「──〝やめときな〟」



後ろから、くぐもった低い声。

振り返れば、無表情なフジが闘技場の石壁にもたれるように立っていた。

その言葉に、踏み出しかけた足が固まった。

まるで足首を、冷たい手で掴まれたように。


「やめろ」というフジの声が、妙に耳の奥に残っている。



「言葉で殴ろうとしても、あいつは答えねェよ。…見てるもんが違ェからなァ」



視線を逸らすことなくフジはぼそりと続ける。


ジャックへ仕事を渡すのも、島へ渡すのも、ずっと全てフジが担ってきていた。

私よりも、よっぽどジャックを見てきたはず。

この男は誰より私を理解して、私がジャックをどうしたいかも知っている。


その彼がいうのなら……そうなのかもしれない。



「向き合わせてェなら、仕掛けがいる。──“引き金”ってやつだ」

「……」

「グリヴェスの坊ちゃんも言ってたんだろ?あいつは火を見なきゃ動かねェ。クリス、あんたの火がちゃんと灯ってるのに気づけば、勝手に向こうから顔を見せるさ」



しばしの沈黙が降りる。


クリスはふっと目を伏せ、目元を片手で押さえる。


ため息をひとつ。

けれど、その背筋は崩れない。


確かに、以前グリプは言っていた。

あれだけジャック派が熱狂的に立ち上がり、“蒼殻(そうかく)”を二分したとき。

本人は一切そのことに言及しなかった。

火消しはグリプの仕事。自分ではなく、お前が動いて()()()()()()と言うように、沈黙していたと。



……じゃあ今この“英雄”の火が灯り始めた社会に、()()()()()()というのね。



昼間の復活祭を思い出す。

どっちつかずの、その場を収める言葉ではなく──

明確に、彼を白燈(アルシェ)へ座らせると、宣言する。

ずっと、誰を座らせるべきか、囲い続けてきたあの椅子に。


……彼に自ら選んでほしかったけれど……


私の炎が彼に届けば、彼の方から来てくれる。

それほど、私も社会も、あなたに“英雄”になってほしいと思っていると伝われば。

私の中の──“覚悟”を示せれば。


……その炎は、自分ごと焼き尽くすかもしれないけれど。



「…そうね。なら、引き金を──用意するしかないわね」



それっきり、彼女は何も言わず、踵を返す。


──白燈(アルシェ)の椅子を、もう空席にはしない。


外套が静かに翻し、夜の闇に消えていく。

そのすぐ後ろをついていくフジの耳に、彼女の小さな呟きが届いた。



「……ヴァルカンなら、こんなに遠回りしなくても……私の手を取ってくれたかしら」



……その言葉を口にした途端、胸の奥がわずかに痛んだ。

もういない存在に答えを求めても仕方ないのに──


ふと、独り言のように聞こえたそれに、フジは答えなかった。


代わりに足を止めて、いつもより小さく見える背中を見下ろす。

フジは片眉をゆるくあげ、彼女に聞こえない大きさで、小さく笑った。


「…捨てきれねェなァ、理想ってやつをよ」


空に浮かぶハーウェンの目だけが、静かにふたりを見下ろしていた。



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