百十層:愛と誇りと、正義と命.02
また年月を重ねた、別のある日。
風の音さえまだ眠っている、夜明け前。
高度の高い空が、遠くにうっすらと金のグラデーションを、静かに溶かし始めていた。
けれどそれは、光というよりも、影の中に滲んだ波のような“兆し”に近かった。
世間ではすでにジャックは“蒼殻”の守護者に近い存在として認識されていた。
クリスの無駄のない治世を支える、無言の剣。
ふたつの柱として並び立つ今、白燈にはどちらが座るのか──そんな噂が静かに波紋を立てはじめていた。
だが。
ヴェルトルクの空は今日も静かで、無数の星々がその死骸のように、夜を泳いでいる。
音もなく、空気の層を割って戻ってきたのは、一つの銀の球体。
ネクが、帰ってきた。
ジャックは、石段の上で足を投げ出すように腰を下ろしていた。
濡れたように光を吸った髪が風に遊ばれ、ゆるく揺れる。
手には、火のついていないランタンをぶら下げていた。
ネクが旋回を止めた。
その時、ジャックは視線を空に向けたまま、ぽつりと呟いた。
「今朝は遅かったな」
ただそれだけ。
けれど、ほんの一拍、ネクのライトがわずかに瞬いた。
ジャックはその反応に触れることもなく、首を軽く傾けた。
さらりと落ちた銀髪の隙間から、片耳のアメジストが煌めく。
その顔はまだ夜を引きずっていて、朝の気配を受け入れるにはいささか早すぎるようだった。
「なあ、ネク。……“戦士”って、なんだ?」
その問いに、ネクの稼働音が静かに回転を始めた。
だが、即答はなかった。
音だけがゆっくりと、空気の隙間を撫でる。
ネクは応える前に、ジャックの背中を見た。
そこにある重力を、無言の問いを、記録としてではなく、少しだけ“受け取るように”。
そして、言葉が落ちた。
「……戦士とは、“敵”と定義された存在と戦い、勝利を目的とする者の総称です」
「……」
「命令を遂行し、戦果を挙げ、秩序を保つ存在。天使社会における戦士とは、“矛”であり“盾”であり、“火”です」
ジャックは返事をしない。
ただ、靴先で石をひとつ、転がした。
小さな音が、遠く響く。
「……敵ってのは、誰が決めんだよ?」
「基本的には、所属する組織、または社会の上位機構です。個人の感情ではなく、“共通認識”が優先されます」
「それが“戦士の誇り”か?」
ネクの駆動が、わずかに沈む。
「……社会定義上は、はい」
「ふーん…」
沈黙。
朝が、ほんのわずかに滲み始める。
空の上部だけが、色を持ち始めていた。
それでもジャックは動かない。
瞳だけが、じっと空の端に刺さっていた。
「昔、バンズが言ってた。『自分の誇りは、花束みてえなもん』だってよ。神獣アネモラとかいうやつの花」
「──神獣アネモラ。象徴は愛や風。見えないけれど確かにあるということから、風に揺れる花は愛の視認としてよく用いられます」
「じゃあ…花束抱えて生きるってのは、愛抱えて生きるってことかよ」
「そういう意味合いで間違いない…と思います」
一瞬、ネクの言葉がブレた。
憶測による発言は何度もあっても、主観が声に乗るような言葉の使い方は、初めてだった。
ジャックはわずかに片眉を上げる。
でもあえて、その“生の声”に対しては、何も言わなかった。
「戦士は剣の向ける先を選ぶって、ヴォルドは言ってたな」
「……」
「金槌で殺しにくる鍛冶屋はいねえって」
ジャックはその時を思い出すように目をつぶる。
指先で火の点っていないランタンを転がしながら。
「槌で打つのは鉄だ。だったら、戦士が剣を向けるのも、敵になるわけだろ。でも、その敵って、誰が決めんだ?」
鉄でできた何の変哲もないランタン。
闘技場のあちこちに引っ掛けられているものの、ジャックがここに住み着いてから、一度だって灯った試しがないそれ。
「戦士と愛は切っても切れねえ。死ななければ愛の損失にはならねえ。バンズかゾムリスか、どっちかがそう言ってた」
「……」
「ひとりで生きてるやつなんかいねえから、誰かが死ねば、誰かの愛も死ぬ」
ゆっくりまぶたを開いて、彼は自分の手を見た。
黒い手袋。沈黙、追悼の色。
「でもその“愛”ってやつも、誰が、どれだけ抱えてたかなんて──知りようがねえ」
この手で、誰かの命を奪ったことは、まだ、ない。
エザンバウトを割ったあの日でさえ、死者数はゼロだったって戦士か島民たちから聞いた。
でも、“死“って、多分物理的なもんだけじゃねえんだよな。
フジにいろんな島へ連れまわされて。
いく先々で、俺に鍵を奪われたせいで、社会ってやつで生きにくくなったって、ゴロツキどもが喚いてた。
“社会的な死“ってやつだとか、なんとか。
それがどんな“死“の形なのか、まだよくわかんねえけど。
あいつら全員、名前もわかんねえのに、その手に何を抱えてたかなんて……
「斬った相手が、花束抱えてねえって誰もわかんねえのに、社会の基準で、敵ってやつは決まるのか?」
「……」
「それとも、花をいくら抱えてようが、“正義”の前じゃ関係ねえのか」
ジャックは息を吐いた。
それは、ため息ではなかった。
少しだけ、胸の奥でほどけるような、熱の残った吐息だった。
「……やっぱ、わかんねえよな」
同意を求めるようでいて──問いは、そのまま余白に置かれた。
「“戦士”ってのが、“命令のために戦う存在”とか“誰かが決めた敵と戦う奴”なら──俺は、たぶん、戦士じゃねえな」
それは独白だった。
ネクは何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ光の濃度を変えて、傍にいた。
「でも……」
ジャックの手が、ランタンの取っ手を握り直す。
「たとえば、“俺が納得する俺であるために”誰かに刃を向けるのは?その花束ってやつを、守るために戦場に立つのは──」
「……」
「……それは、戦士じゃねえのか?」
それは問いではなかった。
自問とも違う。
ただ、火の残る炭を指先で探るように、確かめるように。
そしてネクが、ゆっくりと低い音を鳴らした。
「……定義更新。“戦士”とは“命令”ではなく“選択”で他者に対峙する者──それが、あなたの“戦士”ですか?」
「知らねえよ。……だから、もう少し噛み砕いて減らせよな、言葉」
ジャックは、雑な動きでランタンを石畳へ置いた。
カラン、と軽くも重くもない音が響く。
風がまだ眠そうに吹いていた。
背後に迫る光と、前に残る闇。
その狭間で、まだ彼の答えは灯っていなかった。
ジャックは、自分のすぐ横に置かれた紙袋に目を留めた。
中には、焼きたてのパンがいくつか詰められていた。
ほんの少し前、いつものようにノイマンが届けにきたそれ。
薄茶色の表面に、まだ熱がじんわりと残っている。
ジャックは黙って、それを片手に持ち上げる。
パン屋だって、毎日同じパンを焼く。
同じ時間に火を入れ、同じ材料で、同じ形に。
何度か手伝わされたことがある。
窯の火を安定させるだけでも、ひどく面倒だった。
形を同じにすることも、パイの焼き目を揃えることも、口で言うほど簡単じゃない。
それでも、あの一枚を焼くために、必ず何かと正面から向き合ってる。
毎朝の眠気とか、釜の熱の火傷とかだけじゃない。
小麦の価格が上がったとか、隣の島のシュクトパイの方が美味いって言われたとか。
ぼやきながらもパンを捏ねてたあの手が、脳裏に浮かぶ。
ふと、クリスの経済制裁を受けていた頃を思い出す。
あの頃はパン屋だけじゃなく、島民全員が、食うに困る状態が続いてた。
でも、あいつらは、戦ってた。
武器も持ってねえけど。
それでも翌朝には、窯の煙がまた上がってた。
畑を耕して、魚をとって、切り詰められるものを切り詰めて。
キツかったはずなのに。
面倒も多かったはずなのに。
思い出すのは、苦しい顔より、“それでも生きる”という意思の強い瞳ばかりだ。
あれはたしかに、──戦いだった。
ただ剣も槍もないだけで──
目の奥に燃えてたものは、俺が知るどんな戦士とも変わらなかった。
「……戦士じゃねえ、って思うか?」
あの時の島民たちの目を思い出す。
その奥に見えてた“火”。
それが嫌いじゃなかったから、俺はずっと、この島にいたはずだ。
ジャックはパンの袋を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。
その背後で、ネクがゆるやかに降下する。
「観測結果としては“日常”ですが、あなたはそれを戦いと定義しますか?」
「いや、逆だ」
ジャックは袋を肩に引っかけながら、闘技場の階段に腰を下ろす。
「戦わないことを選んで、毎日ただ続ける。──それ、全員にはできねえよな」
「……」
「少なくとも俺にはできねえ。同じ時間に寝て、同じ時間に起きて働くなんて想像付かねえ」
袋の中から、まだ暖かいそれを取り出す。
最近見慣れたパンではなかった。
でも、この島に来てからずっと見続けた、星柄の焼き目の入ったシュクトパイ。
見た目は何も変わらない。甘い匂いが鼻をくすぐる。
そして明日からも、こいつはきっと、同じ形に焼かれる。
……味は、俺が文句言ったから同じじゃねえんだろうけど。
「でも“自分の決めたこと”を、当然にやり続ける奴らが集まって、世界は回ってんだろ」
「……」
「それって十分、誇っていいことだと思うんだよな」
ネクは反応音をひとつ鳴らす。
くるりと回転しながら、ジャックの目線に滑り込んだ。
「記録にない概念です。“勝利”や“競争”が伴わないものは、誇りとして定義されていません」
「だろうな」
ジャックは、鼻で笑う。
誇りだの、戦士だの、正義だの。
散々問い続けて、ネクに定義を言われて、今語られてるそいつらには、もううんざりしてる。
けど、それが絶対に正しいって決めるやつも、いねえはずだ。
「でもよ、花持って生きてんのは戦士に限らねえだろ」
「……」
「その花守るために戦うなら、職業とか、立ち位置とか、年齢とか、関係ねえはずだ。戦い方だって、武器に種類があんのと一緒で、どんな方法でも“戦意”だろ」
ネクは言葉を飲んだ。
朝が、少しずつ、島の外縁に触れていた。
ヴェルトルクの石段に、わずかに色が差す。
やがてネクは、ゆっくりと彼の周りを回りながら、ひとつひとつの単語を丁寧に紡いでいく。
「戦士とは──“戦う意思のある者、すべてである”」
「……」
「戦士であることは、強さではなく──その“姿勢”にある」
ジャックは少しの間、空を見つめた。
昇ってくるソルの眼差しと、彼のエメラルドグリーンが交差する。
一瞬だけ、その瞳が、ほんのわずかに笑った気がした。
ジャックの背中がその光を受け止める頃、ネクがそっと一言、記録のように囁いた。
「……ジャックの“戦士”、定義に登録しました」
「……ま、悪くねえな」
朝が、静かに、始まりかけていた。
ジャックがまだ熱を抱えているパイを一口齧った。
そしてふいに、型の良い眉を寄せた。
「おい、それでいくと、剣を置いてる俺は今、パン屋にすら負けてんのか?」
「……勝ち負けの問題ではないと、ジャック自身が定義していたはずです」
「……そうだけど癪に障る。あのパン屋の親父、すぐ鼻で笑うんだよな」
「……」
袋の端に、小さな花の焼き印が押されていた。
何気なくつけられたようで、どこか、灯火のようにあたたかい印だった。
ジャックは無言で、指先でその焼き印をなぞった。
それはまるで、今にも崩れそうな光を、そっと留めようとするような動きだった。
“生き残る”には勝つしかねえって思ってたはずなのに。
負けてたって、構わねえ。
そう思えたのは、はじめてだ。
ネクのセンサーが、指先の微細な動きと鼓動を記録していた。
──“戦わない火”の定義を、確かにそこに刻みながら。
星樹の白い蕾が、春の風に静かに揺れていた。




