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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第二幕】愛と誇りと、正義と命

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232/357

百九層:愛と誇りと、正義と命.01


ジャックは、曇天の下に立っていた。

まだソルの光が昇りきらず、空は薄く、宇宙の濃紺を透かす灰色。

闘技場の石壁には、朝霧のような雲の湿気が貼りついている。


肩の高さで、ネクが静かに旋回していた。

その動きは初期の頃より遥かに滑らかだった。

微細な補助振動音が、アメジストの一粒が輝くジャックの耳にかすかに届く。


この闘技場に“ひとり”になってから、一律動と二年。

ジャックを取り巻く環境は、以前と少し形を変えながらも、“あの頃”に近しい空気に戻っていた。


ジャックは闘技場から出ていかない。

だが、ソルの目がある昼間は、闘技場へ子供らが遊びにやってくる。

島民も、ノイマンも、アウディらヴェルトルクに残ったわずかな戦士も。

最近はそれだけじゃない。

一時期他の島々に散った戦士たちも、時折顔を出すようになった。


そんな戦士らは、たまに“外”の話を持ち帰る。

ゾムリスやラスターは、相変わらずグリヴェスを拠点に、グリプの護衛を担いながら“新ジャック派”の対応に奔走しているとか。

ちゃんとした近況報告もあれば、中には「お前が好きそうだと思った」とシュクトパイを持ってくる者もいた。


でも、誰も世間に流れるジャックの「評価」のことは、口にしなかった。

──“弱きを守る英雄”

──“クリスの正義と、ジャックの正義は似ている”

本人に告げても、どうしようもないことだと割り切っていたのか。

あるいは、知らせないことが最善と考えたのか。


全員が同じ理由じゃなくても、暗黙の了解のように、それらは音にならないまま戦士たちの胸にしまわれていた。

その沈黙はかつて隣にいた、彼の“右腕”に近い気配を纏っていた。

そして確かに、彼の居場所を守っていた。


フジによる“授業"と称した呼び出しは、ゾムリスたち外の戦士の働きによってずいぶんと減っていた。

連れ出されても、これと言って教鞭を取られたことはなく、ただ静かに戦場を畳むだけだったが。

そもそも、天使社会全体が、ジャックを“英雄視”する方向へ傾いていたことも理由の一つだった。


新たな派閥は立ち上がらない。

今ある旗は、クリスとジャック、そのふたつだけ。

そのふたつの色が、ほとんど同じ色をしていると思い始めていた。


そして多くの天使たちが、このふたつの旗は役割が違うことを明確に理解していた。


クリスは内政や秩序の仕組みを。ジャックは武力による安心と庇護を。

クリスが築く現実的な正義は、ジャックの強固で堅牢な殻によって守られる。

これは、ふたつあってこそ成り立っている。

そんな空気が社会全体に薄く広がりつつあった。


今までクリスの精鋭隊ですら屈服させられなかった“厄介な戦士”たち。

その多くに膝をつかせたジャックは、戦わない天使たちにとっては特に英雄でもあり──

そして同時に、()()()()()でもあった。


このふたりなら、天使社会を統一できる。

悪魔たちを統べる死神にでさえ、対抗できるのでは。

そうとまで噂される今。



だが、その均衡がどれほど脆いものか──まだ誰も知らなかった。



ジャックは相変わらず、世の中の動きなど気にも留めない。

彼の火を“正しく”燃やすことに躍起になるクリスの思惑など露とも知らないまま──

世間が“沈黙”と呼ぶ静寂の中で、彼は彼なりに、自分の中の火種に息を送ろうとしていた。


ジャックはひとり、闘技場の石段の上に立つ。

明るさだけが、雲の奥からわずかににじむ空の下。

その静けさの中で、ふと、彼は口を開いた。



「なあ、ネク。……誇りって、なんだ」



問いは、ごく淡々としていた。

でもその裏には、何千という問いの沈殿が滲んでいた。

一度落ち着いたはずの熱が、またじりじりと腹の底で灯り始めている。

まるでしばらくの間、自分にだけ問い続けていたものを、ようやく他人に向けたような声だった。


ネクは即座に応答する。

だがその語りは、まだ感情という熱を宿さない、“定義”の音だった。


「誇りとは、天使社会において、強さと勝利を通して証明されるものです」

「……」

「戦いに勝つこと。命令を遂行すること。他者より優れていること──それらを通じて、自分の価値を示す。これが、天使社会で流通する誇りある生き方の“主流の形“です」

「……へえ。じゃあ、負けたらどうなんだよ」


ジャックはつまらなそうに問いを重ねる。

ネクは当然の論文を読み上げるように、淡々と応じる。


「敗北は誇りの損失と見なされます。命が残っても、その価値は下がります」


分析。記録。判定。

それは“誇り”を、まるでデータのように冷たく定義する言葉だった。


ジャックは、肩で息を吐いたあと、喉で小さく笑った。


「……ほんとにそれだけなのか?」

「はい。現在の天使社会の主流派閥──“クリス派”の定義に基づいた認識です」

「……」

「補足します。これはクリス派に限った話ではなく、それ以前より多くの天使の統率者たちが口にしてきたものでもあります」


ネクは間を置かず続ける。


「ソル・ベリリウムの古い言葉には“誇りとは、ひどく燃えにくい炎のようなものである”とありますが──」

「……」

「これは“勝ち続けることの難しさ”を説いていると解釈されています」


一度音もなく旋回しながら。

けれど、ジャックの目線はネクに降りてこなかった。


「現在主流の解釈では、()()()()()()()()()()()とされ、戦士同士の死合い前に行われる“ランタン点火儀式”は、“英雄ヴァルカン”が灯した“ソル・ベリリウムのランタン”を模しており、そして同時に“ソルの燃えにくい炎”を象徴し、勝利祈願の意味を持つと定義されています」


まるで、冷たい鉄板を何枚も積み重ねていくような言葉だった。

──ヴァルカン。

その名がまた記録に紛れ込むたび、胸の奥で何かが小さく軋む。


「……燈守(とうしゅ)ってやつらが観測してるのは?」

燈守(とうしゅ)。“ソル・ベリリウムのランタン”を灯すに値する炎を宿すかどうか、それを観測するための機構。彼らによる誇りの炎の観測は、その記録が公にされていません」

「……何のための記録なんだよ」

燈守(とうしゅ)の観測は、研究の対象として扱われるため、一般にそれらが共有されることはまずありません」

「意味わかんねえ」


溜息にも似た声色で、ジャックはめんどくさそうに呟いた。

顔をしかめるジャックへ、ネクがほんの少し高度を下げた。


「つまり、燈守(とうしゅ)の観測は、星と同じです」

「……は?」

「燃える理由を問うのではなく、ただ“灯っていた”という事実だけを記録する存在です」

「……」

「どの空に、どの高さで、どのくらいの時間燃えていたか。その星々の中に、赤く燃える“太陽”を探すために」


……ノイマンはどうだった?


ヴェルトルクに突然やってきて、名乗らず干渉せずなんて掟を無視して話しかけてきたやつ。

手話しか使えねえくせに、何を言いたいのか、分かる時は分かっちまう。

不思議なやつだ。でもその目線はそこまで嫌じゃなかった。


見られることに慣れてたとはいえ……そんな、ただの数値で測るみてえなもんじゃ、なかったと思う。


それに、一度ラファナへ帰ったはずのノイマンは、またこの島に戻ってきている。

毎日巡礼のように食べ物を運んでくる。

文句も言わず、無言のまま。

凝ったものなんかじゃなく、いつものパン。果物。ただの水。

その“押しつけがましくなさ”が、あの金髪を思い出させて、妙に受け取る抵抗感をなくしている。


……ただの観測者じゃねえ。

ちゃんとあいつにも、火が灯ってる。

たぶん、それもあったけえ灯り方、してるはずだ。



不意に、ジャックは胸の前で手を動かした。

うろ覚えながらも、彼の黒手袋が、誇りの手話を刻む。


胸の真ん中。

火を抱くような動き。

教わったその時を思い出すように。



……誇りが炎だって言うなら、俺が思うこの“火”ってのは…?

いろんな奴らの中に燃えてる“それ”は、みんな熱も、色も、大きさも違う。

でも、たしかに燃えてるように見えるし、“そこに、在る”ってちゃんと感じる。


だけど。


「……勝たなきゃ意味がねえ。負けたら、誇りごと捨てられる」


ネクは静かに応じた。


「そのように、定義されています」


風の音だけが、間を埋める。


戦わねえ奴らにも見えてるものなのに──

勝たなきゃいけないのが誇りなら、あいつらの“熱”はいったいなんなんだ。


慈悲か?愛か?

それとも正義か?

自分がやりたいって思う、意志の熱なのか?


ジャックは空を見上げた。

けれど、どこにも答えなんてなかった。

ソルはまだ、昇らない。


ジャックはふと、胸の前で手を開いた。

何も握られていない手のひら──けれど、不思議とあたたかい気がした。


思いついたように、手袋を外す。

風が、裸の両手を撫でた。


そこにあったのは、火傷の痕、裂けた皮膚、斬りつけた痕跡。

戦ってきた証、勝ち抜いてきた証。



──勝利の数だけ刻まれた痕だ。



……なのに。

どうしてだろうな。

()()()()()()()()()気がした。



これが誇りの形なのか?

形に残ったこれが、誇りそのものなのか?

古傷を見せびらかす戦士は、今までも一定数いた。

大きく、深いもんほど、それこそ誇らしげに。


でも。

違う気がする。

けど、何が違うのか、うまく言葉にできない。


でも、わかる。

どんなに従ってても、どんなに縛られてても、

それでもまだ「譲りたくない何か」は残ってる。


全部捨てたつもりで、捨てきれてねえ何かが。


勝ち負けじゃない。誰かに見せるもんでもない。

それでも“自分でいる”ために──どっかで握り続けてる。


それが何なのかは、まだわからない。


でも。


ジャックは手のひらを見つめ、ぽつりとこぼす。



「……この、それでも手放さなかった“何か”は、なんなんだ?」



ネクのシステムが、一瞬だけ沈黙に沈んだ。

無数の情報を走査しながら、それでも“何か”に触れられないまま、沈黙が落ちる。

いつまでも答えないネクに、ジャックは鼻で笑った。

けれど、胸の奥で──その沈黙こそが、まだ燃え残る火を確かに煽っている気がした。



「ま、わかんねえよな」

「……」

「それによく考えたら、お前の知識ってやつは誰が仕込んだんだ?クリスのとこの誰かだろ」


吐き捨てるようにそう言って、ジャックはまぶたを閉じる。


「──じゃあ、何を聞いても“そいつらの言葉”だ」


ジャックの銀髪を朝の風がさらった。

ネクは、再び少しだけ回転軌道を調整し、慎重に問うように言った。


「……参考までに、他層(たそう)の資料から“誇り”に関する定義を提示できます。イデラ(そう)の辞書定義を照会しますか?」


ジャックのまぶたがわずかに動いた。

だが、すぐに曇った空へ視線を戻す。


「……言ってみろよ」


ネクは少しだけ速度を落とし、空間に音声を広げた。

その声は変わらず機械的だったが、どこか風の通り道のように、微かな残響を帯びていた。



「検索開始。以下、三件の定義を抽出」


『それがなくても生きていけるが、それがあるだけで救われるもの』

── クラヴィス・セオル(古代エストニアの思想家)


『誰の名前も呼ばずに進んだ道に、あとから咲いた花だけが、誇りだった』

── 詩集『水を踏む声』より(著:ニナ・ヴォルテ)


『誇りとは、“傷を重ねて形になる、誰にも証明しなくていい理由”だ』

── ライヴ・カズネル(旧バルト語圏・法哲学者)



ジャックは黙って、ただ聞いていた。


特に最後の一文──


“傷を重ねて形になる、証明しなくていい理由”──


その言葉の温度だけが、静かに胸に落ちていく。



──ガットみたいな言い方しやがって。



そんな言葉が、思わず浮かびかけて、喉奥で止まった。


誰にも見せなくていいなら、それがいい。

傷とか努力とか歩いてきた道を、ひけらかさなきゃ認められねえなんて、どう考えたっておかしい。


認めるって、他人が決めるものなのか?

それがお前の誇りだって、誰が、どんな目線で決めるんだ。



──決めらんねえよ、誰も。



耳の奥で、ガットの声がそう言った気がした。

そして、ほんのわずかに肩を落とすと、ジャックは長く息を吐いた。


沈黙が戻ってきた闘技場の真ん中で、ジャックは背を倒し、石段に体を預ける。


空を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。

すでにネクの旋回音も遠い。



──結局、誇りってなんなんだろうな。



心の中だけに生まれた問いは、誰に向けられるでもなく、ただ浮かんでは沈んでいく。


強さか、勝利か、それとも燃えづらい火か。

ネクが持ってきた言葉の一つひとつは、どれも外からの定義で、


どれも、自分が握っていたものとは少しずつ違う気がした。



それがなくても生きていけるが、それがあるだけで救われるもの。



……それに一番近いのは、バンズだったかもしれない。

『“死ぬまで、いくつ花を抱けるか”』

そんなことを、不器用な笑いと一緒に言っていた。


じゃあ、ガットは?


……俺自身とか、俺を死なせないこと、とか。

でも、確か最後に…傷だらけになって残るものって言ってた。

そもそもこういう話、あいつはまともに答えねえ。

沈黙を自分の形のまま貫いて、それが誇りだって顔してやがる。

……そういうやつだ、あいつは。


ゾムリスは、島の火を絶やしたくないって言ってたな。

自分の故郷を守るために、奔走してたとか。

ラスターは……鍵に宿ってた誇りが迷子になったとか、めんどくせえこと言ってた。


みんな、なんとなくでも、それぞれの誇りを言葉にできる。


だけど、自分は?


散々問いつめてきてもなお、まだわかんねえ。


ジャックは、指先ですぐ横に突き立てられた両手剣を弾いた。

誰のでもない、大きすぎる無骨な自分の武器。


それを見つめながら、思う。



──傷を重ねて形になる、誰にも証明しなくていい、理由。



「……それなら、まだ持ってる気がすんだよな」



声は誰にも聞こえなくていい、ただの独り言だった。

けれどその瞬間、ネクのセンサーが微かに灯った。

風に反応する灯火のように、確かな温度を記録していた。


空はまだ曇っている。

けれど、その奥にある光の位置を、ふたりは確かに見ていた。


ジャックはそっと目を閉じた。


生きて傷を負っていくことを、誰にも見せなくていい。

勝たなくても、語らなくても、

それでもまだ、自分の歩き方を選べるなら。


そこに、自分なりの理由があるなら。


それで、いいんじゃねえか?

どんな環境に身を置いても、最後まで、


()()()()()()()()()()()、それは誇りなんじゃねえのか。



「……あー」


不意に体を起こし、ジャックは立ち上がった。

さっきまでの問いの重さなど嘘のような軽やかさで、気だるげに首を回す。


「なんか腹減ってきた」

「栄養補給は大事です」

「……お前はなに食って生きてんだ?」

「私は自律型補給機構を搭載しています。稼働エネルギーは外部供給を必要としません。満腹感とは異なりますが、雷のウフと風のウフ──」

「あー、いい」


ジャックはネクの言葉をさえぎって、今日もノイマンが置いていったパンに齧り付いた。


「前も言っただろ。その話し方めんどくせえ」

「……善処します」



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