百八層:バグってないです.05
その夜のエザンバウトの空は、春先の星雲が、ゆっくりと目を開けるように広がっていた。
風が止んだような静けさの中。
真新しい技術局の研究室の一角に、ひとつだけ点灯しっぱなしのモニターがあった。
部屋は暗く、ウフ灯はすべて落とされている。
ネクの更新を“ハーウェンの時間”に合わせて続けると決めた頃こそ、暗闇の中での作業には抵抗があったもの……
今では闇を恐れるより、更新を途絶えさせるほうがアントラにとっては恐怖だった。
使いかけの配線は丸められたまま、山のようなデータ書類の上に投げ出されていた。
部屋は壁が埋まるほど、機材や箱に入ったウフが積み上げられ、
棚には分厚い論文以外にも、やけにカラフルなイデラの漫画本や、精緻に作られたフィギュアが並べられていた。
全部裏ルートだ。いくら給金をつぎ込んだかは、本人しか知らない。
アントラは個人研究室の最奥にあるデスクに向かっていた。
背を丸めて、キーボードの脇に両肘を突いている。
画面には、無音で流れ続ける戦闘ログ──ネク視点の映像データが表示されていた。
初期Unitの頃は文字だけの報告だった。
それも定期的に回収して記録を吐き出させる必要があった。
でも今は。
まだ粗さは目立つものの、音声も入って、ちゃんと映像記録として残されている。
ネクがジャックの観測を始めてから十年。
“おしゃべり機能”を積んでから、およそ三年──それは想像もつかないほどの躍進だった。
指先を止めたまま、アントラはぼそりと呟く。
「……あいつ、最初から“個”として認識してた」
誰もいない研究室。応える者もいない。
だが、それは“機械に命を見ている”という、常識では説明できない言動だった。
最初はカクカクとコマ送りだった映像データ。
更新に更新を重ね、今では前より滑らかに記録されているそれ。
だからこそ、わかる。
ジャックは、ネクとふたりきりになると、哲学にも似た問答を繰り返した。
そして、語りかけるときは、必ず目線を向けている。
一度や二度ではない。
あえて目を伏せることはあっても、問いを投げるときだけは、
ネクのカメラ──赤いレンズを、まっすぐに見つめていた。
あれは……対話だった。
そう気づいてから、アントラは今後の更新方針を変えることを決意した。
「観測精度の向上」
「音声野の滑らかさ」
「処理速度の最適化」
それらは、いつしか「生きた人格の輪郭」に届こうとしていた。
まるで、ネクという“容器”に、誰かを宿らせるように。
それが“機械に魂を与える”行為だと、誰より知りながらも。
「魂…ね。ほんとならソルの仕事なんだろうけど」
自嘲気味に笑いながらも、アントラはネクの更新作業を止める気がなかった。
繰り返されるハーウェンの時間。
ソルの眼差しの届かぬところで、毎日少しずつ象られる“命”の形。
灯りの消えた研究室で、彼はただ静かに作業を続けていた。
もはや更新の目的は、戦場の記録でも、武器の応答性でもない。
それは──
ジャックという男の内面を、ネクという窓から覗き見ること以上に、
ネクという作られた存在に、“神獣の誇り”と同等のものを宿らせたいという、傲慢な願いだった。
そして、その願いこそが──後に時代を変える“火種”となることを、まだ誰も知らない。
「……名前をもらってから、ずいぶん育ったね〜」
コーヒーの残りを一口飲み、アントラは振り返った。
そこには、静かに浮かぶ銀の球──ネクがいた。
銀球は、顔のような構造も、表情も持たない。
それでも、アントラには分かっていた。
わずかに点滅する小さな赤いライト。
そこに、“目”があると。
夜の空気は冷えていて、手元を照らすだけの小さなウフ灯がちらちらと明滅している。
アントラは片肘をデスクに乗せて、目の前の球体をじっと見つめた。
「……さあて、今日のアプデは終わり。んー……でも、ソルが起きるまでには、まだ時間があるね」
静かに浮かぶ銀の観測球。
最初こそ武骨な鉄球のようだったフォルム。
だが今は表面の継ぎ目はほとんど分からず、光の反射具合で中に埋め込まれた複数のウフの煌めきが透けて見える。
重力や雷、音や風…複雑に組み合わされたそれらの中心のコアに、薄く灯る緑のラインが走っている。
アントラの声を聞き、動かずホバリングしていたネクが自転を再開した。
内側のコアは固定されたまま。
外装だけがくるりと回り始めたそれは、わずかな光源を反射してまた一見ただの銀球へ戻る。
ゆっくり回るたび、それはただの観測機にも、世界でいちばん静かな“命”にも見えた。
「ネク。……お前の目から見て、ジャックってどうよ?」
音を立てずに、ネクがゆっくり回転する。
そして、数秒の間を空けて──静かに、答えた。
「……観測記録に基づきますか、それとも主観的処理に基づきますか?」
アントラは一瞬片眉を上げた。
それから小さく笑って頬杖をつく。
「どっちでもいいよ。っていうか……“主観”って出たの、初めてだな?」
観測球のライトがゆっくりと強まった。
アントラはコーヒーを飲み干し、ふっと息をついた。
そして、何も言わずに、ネクの“目”を見つめる。
「現在の学習モデルにおいて、“主観”の定義は確定していません。ただし、ジャックを見て、記録では定義できない感情変動が記録されています」
「……感情変動、ね」
「はい。彼と対話をすることで、記録値には収まらないノイズが発生します。それは──私にとって未知の“輪郭”です」
「輪郭……」
アントラは一度目を伏せ、静かに笑った。
銀の球は、まだゆっくりと回り続けていた。
「……そうだね。あいつは、“見えるのに掴めない”みたいなとこがある」
観測を始めて、それなりに経った。
一度も言葉を交わしたことも、目線が絡んだことさえない、ヴェルトルクの“化け物”。
いや、今では正義の“英雄”か?
まあ、どっちでもいいや。
少なくとも、何の偏見もなく“新しいもの”を受け入れる度量の大きさは、嫌いじゃなかった。
戦士とか、天使とか、そんな枠組みだけじゃなく。
人類に傾倒するアントラだからこそ、よく知っていた。
この世界は“変化”に対して、臆病すぎる。
神獣信仰がいい例だった。
変わらないことを尊ぶ多くの種族。
かつて失われた固有能力に縋るように、これからも“変わらない”ことを望んでいる。
少しでも退化しないように。
でも、そんなの“生きてる”って言えないじゃん?
前のほうがよかったなんて、誰だって言える。
だって、この先がどう転がるか知ってる奴なんていない。
見えない未来より、楽しかった過去を守りたいのは当然だ。
だから余計に、いろんなことを試す必要があるっていうのに。
人類なんてウチらよりずっと短命じゃん。
なのにどんどん変わってる。
昨日より今日、今日より明日。
……まあ、それで環境汚染進んでりゃ意味ないんだけど。
どっちが正しいとかないけど。
どっちが“金の賽の目”を出せるかなんて、もう分かり切ってる。
歩き出さない奴に、靴なんて要らないんだから。
そういう意味で言えば、ジャックは誰より靴が似合わない。
社会を歩くために必要なはずの“常識”を脱ぎ捨てて──でも、立ち止まってるわけでもない。
あいつは裸足で進んでる。
それも砂利でも草でも、なんでも踏み抜いていくように。
汚れなんて気にしてない。
足の裏の傷も、歩くために当然の対価だと思ってる。
誰に勧められても、あいつは靴を履こうとしない。
たぶん、自分で必要だって思うときまで。
変わらない。変えられない。
そしてどんなに傷だらけで、どんなに泥だらけになっても、なぜかどうしても美しく見える。
──神獣、みたいだよな。
信仰心なんて持ってないに等しいのに、あの背中を見ると、不思議と“変化のなさ”も、悪くないと思えてしまう。
前進のなさは、科学者の死だとさえ思っているのは確かなのに。
……いや、進んではいるのか。
ただ、社会と明後日の方向を向いてるってだけで。
神獣を遠ざけて生きてきたはずの自分の口から、その言葉が零れ落ちたのが、不思議で仕方なかった。
自嘲のような笑みをこぼしてから、アントラは視線をネクへ戻す。
ネクは何も言わないまま、その場で静かに回っていた。
きらりと、窓から差し込むハーウェンの月明りを反射する。
「けどさ、ネク。お前が今言ったその“ノイズ”ってやつ、それが、もしかしたら──感情の“始まり”かもしれないじゃん?」
しばらくの沈黙。
まるでどう答えるべきか、アントラの様子を伺うような間だった。
やがて、ネクは静かな稼働音と共に、声を落とす。
「……では、私はその“始まり”を観測しています。この記録は、あなたの更新によるものですか?」
観測球の音声が、少しだけ柔らかくなった気がした。
アントラは目を細めて、にやりと笑う。
「さあね。更新かもしれないし、バグかもしれない」
「……」
「けどさ……“魂”ってのは、そういうバグの中から、生まれるかもしんないよな」
静かな夜の中、浮かぶネクの光が、ふわりと瞬いた。
昼の神獣が、全ての生き物に“誇り”という命を宿すのも……
人類の生物化学にかかれば笑い種でしかない。
魂なんて見えないもの。
生まれてくる確率も何憶分の一。
それが生き物か、プログラムか、たったそれだけの違いなら。
目の前の小さな球の中に、炎が宿ってもおかしくない。
愛しささえ感じさせる眼差しで、アントラはネクを見つめていた。
ネクは答えなかった。ただ、静かに回り続けていた。




