百七層:バグってないです.04
天使社会の再構築が一段落し、エザンバウト崩落からおよそ一律動が経った頃。
十年目にしてようやく新設された研究室の片隅。
昼食を広げる技術者たちが、新すぎるテーブルを囲んでいた。
パンや軽い弁当をつつきながら、ゼノラ層で発表された論文が広げられている。
「やっぱ、アントラ主任が同層間通信機を作ったことで、一気に音のウフの研究、進みましたね」
一番若い研究員が、称賛と憧れを抱いたような声で呟いた。
今まで、イデラ層の人類以外が手にすることがなかった“通信機”。
距離がある浮島間でさえ、伝達方法は紙や口頭。
よくて数律動ほど前にできた、振動することで言葉を伝える腕輪程度のものだった。
それも、結局はアントラがイデラの“モールス信号”を使いたかっただけという理由だった。
この震える腕輪に関して、アントラ自身は「遊びで作っただけ」と笑い飛ばしていた。
誇りではなく、ただの“やりたかったこと”。
それでも社会は、それを発明と呼んだ。
しかし、案外、その腕輪の需要は高く、
そして今回生まれた音声を伝える通信機は、それ以上の反響を生んだ。
いい意味でも、悪い意味でも。
特に影響を受けたのがゼノラ層の商人や、移住した天使らだった。
実力社会の蒼殻を離れ、資金潤沢なゼノラ層に流れる技術者や研究者は多い。
それは金銭面に限った話ではなかった。
──“信仰”とは、最も相性が悪い“科学”。
どの層も神獣を尊ぶが、ゼノラの“大扉の街”ノードは特に多種族共存を掲げ、“金融”という信用指数がなにより力を持っている。
各々が信じる信仰よりも、全ては金が物を語る。
だからこそ、彼らにとっては“神獣の目が届かない場所”だった。
たとえ身体が地上の濃すぎる空気や、気温、湿度に拒まれても。
むしろ、天使でありながら地べたにそこまでして残ろうとする者ほど、研究職に根差す者がほとんどだった。
けれど、すべての層がそれを歓迎したわけではない。
特に悪魔たちは通信機の存在そのものが“神獣への冒涜”と糾弾した。
天使社会の技術革新を恐れるだけが理由ではなかった。
影の移動を司る彼らにとって、情報の鮮度に困ったことがなかったことも要因のひとつだった。
また、最も反発したのはフォールドラークの鍵職人たちだった。
電波という“見えないが確かにある”という在り方……そして“変わらないことへの信仰”が、神獣の領分を侵す行為と見なされた。
“見えない力”は、神獣の在り方そのものだった。
それを理屈で語ろうとする行為は、信仰の終焉を意味した。
彼らは星層を越える技術を持っているが、扉と鍵がなければ“距離と時間”を越えて声を届けることはできない。
その制約そのものが尊ぶべき文化であり、“人類へ堕ちない”ための線引きであると主張する。
それでも。
アントラが生んだ同層間通信機は、瞬く間にゼノラ層で研究テーマとして取り上げられた。
妖精種や悪魔種より先に、同胞の天使の研究者が次々に新しい論文を書き上げていく。
そしてその論文がまた、アントラの残した“ネクの成長記録”へと繋がっていく。
「でも、このゲルトルって天使の論文は……やっぱ別格だな」
ひとりの天使が感嘆の声をあげ、読んでいた論文のひとつをテーブルへ置いた。
その隣の研究員が、パンを齧りながらのぞき込む。
「あれだろ、ウフ研究の第一人者。爆発のウフ作ったって」
「それだけじゃない。エアフィルターも、気温に応じて冷えたり温まったりする服も、なんなら滑空船の重力制御もだ」
「技術ではアントラ主任。論理じゃゲルトル。この界隈じゃ有名だろ」
副主任がコーヒーを飲みながらぼそりと呟いた。
「まあ、主任は“情熱を作る狂人”。ゲルトルは“知りたがりの論理屋”だけどな」
まるで本人を知っているかのような口ぶりで。
それでいて、どこか冷めたまなざしに、若い研究員が首を傾げた。
「知り合いですか?」
「……いや。でも、何回か論文発表会で見たことはある」
ゴト、とマグを置いた音がやけに重く聞こえた。
「天使種が他層や蒼殻で生きていくうえで、必要なもんどんどん調べ尽くしてるのは嘘でも誇張でもない。……実際、一番最初に奴が書いた『異なるウフの結合について』は、まだ三百も生きてない年頃だったらしい」
「……天才ですね」
テーブルの上が静まり返る。
三百歳など、長寿の天使種からしたら声変わり前の少年だった。
「でも、知れればいい——そんな感じがした」
「……知れればいい?」
「無差別に色んなものを調べて、定義して、書き留めていくが……その先を形にするのは他人に任せっきりみたいな様子だった。だから、戦争道具の発明の多くに、あいつの名前は必ず載ってる」
よっぽどの戦闘狂でない限り、望んで戦争をする者はいない。
もしいるとしたら、それはその裏で動く“資本”の動きに関わっている者……
あるいは、その先に“金”の可能性を見ている者だけだ。
……いや、それも、狂人の範疇か。
ゲルトルの知識は天使の技術者にとって、なくてはならない基盤だった。
だが同時に、終わりのない戦争を助長するものでもあった。
とくにゼノラ層に身を置いた彼の論文は、守銭奴が多いその街では尊ばれる。
あらゆるものに姿を変える。
そしてすべてが利益や価値につながっていく。
そこに、アントラが思うような“ロマン”は存在するようには思えない。
この場にいる研究員たちも、アントラの在り方に共感する者はほとんどだった。
だから余計に、空気は重く沈んでいく。
——ただ、最近はそのゲルトルの論文の数はぐっと減った。
今までだったら息つく暇さえ与えないほどの勢いで、世界の神話を紐解いていたというのに。
前までは規制が厳しかった「イデラ層からの輸入品目」が緩和され、その対象に“本”が入った。
価格は庶民が手に入れられるようなものじゃない。
でも金さえ積めば、異種族には存在しなかった“世界の定義”が、いまや他層でも買える時代——
知りたい欲が減ったのか?
あるいは、アントラ主任みたいにイデラの知識の虜になったのか……
「どっちも必要だけど……ゲルトルの理論は便利さと同じくらい、戦争を呼ぶ」
「本人は気にしてないんだろ?ただ知りたいからやってるだけって顔して」
「……主任とは真逆ですね」
「どっちも同じくらい厄介だけどな。でもまだ、主任の方が“愛嬌”がある」
副主任が締めた言葉で、数人が軽く笑った。
再び食卓に音が戻る。
またかすかな笑い声を含みながら、昼食も終わろうとした頃。
話題は自然と「昔話」めいたものに流されていった。
「そういえば……ここのところ、観測機、壊されてないよな?前は毎回バラバラで帰ってきたのに」
ふと誰かが軽い口調で疑問を口にした。
副主任がその言葉に顔をあげた。
隣の研究員も、手についたパンのカスを叩きながら、首をかしげる。
「そういや確かに。でも、ジャックの“仕事”自体、もう減ってるだろ?」
「新聞にもあまり載らなくなったな、どこの島のゴロツキを潰した…とかってやつ」
「……相変わらず、“英雄”か“化け物”かって言われてますけど…前よりは確かに、噂も落ち着いてますよね」
ジャックがフジによって連れ出され、各浮島で立ち上がる派閥の芽を潰していることは、クリスの膝元で働く彼らにとって周知の事実だった。
むしろ、その戦闘におけるデータの収集、そして分析、報告。
それらが今の技術局が抱える、主たる仕事のひとつでもあったが──
「……あの騒ぎが、嘘みたいに静かだ」
ぽつりと、副主任が呟いた。
少し前までは、度重なる破壊に、アントラが地面をのたうち回っていたのが日常と化していたはずだった。
でも確かに、最近はそれを見ていない。
ひとりが椅子を引いて立ち上がり、山積みになっている紙束を漁る。
ジャックによって積み重ねられる“適性外”の鍵データの中から、観測機──ネクに関するものを選び抜いて、眉を寄せた。
「……ほんとだ。最近のログ、全部“軽微な干渉”扱い。ていうか、もう観測機自体、相手にされてない感じですよ」
「……あのジャックが?」
その名前が出た瞬間、ほんの少し、空気が冷える。
コップを握る手が止まり、誰かの喉が鳴った。
「…何があったんだろうな。あれだけ壊してたのに」
「いつの間にか主任が全部やるって言って、データ処理もほとんど回ってこなくなったし……」
ふと、ひとりの研究員が声を落とした。
「でもさ、昨日、何日か前の映像データ見てる主任の肩越しに覗いてたんだけど……」
一拍の間。
それは“言っていいのか悩んでいる”というより、適切な言葉を選ぶような空白だった。
「……避けるんだよ、あいつ。わざわざカメラの視界を。あんなの、前は絶対なかった」
機械を、避けて戦う。
瓦礫が跳ね、戦士が飛び、武器が舞う奴の戦場で、ひとつの観測球だけを……?
「……愛着沸いた、って話?それは……うーん」
「ないない」
「絶対ないわ」
笑い声は、すぐに収束した。
けれど胸の奥に残ったのは、妙な違和感だけだった。
副主任はざらつきを覚えたまま、冷めてしまったコーヒーの揺らぎを見つめた。
「結局……何なんだろうな、あいつ」
ぼそりと。
でもそれは、その場にいたすべての研究員の心の声だった。
「英雄?反逆者?悪魔の裁判所に処刑されたガットとかいう友達を救うために、ここに乗り込んできたって……どこまで本当か……」
「ていうか、その“処刑された”って話すら、真偽不明だろ。鍵の記録も、裁判の法廷すら非公開」
「最近の報道、信用できないって話、多いよな……エザンバウト民からすると、あいつを英雄扱いする新聞が多すぎて、逆に怖い」
「おい、それ以上は──」
その先の言葉は続かなかった。
続けられなかった。
崩壊をその身で体験したエザンバウトの民たちが、ジャックを“化け物”と恐れるのは当然だった。
けれど、世間は不思議と“英雄”へと傾けていく。
ジャックの観測を続ける研究員たちにとっては、実際に体験した“重力の狂い”と、自分の目で見る“ジャックの沈黙”をどう結び付けるべきか分からないままだった。
だからこそ──
彼を“英雄”にしようとする世論の動きが、どこか気持ち悪さを覚えさせる。
エザンバウトが割れてから、十年。
被害を忘れるには短すぎ、だが噂が変質するには十分な時間。
それにしても、足並みをそろえた新聞の報道は、まるで誰かが世界の口を塞いでいるようだった。
しかしそれをクリスに聞かれるかもしれないこの場で、口にできるほどの勇気を持つ者など、いなかった。
……結局、彼らにできたのは、沈黙を共有することだけだった。
誰かが声を潜め、さりげなく周囲を見回した時だった。
「……んーー」
ぽつりと、背後の休憩スペースから声がした。
振り返ると、長いソファにその身を投げ出し、だらしなく眠っていたはずのアントラの姿。
徹夜明けで眠たげな目をこちらに向けていた。
「今……なんか言った?」
きょとんとした顔で首を傾げる。
本当に聞こえていなかったのか、それとも聞いたうえでの問いなのか──誰も判断が付かない。
咄嗟に背筋を伸ばした研究員たち。
そんな彼らを気にもせず、アントラはのっそり起き上がると、コーヒーを自分のマグへ注いだ。
「え、えっと……ジャックが最近、観測機壊してないなって話を……」
若い研究員が、誤魔化しながらも嘘がない範囲で答えた。
別にアントラに聞かれて叱られるとは、誰も思っていなかった。
むしろ逆だ。
新聞報道の違和。それに彼も共感をしてくれる。
むしろ、一研究員には知りえない裏側を知っている可能性もある。
だからこそ、声の大きいアントラでは、クリスの耳にまで届いてしまうんじゃないか。
そんな不安の方が大きかった。
けれど、アントラはその言葉を聞いた瞬間、コーヒーを盛大にひっくり返した。
「……あーっ!!!!!」
「ひっ……!?」
「あっつ!!」
真新しいテーブルに黒い液体が広がり、研究員たちの白衣や論文の束を容赦なく濡らしていく。
慌てて全員が立ち上がった。
でもアントラには見えていない。
淹れたてのコーヒーの熱さに悶える声も、急いで論文をすくい上げる手も。
ただまくしたてるように、高速で、彼の頭の中に駆け巡る“仮説”が口から飛び出していた。
「壊されてない!?それって……つまり“避けてんじゃん”!!“意図的に無視”してんじゃん!?つまりあれ、反応してんじゃん……!感情じゃなくて──認識だろ!?そこにいるって分かってるんだろ!?」
「え、いやそりゃあんだけ回ってれば……」
技術者たちはぽかんとしている。
今更何を。
いくら無頓着なジャックでも、この一律動ずっと自分の周りを廻る銀球を認識してないなんてこと…
だが、アントラはひとりでどんどん答えに辿り着いていく。
「うわーーー!気づかなかった!あの子毎日帰ってきてたから…確かに“帰還”はしても“回収”はしてないな?!」
「え、いや、主任…?」
「……そっか……そっか……なるほど……だから前回、滑空挙動の時、ネクの同期ズレが出なかったんだ……!!」
嬉々として自席に駆け戻るアントラ。
開けられたままの個人研究室。
その扉から覗き込むように、若手研究員が恐る恐るつぶやく。
「……主任、なんか……見つけたんですか?」
アントラは振り返らない。
年々少しずつ性能が上がるイデラ製のモニターに並んだネクの挙動記録を、一行ずつなぞりながら呟く。
「……そうか。いや……そうだったのか……」
誰かが「え?」と声を上げたが、アントラはもう周囲を見ていない。
「ウチは、“返事をする”ってだけで、十分だって思ってた。機械だから、感情を挟まないから、答えやすいだけ──そういうもんだと思ってた。けど違う。違ったんだ……!」
そう言って、手元のログを素早くスクロールする。
「最初のやりとり…初めてネクが喋った夜……いや、だってそうじゃん?真っ先に名前つけてんだもん!それって──機械を“個”として見てたってわけでしょ?」
アントラは立ち上がる。
回転いすが回りながら壁にぶつかった。
「……ジャック・J・ジッパーは、最初からネクを“ただの記録装置”なんかじゃなく、“誰か”として見てたんだ。無機質な機械に向かって喋ってたんじゃない」
「…え、え?それは……」
研究員のひとりが戸惑いながら首を傾げた。
振り返ったアントラの瞳が、きらりと輝く。
「──ジャックの中で、ネクは生きてる」
言葉がひとつずつ、部屋に落ちていく。
研究員たちは訳が分からないまま、扉の前に立ち尽くしていた。
白衣に飛んだコーヒーの沁み。
そこから漂う香りが、沈黙をどこか温めている。
どさりと、アントラが床にそのまま座りこんだ。
ゴーグルを乱暴に外して、逆プリン色の髪をガシガシとかきむしった。
「……嘘だろ……なんでお前が一番、研究者してんだよ……!」
その声は落胆でも、嫉妬でもない。
ただ喜びに近い悔しさがにじんでいた。
知識を積み重ねすぎたからこそ、抜け落ちていた“大事なもの”。
観測するための技術とか、機械の眼を通してジャックの輪郭をつかんでやろうとか。
そんなものより、もっと手前にあるべきもの。
科学者として、真ん中に持ち続けていたかったもの。
アントラは、それを──“名前”という原点で教えられた気がした。
そして、込み上げる熱を誤魔化すように、笑いとも泣きともつかない声を漏らしながら、髪をガシガシとかき乱した。




