百六層:バグってないです.03
天使社会の“誇りの象徴”、白燈。
その崩れた回廊の一角にある──“風の間”。
その執務室の壁や柱は真新しい“白”に塗り替えられていた。
一度崩れたクリスの私邸は、再建は施されているものの、その爪痕は隠しきれていない。
窓も壁もきちんと機能しているため、部屋の中は暖炉の火で十分に温められていた。
本来ならソルの西日が差し込む時間帯。
けれど今はカーテンが閉ざされ、炎の赤だけが揺らいでいる。
「……また、適性外の武器?」
紙を一枚めくりながら、クリスが声を落とす。
白い執務机の上には分厚い観測結果。
つい昨日までは毎日一枚……それも、数行で済んでいたはずのもの。
それこそ、フジがジャックを連れ出して“勉強”させないかぎり、動きなんてほとんどなかったはず。
それなのに、技術主任アントラによって持ち込まれたそれは、一冊の本のような厚さがあった。
アントラは一瞬、息を呑んだ。
「はい。全部で100件以上。昨日から今朝にかけて、リアルタイムで転送されてきました」
「……」
「しかも、適性外ウフ使用時の反動値は──臨界を一秒未満で自動補正しています。普通なら……即死ですね」
デスクの前に立つアントラの目は、少しだけ血走っていた。
既に赤で囲まれたエラー値と、“観測対象者:ジャック・J・ジッパー”の名が並ぶ紙面。
クリスの金色の瞳がその名前を見た瞬間、わずかに揺れた。
「これ全て、ネクからの記録です。……今も絶えず、送られてきてるはずです」
アントラはいつものゴーグルを額に押し上げ、作業手袋を手に持ったまま立っている。
ログに並ぶ数値は、もはや紙ではなく、彼には燃え移る炎のように見えていた。
通信機という初の試みに関する報告よりも、その熱がはるかに上回っている。
彼の報告は済んだが、クリスはすぐに反応を返さなかった。
指先でページをめくるように、観測ログを一瞥する。
「……“ネク”?」
「あ、はい。昨日、対象者本人による発声確認済みです。“Unit19”に対して音声入力で。彼が名前を──」
「そう。少しは“反応するようになった”のね」
それきり、彼女はページを閉じて、書類の束の上にそっと置く。
中身なんてどうでもいいと言わんばかりに。
「……」
アントラはその静かすぎる指先を、じっと見つめた。
「……で、その通信機と、音声システム……?あなたが独断で実装したのよね?」
「……まあ、はい。でも、結果的に」
「そうね。“結果的には”、よかったわね。彼が反応したんだから」
間が落ちる。
クリスは金の瞳を静かに伏せた。
「──ただ、“観測機”が個を持つ必要があるかは、再考すべきかもしれないわ。彼にとっての“きっかけ”が必要だったにせよ、“見る”だけでいい物が、“話す”必要があるかしら」
「……ただ発語するだけじゃないですよ。ちゃんと何万通りと書き込んだ条件から、適切な“会話”を──」
「同じことよ」
ぴしゃり。
クリスは指先を組んだまま、静かにはっきりと言い切った。
「情報を記録する機械に余計な感情回路をつけることが、正義にとって本当に効率的なのか──それはまた、別の話でしょう?」
「…………」
「それに、神獣信仰に対する配慮も欠けている」
彼女は机にひじをつき、静かに椅子に背を預ける。
天使社会は「誇り」と「戦い」で成り立っている。
武器を振るう者こそ一人前。
だから、歯車や配線に手を伸ばす者はいつだって少数派だった。
クリスが科学に興味を示さないのは、彼女が戦士や女だから、だけじゃない。
天使の中で「技術屋」はそもそも異端で、数えるほどしかいない。
戦うことを選ばなかった天使は、どれほどの成果を積み上げても、どこかで“片隅”に追いやられる。
だからこそ──アントラの狂気じみた執念も、なおさら異彩を放っていた。
アントラ自身もそれは分かっている。
分かっているが──
「特に、名前は力を持つものよ、アントラ。不用意に与えるものではない。私たちがどれだけ“ひとつの名前”に振り回されているか……よく分かっているはずよ」
クリスはアントラを見ていなかった。
視線は窓の向こう──空のずっと下に浮いている、ヴェルトルク。
その言葉は、冷たい批判というより──天使社会そのものの声に聞こえた。
武を重んじ、戦いを誇りとし、剣を握らぬ者を片隅に追いやる。
その空気が、彼女の言葉を通して、ひときわ鋭く突き刺さってきた。
……けれど。
それでもアントラはやめられなかった。
歯車を回すこと。コードを組むこと。未知を問い続けること。
誰も振り返らないその道を、笑われても、狂人と呼ばれても、歩き続けるしかない。
それが彼にとっての「誇り」であり、唯一の支柱だった。
アントラは、人知れず拳を握った。
分厚い手袋がぎゅと音を立てる。
けれど、その小さな音は──炎よりも確かに、彼の胸の奥で鳴っていた。
「そうね、でも──」
「……」
「……機械に名前を与えたくらいで、騒ぐようなものではないわね。ごめんなさい」
どうせその程度のことで、ジャックが変わるとは思ってない。
どれだけの数の天使が彼に振り回されて、声をかけて、火を起こそうとしているか。
それでもなお動かないからこその、“不動の男”。
クリスは、諦念にも似たため息を重く落とした。
「…………了解しました。技術局としては、今後も記録を継続します」
「ええ。それだけでいいのよ。黙って観測して、黙って記録して、黙って、そこにいる。……“疲労”のなさが、機械のいいところでしょう?」
……彼の監視に機械を採用したのは、休まず見ていられるという点だけじゃない。
そうしていれば、誰も傷つかないと思っていたから。
でもその真実を、アントラに語る必要もなかった。
アントラは軽く会釈だけを残し、執務室を後にした。
指先が震える。
でもその震えのまま……
バン──!
重たい扉を、音を立てて閉めた。
白く美しい廊下へ出たアントラは、いつものように工具の詰まったポーチを肩から下げたまま、怒りの気圧を全身からまき散らしながら廊下を突っ切る。
崩壊の日に負った足の傷が痛んでも気にならない。
黙って観測して、黙って記録して、黙ってそこにいろ……?
はァああ!?何様だっての!こっちはね、一個組み上げるのに!
丸三日寝ないでコード書いて、通信と言語モジュール調整して、ウフ共鳴軸の誤差と格闘してんのよ!?
誰もいない廊下に、安全靴の踵が立てる音だけが響いた。
まるで、正義の白壁に小さな傷を刻むように。
「音声システムは無駄ぁ?あれがなきゃ、あのバケモノは“初めての名前”を口にしなかったっつーの!!記録より記憶だってこともわかんないわけ?!」
駆けるように白亜の館を飛び出して、坂を転げるように降りていく。
そのまま仮設の研究棟へ足を踏み鳴らして進む途中、すれ違った新人研究員がぎょっとして彼を避けた。
でも、アントラはおかまいなしに歩く。
「……いいよ、分かった。報告?しないよ。今さら止めろとか言われたって、もう手ぇつけてるし!いいんでしょ?“結果的には良かった”んだから!!“付け足すな”とは言われなかったもんねーだっ!!」
勢いよく研究室の扉を開く。
バタン!と大きな音を立てて、中にいた副主任が肩を揺らした。
アントラは雑に白衣の袖をたくし上げる。
まるで戦闘準備のように、鼻息を荒くしながら自分のデスクへと突き進む。
「しゅ、主任…?」
「──やってやるさ。時間外に、ね?ハーウェンの時間に。黙って。誰にも言わず。こちとら趣味と愛と意地でやってんの!!」
「え、え?」
彼の耳には何も入っていなかった。
困惑する研究員をそっちのけで、ネクの学習ファイルがひとつ、またひとつと書き換えられていく。
ただの反発心ではない。
怒りの根源は技術畑の天使としての誇りだったかもしれない。
けれどその真ん中。
宿った火種は、モニター越しにでも拡がった、“個を貫く者”の炎の一部に他ならなかった。
──そしてその炎を、記録し、繋ぐ役目を担うのは。
他でもない、自分と“ネク”だ。
「……いいさ。あんたが黙ってても、ネクが語ってくれる」
白衣の袖をまくり上げる手は、もう震えてはいなかった。
代わりに、その手の奥で──ひとつの新しい“声”が、確かに目を覚ましていた。
*
エザンバウトの工場群。
その隙間に建てられた技術局は、あの崩壊の日からおよそ七年経った今でも、相変わらず仮設のままだった。
復興を第一に掲げたクリス。
街や港はそれなりに復興が進んでいるというのに、この場の優先度合いの低さが、壁を軋ませる音が証明している。
空はすでに宇宙を映し、星々の輪郭が静かに膨らんでいた。
世界が音を失い、ただハーウェンの欠けた月だけが、呼吸していた。
誰もいないはずの研究室から、カチャカチャと操作音が漏れていた。
青白いウフ灯のちらつく下、ひとり、アントラがコアの前に座り込んでいる。
「……なんで、そんなバカみたいな動きできんのさ。計算不能って、どゆこと?重力の理屈どこいった」
モニターには、エラーを吐き出した観測ログが何十件も重なっている。
視点はすべて──ジャック・J・ジッパー。
破壊と獲得と転用。
“鍵を奪う戦い方”が、毎回違う法則で記録されていた。
クリスに“技術者の矜持”を踏み躙られて以来、はや一年。
アントラはひとりで“ネク”のアップデートを繰り返していた。
毎晩、ソルの時間が終わる頃にネクはヴェルトルクを出発し、ハーウェンの時間にすべてを終わらせる。
朝方にはまた、当たり前のように──対象者ジャックの周りを、回り続ける。
ジャック自身はそのことを、特に気にも留めていなかった。
クリスも、技術局の部下も、誰も知らない。
これは、ただの意地の応酬だった。
けれど、アントラが知らないまま……
毎夜繰り返される“成長”が、わずかに──
ジャックという星の自転を、変えていっていた。
ネクという“生きる”衛星は、誰も住めない“死の星”に、かすかに光の記憶を思い出させていた。
壊して、また作って。
ぶつけて、また測って。
その繰り返しのなかで、ジャックは少しずつ──炎の届く距離を覚えはじめていた。
槍を突き出す間合いでもなく、剣を振るう間合いでもない。
誰かを守るために、他人を焼かない“距離”。
戦いだけではない。言葉の温度も。
態度や、目線の向け方ひとつさえ、
それは機械だからこそ許された失敗の数々だった。
生き物なら壊れて終わる過ちを、ネクは何度でも繰り返し、記録し、残した。
そして、その繰り返しの中で。
死んだように座り込んでいた男の炎が──ほんのわずかに、“他人”を測りはじめていた。
……だが、報告される数値のデータから、まだ、アントラはそこまで読み取れていない。
「ハイ次っ。前回のアップデートじゃ反応速度が1.3秒遅延……うん、ダメ。だから言ったじゃん、音声処理層もっと深く積んどけって……!」
床に投げ捨てた紙束が、イデラの言語モジュール資料であることを、誰も知らない。
この短い月日の中でも進化し続けるイデラのデバイス。
以前よりは記憶能力や処理能力は良くなっても、まだまだネクの全てを記録するには、その見た目にそぐわず余りに”薄い”。
足元にはフロッピーディスクが何十枚と散らかる。
その一枚一枚を、アントラはまるで宝物のように指先で撫でた。
「……“丁寧に記録する”んだよ。あいつの動きも、言葉も。全部、丁寧に。徹底的に」
モニターに並ぶログを見つめながら、アントラはただ息を呑んだ。
イデラ層の科学は、異種族の中でも飛び抜けて進んでいる。
けれど“今”の人類ですら、人工知能と呼べるものは、せいぜい単語を返す程度の拙いプログラムに過ぎない。
「会話」など、夢物語の域を出なかった。
なのに──ネクは言葉を紡いでいる。
それも、まるで意思を持つかのように。
人類の科学技術、そこにウフというかつての神獣に近しい遺物……ドラゴンの血の化石が噛み合わざることで生まれた存在。
それが、ネクだった。
けれど、それはただの奇跡ではなかった。
短期間に何度も壊され、何度も作り直し、何度もアップデートを繰り返したその反復が、初めて、短命種である人類より一歩先を進んでいた。
偶然や魔法による産物ではない。
それは確かに、汗と意地と弛まぬ研鑽による結晶だった。
作業台には、壊され、再生され、積み重ねられてきたネクの歴代観測Unitが並んでいる。
それは失敗の墓標であると同時に、未来の支柱だった。
まだ滑らかとは言えない銀球のコアが、かすかにウフ灯の揺らぎを反射している。
アントラはネクを通して、“ジャック”の輪郭を掴もうとしていた。
たったひとりの命のために、社会を敵に回した“化け物”。
鍵を奪って集める常識はずれ。
そのくせ、誰も無視できない力を持っていて──
絶対に誰かを殺さない戦士。
一部の天使からは、陽だまりのような暖かさで見守られている存在。
……矛盾だらけじゃん。
何が本当の姿かわかんない。
エラーコードばっか。データは使い物になんない。
でも、だからこそ──“言葉”だった。
ジャックは、誰にも語らない。
その胸の内を、島民や身近な戦士にすら、吐露しないという。
じゃあ、もう見るだけじゃだめだ。
直接、聞くしかない。
幸い、ネクという名前をつけてから……
ジャックは、“応える”ようになった。
相手が生き物じゃないから、話しやすいってだけかもしれない。
でも──それで十分だった。
一方的でも。ネクを通してジャックの思想を掴みたかった。
言葉がなくても、機械眼が体温や鼓動や細かな変化を記録した。
爪を弾く行動は苛立ちの兆候。石段を指先で叩くのは思案中……
積み重なった行動の記録。それを、アントラが聴ける。観れる。
「見えてきたぞ、ジャック……お前、思ったより“狂ってない”じゃん。破壊と同じくらい、受け取ってる。試してる。測ってる。……なら、こっちも応えなきゃ失礼ってもんでしょ」
廊下の奥で誰かが足音を立てる気配がした気がして、アントラは一瞬だけ振り向いた。
だが、声はかけられない。
この時間、誰にも邪魔されないのがわかっている。
……でも、やっぱりまだ暗闇は怖い。
「……夜のうちに終わらせる。ゼノラで音のウフ使った伝声処理の論文、新しいの出たらしいじゃん?早いとこそいつも積んで、もっと滑らかに、観測させてやる」
それは単なる改良じゃない。
“機械に問いを投げかける”という、誰もまだ試したことのない遊びだった。
画面には、最新ログの末尾にタグが加えられていた。
《更新内容:視線検知反応 → 0.3秒短縮》
《音声出力反応 → 同一語彙からの連続文生成に対応》
「……こっちの問いかけにも、答えられるようにね」
アントラはそう呟いて、マグのコーヒーを煽った。
冷め切った味も、もう気にならなかった。
彼の瞳には、科学でも魔法でもない“問いの先”が、ぼんやりと浮かび始めていた。
マグを置いた音が、仮設研究室にひとり響いた。
作業台の上で、銀球のコアがわずかに瞬く。
それが、誰の呼吸にも似ていた。
その静けさの中で──問いは、生まれたばかりだ。




