第七章 魔は潜む①
場所は変わって天雅楼本殿。
その時、文月寧子は廊下沿いの庭園にいた。
身に纏う服は自前のオーバーオールだ。ただほつれなどは直っている。こないだ初めて出会った優しそうなお姉さん――芽衣さんが直してくれたそうだ。
「……ん」
寧子は大きく手を振ってぴょんっと跳んだ。
ぴょん、ぴょんっと。
それを何度も繰り返すが、二十センチほどしか跳べない。
「……ん」
寧子は跳ねるのを止めた。
それから自分の胸元に両手を添えた。
(……魂力。それがわたしの中にもある)
寧子が宿すという魂力の量は百七十五ほどだと教えてもらっていた。
そんな数字を出されてもピンと来ないが、結構な量らしい。
それを自覚し、使いこなせれば人を超えた力を得られるという話だった。
(それができたら、おじいちゃんを探しにいける)
手を添えたまま、夜空を見上げる。
輝き続ける巨大な月。
寧子はすでにこの世界の真実を知っていた。
燦と月子たちから教えてもらったのだ。
この世界には、違和感をずっと覚えていた。
しかし、それでも、正直に言ってショックだった。
この二年間でどれほどの人間が苦しみ、死んでいったかを知っているからだ。
寧子自身、幾度も痛みと恐怖を味わった。
そのすべてが、ただの舞台装置であったということも知らずに。
寧子たちは気付かない間に拉致され、ずっと檻の中で弄ばれていたのだ。
無論、燦たちの方が嘘をついている可能性はある。
燦たちは実は覚醒者であり、寧子を騙しているだけの可能性だ。
(けど、わたしをだますメリットはない)
残念ながら寧子は自分にそこまでの価値はないと思っていた。
それに、天真爛漫な燦にそんな演技が出来るようにも見えなかった。
この屋敷にいる人は皆優しい。
会う人たちすべてが寧子を気遣ってくれる。
直感が告げている、彼らの優しさに嘘なんてない。
過酷な二年間を過ごしたからこそ、寧子の直感は磨かれていた。
寧子は大きく息を吐いた。
(とにかく今は魂力の感覚をつかまないと)
集中する。
そしてぴょん、ぴょんっと再び繰り返していたその時、
――トンッ!
(―――え?)
いきなり勢いよく体が跳ねた。
ギョッとする。軽く跳んだつもりが三メートル近くまで浮かんだのだ。
どうやら偶然にも魂力を使う感覚が肉体と一致したようだ。
しかし、
「あ……」
空中でバランスを崩す。逆さになって地面が下に見えた。
寧子は一気に青ざめた。この高さで頭から落ちればどうなるか。
最悪の結果を思い浮かべる。
だが、空中ではどうすることも出来ない。魂力で肉体の強度を上げるような真似は当然ながらまだ寧子には出来なかった。
「……やっ」
ただギュッと強く目を瞑る。落下の感覚だけがあった。
――と。
トスンっと。
いきなり抱き止められた。
両脇に腕を差し込まれて、正面から受け止められた形だ。
「……え?」
寧子が目を開けると、そこには庭園が見えた。
密着しすぎて相手の顔が見えなかったのだ。
「え? え?」
寧子が動揺していると、ぽんと後頭部を叩かれた。
「寧子」
少し厳しい声色で名前を呼ばれる。
「感心はせんぞ。未熟な時に一人で修練をすることは」
それは男性の声だった。
『だが驚いたな』
別の声もする。それは宙に浮かぶ骨翼を持つ半透明の猿の声だった。
『よもやこうも早く魂力の感覚を掴むとは。やはり才がある』
寧子はその猿を見やりつつ、
(……あ)
不意に顔が赤らんだ。
自分を抱き止めてくれた男性が誰なのか気付いたからだ。
それは寧子の恩人。久遠真刃だった。
「う、あっ!」
動揺して思わず体を動かすと、
「暴れるな、寧子」
真刃にそう言われた。
それから真刃は落ち着かせるように、ポンポンと寧子の頭を叩き、
「落ち着け。落下の恐怖はあるだろう。今ゆっくりと降ろす」
「は、はい」寧子は小さく頷いた。
真刃は宣言通りゆっくりと膝を曲げて、両足から寧子を地に下ろした。
寧子は顔を上げて真刃を見やる。
精悍な面持ちの彼は、今はどこかホッとした顔を見せていた。
「とりあえず、間に合ってよかったぞ」
和装の屋敷にいた彼は今、靴を履いていなかった。
恐らく渡り廊下を歩いていたところ、落下する寧子を見つけて駆けつけてくれたのだ。
足が汚れるのも構わず、二万人の引導師を率いるという天雅楼の主人がだ。
「怪我はないか? 寧子」
彼が寧子の頭の上に、ポンと手を置いた。
寧子は、こくんと頷きつつ、
「……………」
視線を逸らして、耳まで真っ赤になった。
不意に、今の自分の立場を思い出したのだ。
美味しいご飯と引き換えに受け入れた立場である。
すなわち、将来的に自分も彼の妃になるという話だった。
(わ、わたしは……)
寧子も十六歳の少女だ。
それを考えると、どうしても鼓動が高鳴る。そもそも男の人は怖いのだ。
けれど、このお兄さんにはこうして何度も命を助けてもらい、この屋敷に来てからも優しくしてもらっていた。正直に言えば、このお兄さんのことは嫌いではなかった。
(……わたしは、準妃……)
耳が赤くなる。
一方、真刃は、寧子にそんな話が進められていることはまだ知らない。それも日々、直感と直球で生きているような燦が暗躍した結果であるとは夢にも思わなかった。
「修練するなとは言わんが、今後は必ず傍に誰かについてもらえ」
ただただ優しい声でそう告げた。
寧子は内心で動揺しつつも、こくんと頷いた。真刃も満足そうに頷き、
「さて。実はお前に話があって会いにきたのだが」
「……わたしに?」
真刃の言葉に、少し冷静になって寧子は顔を上げた。
それに対し、真刃は「ああ」と頷き、
「話がある。実はお前の祖父についての話だ」
そう告げるのであった。




