第9話
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「失礼いたします、侯爵様。お時間をいただき感謝いたしますわ」
侯爵家の執務室に現れた十四歳のエレノアは、相変わらず完璧な淑女の礼をして見せた。
向かいの椅子に座るよう促しながら、現侯爵は内心で小さく溜息をついていた。面会の理由は分かっている。
我が愚息、ルシアンの社交界での放蕩ぶりについてだろう。
ルシアンの「女性には等しく優しくあれ」という態度は、婚約者に対する不義であり、父親としても度し難いと考えていた。
だからこそ侯爵は、目の前の少女が、婚約者に構ってもらえない寂しさや、プライドを傷つけられたことへの嫉妬を、涙ながらに訴えにきたのだとばかり身構えていた。もちろん全て聞いた上で息子には再教育を施すつもりである。
「単刀直入に申し上げますわ、侯爵様。……二年の猶予をいただきたいのです」
しかし、小娘の口から飛び出したのは、すすり泣きでもルシアンへの不満でもなく、あまりにも場違いな言葉だった。エレノアは丁寧な手つきで、一冊の分厚い書類を侯爵の目の前へと滑らせる。
「……これは何だ?」
「我が伯爵家が…というかわたくしが主導する、衣料および装飾品全般にわたる事業計画書、および直近の収支報告書ですわ。ご覧の通り、現在、我が商会の利益率は前月比24%の成長を維持しておりますの」
侯爵は眉をひそめながら頁をめくった。……そして、その手がぴたりと止まる。
そこに並んでいたのは、子供の商売ごっこなどでは断じてない、原材料の独占から王都の流行支配にいたるまでの、恐ろしいほど緻密に計算された「数字の羅列」だった。
「我が伯爵家は財政難により、貴家からの多大な資金援助を必要としておりました。ルシアン様が三男であるため、我が家へ婿入りしていただく形をとったのも、その利害関係によるものと把握しております」
エレノアは淡々と、感情の挟む余地のない事実を並べていく。彼女の脳内には、恋や愛といった数字で測れない不確かな概念は存在しないかのようだった。
「ですが、この事業の利益が規定水準に達すれば、我が家は侯爵家の援助なしでも十分に自立できますわ。ルシアン様はあの通りですし、婿入り先に困ることはないかと思います。……ですから、二年後の決算で目標数値を達成できていた場合、私とルシアン様の婚約を、違約金なしで解消していただきたいのです」
「……婚約の、解消だと?」
侯爵は言葉を失い、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
あまりにも冷徹で、完璧な書類。ルシアンの不義理な態度に、ついにこの聡明な少女の愛想が完全に尽き果てたのだ、と侯爵は直感した。家の自立という後ろ盾を得て、不誠実な婚約者を冷酷に切り捨てにきたのだ、と。
だが、この逸材をルシアンの馬鹿げた不手際で失うわけにはいかない。
侯爵は探るように目を細め、声音を落とした。
「エレノア嬢。お前が信じがたい才覚で、伯爵家を立て直しつつあることは認めよう。……だが、何故だ? 何故、家が自立した途端に、そこまでしてルシアンとの婚姻を白紙に戻したい? あやつの社交界での振る舞いが、それほどお前を不快にさせたのか?」
「いいえ。……滅相もございませんわ」
エレノアは静かに、しかしきっぱりと否定した。
「では、ルシアンのことを、お前はどう思っているのだ」
愛想を尽かしたのか。それとも――。
侯爵の問いかけに、エレノアは考える間さえ置かず、即座に答えた。
「――お慕いしておりますわ」
その瞬間、エレノアは堂々と背筋を伸ばし、菫色の瞳で侯爵を真っ直ぐに見据えていた。そこに一切の迷いや取り繕いはなく、あまりにも純粋で、誇り高い愛の告白だった。
「ルシアン様は、私の数字を一度も笑わなかった、世界で唯一の、かけがえのないお方ですもの」
予期せぬ言葉に、侯爵は息を呑んだ。愛想を尽かしたどころか、彼女の胸には深く激しい情愛が燃えている。
けれど、その毅然とした美しさは、次の瞬間にふわりと儚く霧散した。
エレノアは少しだけ視線を落とし、長い睫毛の影を落としながら、諦念の滲むような細い声で言葉を紡ぎ始める。
「……ですが、お慕いしているからこそ、政略ではなくなるべきなのですわ」
その声の劇的なグラデーションに、侯爵の胸がかすかに締め付けられた。先ほどまでの堂々とした大商会主の仮面の下から、一人の傷ついた少女の情緒が、痛々しいほどに覗いていた。
「婚約を結んだあの日、ルシアン様は『初めて会ったばかりの君と、いきなり結婚の約束を結ばされるなんて嫌だ』と仰いました。彼は、義務や政略で縛られることを誰よりも嫌うお方です。……伯爵家の財政さえ解決すれば、彼がこれ以上、望まぬ政略に縛られる理由は無くなりますわ。ルシアン様は、もっと自由な世界で、本当に心から愛する女性と結ばれるべきなのです」
だから、私は彼を自由にするために稼ぐのだ、と。
エレノアはそう言って、寂しげに微笑んだ。
侯爵は深く深く、椅子の背もたれに体を預けた。
凄まじい衝撃だった。わずか十四歳の少女が成し遂げたとんでもない商売の大成功に、心の底から感心すると同時に
――この娘は、あまりにも得難い。
我が侯爵家としても、絶対に逃してはならない大損失に値する逸材だと、政治家としての冷徹な計算が脳内で叫んでいた。
しかしそれ以上に、侯爵の心を激しく揺さぶったのは、彼女の「不条理なまでの献身」だった。
何も知らなかったはずの少女が、血の滲むような努力でビジネスの怪物へと化けた。そのすべての原動力が、「ルシアンを政略から解放してあげたい」という、あまりにも一途な愛の一点のみだという事実。
(……この少女の覚悟と献身は、誰よりも、何よりも尊重されなければならん)
そして侯爵は、自分の愚かな息子の顔を思い浮かべ、猛烈な怒りを覚えた。
この最高に健気で優秀な婚約者が、自分のために裏でどれほどの茨の道を歩んでいるかも知らず、呑気に社交界で他の女に笑顔を振りまいているとは、なんと度し難い阿呆か。
「……分かった。エレノア嬢、お前の提示した条件を飲もう」
侯爵はしばらく考えた後、不敵な笑みを浮かべて条件を提示した。
「ただし、こちらも条件を課す。三ヶ月に一回、私に商会の収支報告と来期の計画を報告する機会を設けること。そこで伯爵領の財政回復に見合う水準かどうか、私が厳しく検分し、婚約解消の条件金額の見直しを行う。期間は、お前の言う通り二年後だ」
「……! ありがとうございます、侯爵様」
「無論、私としては、君との縁を切る事は侯爵家として看過できる問題では無い。うちの愚息にはもったいない、あまりにも得難い逸材だ。ただこの契約に私のそうした意向は一切持ち込まない事も契約書にしたためよう。……つまり、故意に条件金額を水増しさせたり、財政回復の水準を偽ったりすることは絶対にしないと誓おう」
「……もったいないお言葉でございます。本日はこちらで辞させて頂きます。ありがとうございました」
エレノアは深く頭を下げ、次回の面談の約束を取り付けると、満足そうに侯爵家を後にした。
パタン、と扉が閉まり、一人残された侯爵は、愉悦に満ちた声を漏らした。
「……手助けなど、死んでもしてやるものか」
この契約のことは、絶対にルシアンには話さない。そして、ルシアンを助けるような真似もしない。
あの一途な少女の計算通りに、二年後、完璧な婚約解消の日を迎えるがいい。その時、ルシアンがどれほどの絶望の淵に叩き落とされ、自分が失ったものの巨大さに気づいてのたうち回るか、今から楽しみで仕方がなかった。
「せいぜい必死に足掻くがいい、ルシアン。……お前がその手で彼女を掴み取れなければ、我が侯爵家は、お前を廃した上でエレノア嬢を縁者に迎えるからな」
何がなんでもエレノアの気に入る男を紹介しよう。そうすればルシアンの行った不義に少しは報いることができるだろう。
息子の自業自得な未来に冷酷なエールを送りながら、侯爵はエレノアの残していった完璧な事業計画書を、愛おしそうに引き出しの奥へと仕舞うのだった。
こうして侯爵とエレノアの3ヶ月に1度の面談がスタートしたのだった。
16歳になってもやはりエレノアはルシアンに対する献身は変わらなかった。そしてルシアンもますます放蕩ぶりに拍車がかかるばかり。
そんな日常の中で本当に僅かに2人の関係がただの婚約者から違う名のものに変わりつつあるのだが、それは侯爵には知りえないほんの僅かな変化なのだった。
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