第7話
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八歳のエレノアは、周囲の子供たちに比べて随分と精神年齢のませた少女だった。
幼い頃から、大人たちが自分をどう評価しているかを冷徹に観察していた。大人たちがエレノアを褒めるとき、決まって口にする言葉がある。
『まあ、なんて聞き分けの良いお嬢様でしょう』
『エレノア嬢は本当にしっかりしていらっしゃる。手がかかりませんね』
つまり彼女にとって、世界は至極単純なルールで動いていた。
「良い子であること」とは、すなわち「大人が求める正しい選択肢を選び、正しく振る舞うこと」。
教育の一環で計算の学習を行ったのは齢4歳。
エレノアはこれだと思った。
数字というのは明確に答えをこちらにくれる。
そして、数字の計算と同じように、規律に従って正解を出し続けていれば、だいたいのことは上手くいくのだと、幼いエレノアは信じて疑わなかった。
だからこそ、十歳のルシアンとの政略結婚が決まった日の夜も、エレノアはいつも通り「正しい良い子」を演じた。
広間では、両家の大人たちが盛大に酒杯を交わして婚約を喜んでいる。
『今日からあなたは、ルシアン様の婚約者ですよ』
母親にそう言い聞かされ、八歳のエレノアは「婚約」というものの本質をよく理解せぬまま、完璧な淑女の礼をして見せた。
『はい、お母様。ルシアン様の婚約者として、恥じぬようお仕えいたしますわ』
『さすがエレノアね。本当に誇らしい娘だわ』
大人たちは満足そうに目を細める。これもまた、エレノアが導き出した「100点満点の正解」のはずだった。
けれど、大人の輪から少し離れたテラスの隅で、当事者であるルシアンだけが、不思議そうな顔でエレノアを見つめていた。
「……ねえ、エレノア。君、本当に嫌じゃないの?」
突然の問いかけに、エレノアは小さな眉をひそめた。
「嫌、とは何のことでしょう。ルシアン様。我が伯爵家と侯爵家との婚姻には、我が領の財政基盤を安定させるための経済的かつ政略的な繋がりが期待されており、かつ社交界における――」
「違うよ、そういう難しい話じゃなくてさ」
ルシアンは呆れたように笑いながら、当たり前のように言った。
「嫌なら、嫌って言っていいんじゃない?」
「え……?」
「僕は十歳だから、君よりは早い段階で貴族の教育を受けてる。そんな僕だって、今日初めて会ったばかりの君と、いきなり結婚の約束を結ばされるなんて、本当はすごく嫌だよ」
エレノアは息を呑んだ。目の前の少年が言っていることは、貴族の義務としても、大人の前での振る舞いとしても、完全に「不条理な不正解」だった。
けれどその瞬間、エレノアは初めて気がついた。自分は「嫌だ」と言ってはいけないのだと、自分の感情に鍵をかけ、最初から計算式の外に放り出していたのだということに。
大人たちの顔色。家の利益。模範解答。
それらをすべて無視したルシアンの真っ直ぐな瞳に見つめられ、エレノアの小さな唇から、計算にない本音がぽろりと零れ落ちてしまう。
「……では、ほんの少しだけ、嫌ですわ」
「うん。それでいいんだよ」
ルシアンはにっこりと、眩しいほどの笑顔を浮かべた。
「僕だって、もっと君のことをたくさん知って、仲良くなってさ。この婚約を心の底から喜べるようになってから、本当は婚約を結びたかったな。だから、これから仲良くなろうよ」
――正解を答えなくても、この人はがっかりしない。
エレノアにとって、それは人生で初めての奇妙な経験だった。
「ルシアン様は……とても、お優しい方なのですね」
すとんと胸に落ちた感心を口にすると、ルシアンは「何言ってるんだい」と照れくさそうに首を傾げた。
「女の子には優しくするもんだろ? それが男の嗜みだって、お父様にも教えられたしね」
ルシアンは誰にでも、どんな女の子に対しても同じように優しい少年だった。だから、エレノアはここで雷に打たれたように恋に落ちたわけではない。ただ、彼のその不条理なまでの真っ直ぐさが心地よくて、「この人のことは好きだな」という、最初の小さな感情が芽生えただけだった。
◇
そんな小さな感情が、絶対に揺るがない「恋」へと変わったのは、それから数ヶ月後に開かれた、子供たちだけのお茶会でのことだった。
華やかに着飾った貴族の子供たちが賑やかにお喋りを楽しむ中、八歳のエレノアは、テーブルの上に並んだ焼き菓子の皿をじっと見つめ、真剣な顔で指を折っていた。
「……こちらは三種類。一人一個ずつ分けるとなれば……」
周囲の子供たちは、お茶会の席でまで何やらぶつぶつと数を数えているエレノアの姿に、ついていけないといった様子で引いていた。中には、「エレノア嬢は相変わらず、変なところばかり気にするのね」と、呆れたようにクスクスと笑う子供もいた。
エレノアは恥ずかしさに顔を伏せかけた。やはり、自分の「数字好き」という性質は、社交界においては「正解」ではないのだと、胸がちくりと痛む。
だが、その輪を割って、ルシアンがひょっこりと顔を出した。
「ねえ、エレノア。それ、何個あるの?」
「え……? あ、ええと、三種類のお菓子が、それぞれ六個ずつで、全部で十八個ですわ」
「へえ! じゃあ、俺とエレノアで三個ずつ食べても、まだ十二個余るな」
「……ですがルシアン様、ここには私たちを含めて十五人の子供がいますわ」
「あ、そっか。じゃあ、ひとり一個ずつ食べても、三個余るのか」
「そうですわ」
ルシアンは、他の子供たちのように、エレノアの数字ばかり気にするところを「変だ」と笑わなかった。それどころか、「エレノアは数を正しく見てるんだな。すごいよ」と、ごく普通のことのように受け入れたのだ。
大人の前で良い子を演じられず本音を漏らしてしまっても、笑って受け入れてくれた。
みんなに変だと言われる自分の数字愛を、当然のように肯定してくれた。
エレノアにとってルシアンは、世界で唯一、「私が何をしても、完璧な正解を求めてこない人」になった。
数字に従えば、だいたいのことは上手くいく。
けれど、ルシアンという少年を前にしたときだけは、エレノアの脳内の完璧な計算式は、何一つ役に立たなくなってしまう。どうして彼の前だとこんなに胸が温かくなるのか、どうして彼を目で追ってしまうのか。
――この、数字では絶対に説明できない「ルシアンへの好意」こそが、二人のすべての原点だった。
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