第5話
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暖炉の上で時を刻む優美な置き時計を、エレノアはそっと仰ぎ見た。
「あ……もう、こんな時間なのですね。ルシアン様、大変申し訳ありません。本日はこの辺りでお開きにしてもよろしいでしょうか?」
エレノアは手元の書類を綺麗に整えながら、やんわりと、けれど名残惜しそうに解散を促した。
「え? もう終わり? まだ来たばかりじゃないか」
「はい。実はこれより、我が商会が直営する王都のブティックへ、定期の見回り(巡回)に赴く予定になっておりますの。職人たちとの約束の時間が近づいておりますので……」
すまなそうに菫色の目を伏せるエレノアを見て、ルシアンは「それなら」と明るい声を上げた。
「へえ、ブティック? それなら俺もついて行っていいかい?」
「……ルシアン様が、ですか?」
「うん。邪魔はしないよ。婚約者の店がどんなものか、この目で見てみたいんだ」
エレノアは少しだけ驚いたように瞬きを繰り返したが、ルシアンの真っ直ぐな瞳に根負けしたように、「……あまり面白い場所ではないかと思いますが、どうぞ」と、静かに同行を許してくれた。
◇
馬車に揺られて到着した王都の一等地。そこに佇むエレノアのブティックは、ルシアンがよく知る既存の仕立屋とは明らかに一線を画していた。
店内へ一歩足を踏み入れると、すっきりとして無駄がないにもかかわらず、圧倒的な高級感と気品が漂っている。そして何よりルシアンを驚かせたのは、あちこちに飾られた、木と布地で精巧に人間の立ち姿を模した『人形』だった。
「……エレノア、あれは何? 服が立体的に飾られているけど」
「あれはマニカン(マネキン)と呼んでいる展示用具ですわ。従来の平置きやトルソーとは異なり、より人間が実際に身に纏ったときのシルエットを再現できますの。お客様が着用時のイメージを直感で捉えやすいよう、実験的に導入してみましたの」
斬新な展示方法に感心しながら店内を進むと、奥から仕立てを統括する落ち着いた妙齢のマダムが、穏やかな微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
ルシアンは店内に並ぶ上質な紳士服を何気なく見て回るうちに、ふと奇妙なことに気がついた。ここに並んでいる服は、自分が普段エレノアから貰って着ているものとは、肩のラインや細部のデザインが明らかに異なっている。
「ねえ、エレノア。ここに並んでいるジャケット、俺が今着ているものと少し形が違わないかい?いや、すごく似てるんだけど、何となく俺とこのマネキン?が着てるのを並べるとなんか違和感が…」
「当然ですわ。そちらは王都の標準的な体型に合わせて作った物ですもの。だけどルシアン様は、同年代の平均的な男性よりも少し肩幅が広くていらっしゃいますし、胸板もしっかりされていますでしょう?」
エレノアはマネキンの着用しているジャケットに白い指先をなぞらせながら続ける。
「布も糸も同じものを使っているのですが、ルシアン様にはルシアン様にだけ合うものを作ったつもりです。体格やその体格が活かせる装飾、刺繍、布の色など…どうですか?ピッタリでしょう?」
エレノアは当たり前のように、だが少し誇らしげにルシアンの体の特徴を言い放った。
「すごいね……全部その通りだよ。なんでそんなことまで分かるの?」
「婚約者ですもの。当然の把握項目ですわ」
微笑みながら事も無げに言ってのけるエレノアの横顔を見て、ルシアンは胸の奥がじんわりと温かくなるような、嬉しい気持ちになった。これほど自分のことを深く見つめ、理解してくれている存在が他にいるだろうか。
――しかし、その直後。ルシアンの胸に、ちくりとした小さな、妙なモヤつきが生まれた。
(俺は……エレノアのことを、こんな風に言葉にできるだろうか)
彼女がどんなデザインを好み、どんな仕立てを望んでいるのか。自分は彼女の情報を何一つ知らない。婚約者としていつも隣にいたはずなのに、自分はエレノアのことを何も分かっていないのではないかという、妙に焦るような、もどかしい感情だった。
ルシアンは店内に展示されている、色彩豊かな二着の令嬢用ドレスの前で足を止めた。一着は華やかなフリルが何層にも重なったもの、もう一着は無駄な装飾を削ぎ落とした、生地の質の良さが際立つ気品あるもの。
「……ねえ、エレノア。たとえばこの二つのドレス、君がどちらを好むかは、俺でも何となく分かるんだ。きっと、そのすっきりした方だろ?」
「ええ、左側のデザインの方が、生地の質感が際立って洗練されて見えますわ」
「当たった。でもね……」
ルシアンは一歩、エレノアの方へ向き直った。その蜂蜜色の瞳には、いつもの気楽な笑顔ではなく、どこか真剣な色が混ざっている。
「君が本当に欲しがるような、心から喜ぶようなデザインや色を、一から俺の頭だけで考えるのは、今の俺にはまだ難しいんだ。……だから、教えて欲しい」
「……はい?」
「君の『好き』が全部詰まったドレスを、俺に作らせてくれないか。もちろん、お代は出す。エレノアに、俺からのドレスを贈りたいんだ」
エレノアは一瞬、言葉を失ったように細い唇を微かに震わせた。しかし、すぐに我に返ったように静かに首を横に振る。
「ルシアン様、お気持ちだけで十分ですわ。近々、あなたと同行する予定の夜会スケジュールはございませんし……必要のない衣服を仕立てるのは、少し不合理ですわ」
「それなら、そのドレスが完成した日に、俺と一緒に夜会へ行こう。エレノアが行ってくれるなら、俺はどこにだって喜んでお供するよ」
ルシアンは楽しそうに、弾んだ勢いのまま言葉を重ねていく。
「せっかくだから、そのドレスに合わせる宝飾品も一式、俺に選ばせてよ。2階に応接スペースがあるんだよね? マダム、案内してもらえるかい?」
「お任せくださいませ、ルシアン様。2階のサロンへ、お嬢様にぴったりの極上の宝石をご用意させましょう」
控えていたマダムが、二人の様子をたまらなく微笑ましそうに見つめながら、流れるような動作で階段へと案内する。
完全にルシアンの楽しそうな勢いに巻き込まれたエレノアは、困ったように眉をひそめながらも、諦めたように小さく息をこぼした。
「……本当に、予測のつかないお方ですわ」
そう言って渋々と歩き出すエレノアだったけれど。
ルシアンの後ろをついていく彼女の白い頬は、先ほどよりもずっと深く、隠しきれない鮮やかな歓びの色に染まっていた。そんな彼女の、いつになく愛らしい表情に、ルシアンは気づかないまま、ただ彼女を喜ばせたいという一新で、楽しそうに階段を上っていくのだった。
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