第3話
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
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ルシアンの乗った馬車が伯爵家の門を出るのを見届けると、エレノアはいつもの完璧な淑女の微笑みを静かに収めた。
無駄のない優雅な足取りで自室の執務室へと戻り、机に向かう。そこには、数冊の分厚い帳簿と、王都の最新の売上レポートが整然と並んでいた。
エレノアはペンを執り、ページを開く。先ほどのお茶会でルシアンが言った『俺は、そうやって真剣な君を見てるの、結構好きだよ』という言葉を思い出す。
「……不条理ですわ」
トントン、とペン先で机を叩く。お茶会の最中、自分の心拍数が一時的に前週の平均値より二二%も上昇した。感情などという不確かなものにリソースを割くのは不合理極まりない。エレノアは自身の動揺を無理やり数字として処理すると、冷徹な経営者の顔で売上レポートに目を落とした。
紙面に並ぶ数字は、実に美しい右肩上がりのグラフを描いている。
直近で市場に投入した「最高級トパーズのカフスボタン」および「髪用のハーブ香油」の売上は、狙い通り社交界で爆発的な数字を叩き出していた。
「他領の商会は、王都の新聞や雑誌に莫大な広告費を支払って宣伝しているというのに。我が商会は、たった一人の男性に試供品を渡すだけで、トレンドを完全に支配できる。これほど投資対効果の高い媒体はありませんわ」
エレノアの頭脳にある『ルシアン・プロモーション予測モデル』は完璧だった。
ルシアンは致命的なまでにお人好しで、女性からの誘いを絶対に断らない。結果として、彼が社交界の華やかな中心地で、1日に特定の女性と有効な接触を持つ回数は平均12.4回にのぼる。彼の容姿、声、そして誰に対しても境界線なく微笑みかける行動特性は、社交界において最強の『移動式広告塔』だった。
トパーズのカフスボタンを贈ったのも、すべては緻密な計算の上だ。
ルシアンの美しいブロンドと同じ色の石を、あえて少し胸元の開いたシャツの袖口に配置する。
対面した女性は、まず彼の美しい髪に目を奪われ、その視線は自然と少しだけ開いた胸元へいき、彼が身振り手振りを交えて話す「袖口の宝石」へと誘導される。
精巧なカットを量産できる職人はそう多くない。だからこその希少価値をつけることができ、特別な相手へ特別な贈り物として受注が殺到するだろう。
例えば相手の色の石を使う、裏に家紋の意匠を掘る、などひとつの取っ掛りから無限のオーダーメイドへと進化させられるのだ。
香油の仕掛けはさらに巧妙だった。
ルシアンが女性と親密に会話する際、少し腰を屈めて相手のパーソナルスペースに踏み込む癖(確率88%)から逆算し、半径50センチメートル以内に最も効果的に広がる香りの濃度を調合した。
『ほら、触ってみて?』と、ルシアンが自発的に頭を差し出す確率が高くなるような、指通りの滑らかさも完璧に調整してある。
ルシアンにはルシアンの好みに合わせたものを調合してわたしているが、これもその土地に生きる人や、様々な好み、特性に合わせたものを売り出している。
乾燥の酷い地域の方へは重ための保湿力のあるオイルで調整し、爽やかな香りを好む人にはハーブをベースとした香料を用いている。
――けれど。
この完璧なマーケティングが成立しているのは、エレノアがルシアンという男を、誰よりも深く、恐ろしいほどに理解しているからだった。
ルシアンが強すぎる香料で頭痛を起こしやすいこと。
甘ったるい匂いの中では、彼の美しい蜂蜜色の瞳がわずかに曇ること。
髪につけるものがベタつくと、彼が落ち着かなそうに何度も前髪を弄ること。
それらはすべて、幼い頃から彼をずっと見つめ続けてきたエレノアだからこそ集められた、世界で唯一の『ルシアンに関する絶対的データ』だった。彼に似合うもの、彼が心地よく使えるものをベースにしているからこそ、ルシアンはエレノアから渡されたものを「何となく、当たり前」に身につけてくれるのだ。
エレノアは、机の端に置かれた小さな茶葉の箱へ視線を移した。
ルシアンが、彼女の好みを思い出して、わざわざ自分で選んで買ってきてくれたお土産。
「……これだけのイレギュラーを起こすのですから、やはり油断のならないお方ですわ」
予測モデルにはない彼の自発的な優しさに、またしても胸の奥が不規則な数値を刻み始める。エレノアはそっと両手で自分の頬を包んだ。ルシアンには「義務」だと言い張ったけれど、本当は、彼が自分の商会に興味を持ってくれたことが、数字にはできないほど嬉しかった。
ふぅ、と小さく息を吐き出し、エレノアは次の企画書を引っ張り出す。
「さて……次は、ルシアン様にどんなものを与えましょうかしら」
これからは本格的に高級衣料、そして仕立ての仕上がったドレスのプロモーションへと移行する。
ならば、ルシアン様にはあの見事な体躯が映える、我が領の特産綿をふんだんに使った極上の仕立てのジャケットをデザインしなければ。
「ルシアン様は肩幅が広くていらっしゃるから、ここのカッティングは少し余裕を持たせて……。彼の瞳の色を引き立てるなら、濃紺の生地に、ボタンはあえて小振りの銀を……」
気がつけば、帳簿の余白は、ルシアンの体型のサイズや、彼に似合うデザインのメモで埋め尽くされていく。
ビジネスのため。これはすべて、商会を軌道に乗せるための合理的な計算。
エレノアは心の中で自分にそう言い訳を繰り返しながら、初恋の婚約者のことばかりを考える、健気で不器用なペンを走らせ続けるのだった。
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