第20話
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
運命のカレンダーがゼロを刻んだその日。
ヴァレンタイン侯爵家の重厚かつ上品な応接間には、張り詰めた沈黙が満ちていた。
マホガニーの長テーブルを挟んで、両家の当主であるヴァレンタイン侯爵とアシュフォード伯爵、そしてエレノアとルシアンが向かい合って座っている。
厳格な面持ちをした侯爵の低い声が、言葉を紡いでいた。
「……ということで、エレノア嬢と私の個人的な契約上では、今季の決算で十分条件を満たしたことになる。アシュフォード商会の利益、および領地の財政基盤の安定。どれをとっても申し分ない。よって、この婚約が解消されても、我が家にとってもそちらにとっても、なんら不都合は生まれない。……書類の用意はできている」
差し出された羊皮紙には、完璧な破棄の条件が並んでいた。エレノアが血の滲むような努力で積み上げてきた、規律通りの「100点満点の正解」がそこにあった。
「……はぁ」
アシュフォード伯爵が、痛ましそうに、けれど娘の意志を確かめるように深く溜息をついた。
「エレノア、本当にこれでいいのかい?」
エレノアが唇を開きかけた、その瞬間だった。
「お待ちください」
ルシアンがその言葉を遮るように、凛とした声で当主たちに告げた。
「少し、エレノアと二人だけで話す時間が欲しいです」
「ルシアン、しかしこれは大人の決定で――」
「俺は、この婚約解消を望みません」
ルシアンは父親の言葉を真っ直ぐな瞳で跳ね除け、毅然と言い放った。
「家のためでも、体面のためでもない。俺自身の意志で、一人の男として、彼女を真に愛しているからです」
なんの臆面もなく、魂を削り出すように放たれたその言葉に、エレノアは弾かれたように顔を上げてルシアンを見た。
その熱量に圧倒されたように、侯爵と伯爵は顔を見合わせ、やがて何も言わずに静かに部屋を後にした。
重い扉が閉まり、完全な二人きりの空間が訪れる。
ルシアンは向かい合ったソファから立ち上がると、エレノアの目の前へと歩みを進め、その場に静かに跪いた。
蜂蜜色の瞳が、見上げるようにして彼女の菫色の瞳をじっと射抜く。
「もう一度言うよ、エレノア。俺は君と結婚したい。伯爵家のためでも、侯爵家のためでもない。……君が好きだからだ」
いつもなら、すぐに「淑女としての模範解答」を返すはずのエレノアだった。しかし、彼女は答えられなかった。長い、長い沈黙が部屋を支配する。窓から差し込む夕日が、彼女の白い横顔を赤く染めていた。
やがて、エレノアは震える呼気と共に、静かにつぶやいた。
「計算できなくて……」
すぐに続きの言葉が出てこない。
常にロジカルで、すべての文章を言い切りの形で理路整然と構築してきたエレノアには、決して見られない反応だった。
頭脳が、感情が、完全に飽和してしまっている。
ルシアンは急かすこともなく、跪いたまま、じっと彼女の次の言葉を待った。
ぽつり、とエレノアの目から大粒の涙が零れ落ちる。完璧な淑女の仮面が、音を立てて崩れていく。
ルシアンはポケットから、かつてエレノアに貰った仕立ての良いハンカチを取り出すと、彼女の頬を伝う熱い雫をそっと、壊れ物を労るように拭った。
そして、ただ優しく次の言葉を待つ。
エレノアは細い唇を激しく震わせながら、途切れ途切れに話し始めた。
「わた、私は……計算が好きで……。だって計算はいつでも、私を正しい選択に導くから……。数字に従っていれば、間違えることなんてないから……っ」
「うん」
ルシアンは痛ましそうにエレノアを見上げ、また溢れた涙を拭いながら、先を促す。
「家のために商会を作って、数字を見て……それが正解だとわかったんです。損得を計算したら、侯爵様も納得された。婚約を破棄するべき必要性も、すべて合理的に計算しました……。なのに……っ」
エレノアは胸をきつく押さえ、嗚咽を堪えるように身を縋らせた。
「あなたと別れた場合の利益と……、……ルシアン様と結婚した場合の利益を、どれだけ計算しても……答えが、出ないのです。あなたが変わらずに私へ注いできたあの温かい感情が、私の計算式に、どうしても入らないから……っ!」
その瞬間、ルシアンはソファの上の彼女の隣へと腰掛け、その華奢な身体をそっと力強く抱きしめた。
「それって、どんな感情なの? エレノア、隠さないで、俺にちゃんと教えて」
耳元で、優しく髪を撫でながら囁く。その心地よい体温が、エレノアの心の奥の蓋を完全に消し飛ばした。
エレノアは何度も嗚咽を繰り返し、激しく肩で息をしながら、ルシアンの胸に顔を埋めた。ルシアンはなおも、彼女自身の口から「答え」が出るのを待ち続ける。
「……私は、ルシアン様と一緒にいたいと思ってしまったのです……っ。あなたが商会に毎日のように来てくれるようになって……、私の落ち着いた冷たい日々が、……急にっ……幸せな毎日になったから……!」
ついに、堰を切ったように本音が溢れ出した。
「あなたと別れたくないという理由だけが、どうやっても、どんな数式を使っても、数字になりません……!」
その一言を聞いた瞬間、ルシアンは腕に力を込め、壊れんばかりにエレノアを抱きしめた。二人の間に、一片の隙間すら無くなるように、彼女の存在のすべてをその胸に抱きとめる。
「エレノア、君が好きだよ。心から愛してる。……君はどう? 君の目には、俺はどう映ってる?」
腕の中で、エレノアは少しだけ考えるように睫毛を揺らした。そして、涙に濡れた顔を上げ、今度は迷いのないはっきりとした声で告げた。
「私は、あなたが好きです。もうずっと長い間……八歳の時にあなたと婚約してから、私のこの気持ちは、一度だって変わっていません」
今度はルシアンが、一瞬だけ言葉を失う番だった。まさかそんなに前から想われていたなんて、彼の優秀な頭脳でも「計算外」だったのだ。
ルシアンは胸いっぱいの愛おしさに目を細め、にっこりと、あの眩しいほどの笑顔を浮かべた。
「嬉しい……俺、本当に嬉しいよ、エレノア。君はどう? 俺と同じ気持ちで、嬉しい?」
「同じ、気持ち……。そうですね。私も、とても嬉しいと思っていますわ」
ルシアンは彼女の涙の跡が残る頬にそっと手を添え、もう一度、一人の男としてまっすぐに求婚した。
「エレノア。家同士の約束なんて関係ない。嫌なら、嫌だって言っていいんだよ。俺は嫌だ。せっかくこうして君と仲良くなって、君の素晴らしいところをたくさん知って、心の底から結婚したいと思えたんだから」
十歳のあの日、テラスの隅で言われた言葉が、寸分違わぬ優しさを持ってエレノアの胸に蘇る。
エレノアは驚きに小さく目を見開いた後、ふっと、これまでに見せたことのないような、心からの柔らかな笑みを浮かべた。
「ルシアン様は……本当に、昔から変わらず、優しい方なのですね」
ルシアンは彼女の手をとり、その手のひらに優しく口づけを落とした。
「エレノア、選んで。誰の計算でもなく、君自身で、君の未来を望んでみて。だって幸せは君の正しい数字をもってしても計れないだろう?」
エレノアは、目の前の一切の数字で割り切れない愛おしいイレギュラーを見つめ、机の上の婚約解消書を静かに裏返した。
世界は規律に満ちている。
数字に従っていれば、概ね上手くいく。
けれど――。
「ええ、選びますわ、ルシアン様。……私は…………」
残り0日。
タイムリミットを迎えた二人の完璧な破棄の未来は、計算不能な、けれどあまりにも確かな情熱によって、完全に新しい「はじまりの数式」へと書き換えられたのだった。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回エピローグとなります。




