第19話
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
「……ちょっと焦っちゃったかな」
ガタゴトと夜の街を駆ける馬車の車内。ルシアンは窓枠に肘をかけ、流れる夜景を眺めながらぽつりともらした。
指先で唇をなぞると、つい先ほど、商会の執務室でエレノアを真っ直ぐに見つめて告げた言葉が、まだ熱を持って蘇ってくる。
『俺は、君と結婚したい。誰の都合でもなく、俺自身の意志で、君のことが心の底から好きだからだ』
あとに残されたのは、凍りついたような静寂と、見たこともないほど激しく戸惑うエレノアの瞳だけだった。結局、彼女から明確な返答を得られないまま商会の営業時間は終了し、俺たちはいつも通り別の馬車で帰路についた。
ルシアンは自嘲気味に息を吐き、きつく奥歯を噛み締めた。
正直に言えば、自惚れていたことは否めない。ここ数ヶ月の彼女の様子を思い返せば、自分の行動には確実に結果が伴っているという確信があった。不意に見せる愛らしい赤面も、仕事の合間に向けてくれる柔らかい微笑みも、二人で紡いできたあの新しい日常の幸福も、すべてが本物だった。
だから、あの冷酷なカウントダウンがゼロに近づけば、エレノアの方から折れて「婚約解消を撤回する」と言ってくれるのではないか――どこかでそんな甘い期待を抱いていたのだ。
けれど、現実は違った。
タイムリミットを目前にしてもなお、エレノアは頑なに「完璧な破棄の未来」の数式を握りしめたまま、その手を離そうとしない。傷つけるような真似は決してしないが、決して一線を越えさせてもくれない。
彼女のあの困惑に満ちた、今にも泣き出しそうな顔が脳裏に焼き付いて離れず、胸がじりじりと焼け付くように焦がれた。
(あの堅物で、生真面目で、誰よりも正しい俺の婚約者……。本当に、一筋縄ではいかないな)
【残り2日】
告白の翌日からも、ルシアン達は皮肉なほど「いつも通り」の日常を過ごした。
朝一番の書類整理、新事業の顧客リストの精査、夕暮れ時のお茶の時間。
エレノアは様々な感情に強固な蓋をして、いつもと変わらぬ完璧な商会主として振る舞おうとしていた。
ルシアンもまた、昨日の告白などなかったかのように、軽快に、けれど変わらぬ真摯さで彼女の仕事を支え続けた。
【残り1日】
期限の前日。
並んで座る執務室で、ルシアンはペンを動かすエレノアの横顔をじっと見つめていた。
明日はついに、彼女が設定した『残り0日』――約束の当日だ。
いまさら、どんな言葉で着飾っても意味はない。
エレノアの性格上、高価な宝飾品や甘い言葉で釣ることなんてできるわけもなく。そもそも、ルシアン自身そんな小細工で彼女の心を縛り付けたいわけではなかった。
ルシアンはこれまでの日々で、取れる手段はすべて使い、一人の男としての実績と情熱のすべてを彼女の前に並べてみせた。ルシアン・ヴァレンタインという人間が、どれほど本気で彼女を愛し、その未来を共に背負う覚悟があるか、カードはすべて配り終えている。
あとは、エレノア自身がその頭脳と心で考えて、答えを出すだけだ。
彼女の誠実さを、誰よりも信じているからこそ、ルシアンはこれ以上彼女の計算を邪魔するべきではない。
「ルシアン様? わたくしの顔に、何かついていますか?」
視線に気づいたエレノアが、わずかに眉をひそめてこちらを振り返る。
「いや? ただ、今日もエレノアは世界一綺麗だなと思ってさ」
「なっ……! またそういうことを……っ」
慌てて帳簿に視線を戻す彼女の耳が、真っ赤に染まる。
ーー愛おしい、俺の未来。
2人の新しい日常のすべてを懸けた最後の戦いが、静かに、けれど確実に幕を閉じようとしていた。
お読みいただきましてありがとうございました。
のこり2話となっております。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




