第18話
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
ルシアンの努力によってもたらされた、かつてないほど満ち足りた「新しい日常」。
エレノアはその温もりの中で、泣きたくなるほどの幸福を味わうと同時に、激しい戸惑いに翻弄され続けていた。
ルシアンが隠そうともしない真っ直ぐな好意。それを素直に喜んでしまっている自分。どれほど帳簿の数字を睨んでも、この胸を甘く焦がす感情の最適解だけは、どうしても弾き出すことができない。
それはエレノアにとって、生まれて初めて経験する「計算できない幸せ」という名の、あまりにも美しい迷宮だった。
【残り29日】
初めてルシアンがエレノアのために仕立て、贈ってくれたフルオーダーメイドのドレスが完成を迎えた。
それは、エレノアの瞳の菫色よりも少し淡い、瑞々しい藤色のシルクを贅沢に使ったドレスだった。
デコルテを美しく見せるスクエアネックの胸元から、ウエストにかけてはタイトに仕立てられ、彼女の華奢なラインを引き立てている。しかし何より目を引くのは、ルシアンが「これだけは頑として譲らない」と言い張って職人に仕込ませた、細密な金糸の刺繍だった。
上品な藤色の生地の上に、まるで夜空に広がる天の川か、あるいは咲き誇る藤の藤棚のように、流麗なアラベスク模様の金糸が踊っている。さらにスカートの裾や、バックスタイルのふんわりとしたボリュームを持たせたドレープ(布のたるみ・ひだ)の折り込みには、差し色として柔らかなゴールドのサテン生地が覗く仕様になっていた。
歩くたびに、淡い藤色のシルクが光を反射し、ルシアンのこだわりである金糸と差し色のゴールドがキラキラと上品に瞬く。
彼女の瞳の色を思わせる藤色にルシアンの髪色をこれでもかとあしらっている。
落ち着いた淑女であるエレノアの気品を壊さず、けれど「今日の主役は彼女だ」と社交界に知らしめるような、圧倒的な華やかさと仄暗い執着、そして情熱が込められた1着でもあった。
完成品のあまりの美しさにエレノアも言葉にならないくらいの嬉しさと喜びを感じたが、ルシアンはそんな情緒をどこかへ飛ばしてしまうほどの激烈な賛辞を、纏ったエレノアに送った。
身にまとって現れた白亜の玄関口で、馬車に乗り込むステップで、会場へ向かう馬車の中で、家名を呼ばれて会場へ足を踏み入れる直前まで、飽きることなく、それこそ穴が空くほどにエレノアだけを見つめた。その口からは優美に途切れることなくエレノアの美しさを褒める言葉が次々と飛び出してくる。
エレノアはいつもの冷静に数字を処理する仮面を保つ事が出来ずにいた。
でもそれもここまで。重厚なドアを開ければきっといつもの光景だ。ルシアンと自分よりももっと愛想のいい素敵な令嬢が並ぶ姿を今日も目にすることになる。
ーー思い出すだけで頬と心の温度は2、3度下がるのだから分かりやすいものだ。
エレノアは自身の明確な浮き沈みに軽く自嘲しながらフットマンが恭しく礼をしながら開ける扉を通り過ぎた。
これまでエレノアがルシアンと共に夜会に参加した数少ない記憶では、会場に入るや否や、絢爛たる令嬢たちがルシアンの周りに群がり、ダンスや次のデートの約束を競うように取り付けていたはず。
だと言うのに今日はおかしい。
華やかな広間を見渡しても、令嬢たちは遠巻きに二人の様子を窺うだけで、誰一人としてルシアンを連れ去ろうとはしない。それどころか、ルシアンの手によって完璧にエスコートされ、これまでになく大切に扱われているエレノアの姿を見て、感嘆と羨望の入り混じった視線を送っている。
ルシアンはエレノアの側を片時も離れようとせず、商売で関わりのある領主や、これから商会と契約を交わしたい貴族たちとの挨拶に、真摯かつ対等に対応していた。
その徹底した様子に、エレノアはそわそわと視線を彷徨わせ、ドレスの裾を小さく握る。
「ルシアン様?……あの、いつも通り、いえ、お好きに過ごしていただいてよろしいのですよ?」
「ん? そうなの?」
ルシアンは悪戯っぽく微笑むと、一瞬だけエレノアの傍を離れ、給仕のトレイから小さな料理をいくつか取って戻ってきた。
「俺、一回これをやってみたかったんだよね。エレノア、このピンチョス、スモークサーモンとハーブのクリームチーズだから絶対に君の好みだろう? ほら、口開けて」
ピックをつまんだまま、少し屈んでエレノアの目線に合わせて微笑んだままルシアンは言う。
意味が通じたエレノアはじわじわと汗ばむ顔を隠すことも出来ずに狼狽えた。
「そ、そういうことではありません……っ!」
耳まで真っ赤になったエレノアは、淑女の礼儀を盾に猛然と拒絶する。しかし、驚きと抗議のためにわずかに開いた唇の隙を、ルシアンは見逃さなかった。
「はい、あーん」
「ん……むぐっ!?」
絶妙なタイミングで、小振りのピンチョスがすんなりと口の中に放り込まれる。上品なハーブの香りと濃厚な旨味が口いっぱいに広がり、エレノアは目を白黒させることしかできない。
「ふふ、美味しい? 少しお腹が満たされる頃に、ちょうどダンスタイムが始まるだろ? 確か二曲目は、君の好きなワルツだった。一緒に楽しもうね」
極上の蜂蜜色の瞳でそんな甘い未来を告げられ、エレノアは否定も肯定もできぬまま、赤い顔で呆然と立ち尽くすしかなかった。その夜、アシュフォード伯爵邸のベッドに入ってからも、彼女は目覚めるまでずっと、甘く幸福な夢の続きを見ている心地だった。
【残り17日】
ルシアンは突然、エレノアをヴァレンタイン侯爵家の晩餐へと招待した。
その際、彼は「これを着て一緒に行こう」と、また新しいドレスをエレノアにプレゼントしたのだ。
それは、先日着た夜会用の華やかなものとはまた毛色の違う、これまた息を呑むほど上品な一着だった。
深みとツヤのあるネイビーのシルク生地は、光の角度によって真珠のような繊細な光沢を放ち、胸元と袖口には、アシュフォード領の特産である極細のレースが贅沢にあしらわれている。
過度な主張を抑えながらも、布地の圧倒的な質感と仕立ての美しさが、エレノアの高潔な美しさを最大限に引き立てるデザインだった。
「どう? エレノアの『好き』を、俺なりに必死に考えてオーダーしてみたんだけど……気に入ってくれたかい?」
普段の余裕はどこへやら、ルシアンは少し緊張した面持ちで、彼女の反応を伺うように尋ねる。
自分の好みも、領地の誇りも、すべてを理解して形にしてくれたルシアンの途方もない真摯さ。エレノアは胸がいっぱいになり、喉の奥が震えて、ただ絞り出すように言葉を紡いだ。
「……何と言えばいいのか、分かりません。……本当に、ありがとうございます」
「よかった。君に一番似合うって信じてたよ」
エレノアは嬉しいとも素敵とも答えられない。なぜなら喉が詰まって何も言えないから。だけどルシアンは心底ホッとしたように、極上の微笑みを浮かべた。
「宝飾品も一緒に新調しようと思ったんだけどさ、それをやると、きっとエレノアは恐縮して気合が入りすぎちゃうだろ? だから今日は、前回着けた、小ぶりだけど上品なトパーズの首飾りにしよう。さあ、着替えておいで」
エレノアの生真面目な性格まで完璧に「計算」し尽くしたルシアンの気遣いに、彼女は内心のパニックを隠せないまま、着替えへと向かった。
商会の仕事を終え、二人で馬車に乗り込んで侯爵家へ向かう道中も、またもやルシアンはエレノアを褒める口を一切閉じずエレノアを翻弄した。
やがてヴァレンタイン侯爵邸に到着し、厳かな晩餐の席についても、ルシアンの甲斐甲斐しい気遣いは続いた。エレノアが緊張しないよう会話の舵を取り、好みの料理をさりげなく勧め、常に彼女に理解を示し続ける。
そのあまりの変貌振りと、エレノアへの甘やかしようを正面から見せつけられたヴァレンタイン侯爵は、手元のワイングラスを置き、深く溜息をついた。
「……まったく、我が息子ながら凄まじい阿呆だな。はじめからそのようにエレノアを大切にしていればよいものを」
侯爵は呆れたようにルシアンを睨み据えた後、今度はエレノアへと視線を向け、どこか悪戯っぽく口元を緩めた。
「……エレノア。こやつにどれほど絆されても、私は一向に構わんぞ。むしろ、そのまま完全に骨抜きにしてやってくれ」
「っ、閣下、それは……っ」
この2年のうちにすっかり気安くなった侯爵。エレノアとなんとか縁続きになりたいという目論見を一切隠そうとしなくなった。
侯爵からの想定外の「許可」に、エレノアはここでも何と返して良いか分からず、ただ小さく身を硬くするしかなかった。
【残り5日】
気づけばエレノアは、商会の重要な相談を、ごく自然にルシアンへと打ち明けるようになっていた。
利益をさらに底上げするための手立てや、複雑化する販路の効率化。ルシアンが提示するアイデアは、エレノアのロジカルな思考とは全く違う、社交界の心理を突いた天性のセンスと、驚くほど強かな商売の才覚に満ちていた。
経営者としても、一人の男としても、これ以上ないほど頼もしい存在。
夕暮れの執務室で、並べられた書類を見つめながら、エレノアはルシアンと紡いできた幸福な「新しい日常」を静かに振り返っていた。完璧な利益、完璧な自立、完璧なパートナーシップ。
これほど愛おしい日常が、自分の人生に訪れるなんて、あの「規律」だけを信じていた八歳の頃の自分には、絶対に予測できなかった。
【残り3日】
そして、冷酷なカレンダーが残り3日を告げた、その日の夕暮れ。
静まり返った執務室で、ルシアンは手元のお茶を置くと、椅子を引いてエレノアの正面に立った。
その蜂蜜色の瞳には、もうビジネスの話をする時の軽快さは微塵もない。出会ったあのテラスの隅の日のように、そしてあの涙の日ように、まっすぐに、一人の女性の魂を射抜く情熱だけが灯っていた。
「エレノア」
ルシアンは手を伸ばし、エレノアの華奢な両肩を、優しく、けれど逃がさないようにしっかりと包み込んだ。
「俺は、君と結婚したい。誰の都合でもなく、俺自身の意志で、君のことが心の底から好きだからだ」
「……あ」
それは、エレノアがこれまでずっと合理的な数字の裏に隠し、最も避けてきた、最大の「不条理」だった。
ストレートすぎる彼の告白が、エレノアの胸の奥の蓋を容赦なくこじ開けようとする。答えなければいけない。けれど、あと三日で彼を解放するという完璧な計算式が、彼女の唇をきつく縛りつける。
エレノアはただ、ルシアンの焦がれるような瞳を見つめ返したまま、今回もまた、何一つ言葉を返すことができないのだった。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




