第17話
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
【残り105日】
「社交界の人間はね、皆『自分だけの特別』に弱いんだ。特に、他人が持っていない香りを身に纏う優越感は、どんな高価なドレスよりもドレスアップになる」
商会の執飾室。机の上に広げられた新事業の企画書を指差しながら、ルシアンはかつて社交界で気楽に過ごしていた頃の知識を総動員して、熱っぽく言葉を紡いでいた。
対面に座るエレノアは、彼の言葉をじっと咀嚼するように菫色の瞳を瞬かせ、それからトントンと羽ペンで机を叩いた。
「それでしたら、やはりフレーバーティーからではなく、ファッションという分かりやすいところから攻めて、軌道に乗ってから紅茶でも美容でも同じことができる、と売り出した方が良いでしょうね。ファッションだと香水……調香体験が無難でしょう」
「ふむ、だったらトップノート、ミドルノート、ラストノートにそれぞれ合うフレーバーを用意して、組み合わせを自分で考えながら作るのが良さそうだね。自分で作れるのに本格的、これも購買意欲をそそられないかい?」
「ええ、素晴らしい着眼点ですわ、ルシアン様。香りの配合率……レシピと銘打った方が良いでしょうね。そちらを商会側に登録するシステムにすれば、二回目以降のリピート注文は完全に我が社の独占市場になります」
「さすがエレノア、もうそこまで計算が届いてるんだね。じゃあ、基本となるベースの香りは、俺が社交界の流行を分析して男女3パターンずつと男女兼用で2パターンほど思案してみるよ。……あ、でもね」
ルシアンはふっと身を乗り出し、真面目なビジネスの顔から、少しだけ声を潜めて微笑んだ。
「初動は俺の好みの香りでプロモーションするでしょう?そんなものいくらでも使ってくれていいんだけど……、それともうひとつ、完全に俺の趣味で、エレノアに一番似合う香りに仕上げたものも作っていい?完成したら、真っ先に君に受け取ってほしいな。本当に気に入ったらエレノアブレンドとして登録して欲しいし、毎日つけて欲しい……それとも、恋人に贈るための特別な一本として、俺が君の手首に直接馴染ませてあげようか?」
「っ……!?」
悪戯っぽく、けれどどこか焦がれるような熱を孕んだ微笑み。
かつての「女の子への優しさ」ではない。明確に、エレノアだけを射抜こうとする男の視線。
さっきまで完璧な経営者の顔をしていたエレノアが、瞬時に息を呑み、借りてきた猫のように固まる。白い頬がみるみるうちに愛らしい朱に染まっていくのを、ルシアンは見逃さなかった。
エレノアはあの日流した涙も、胸に渦巻く様々な感情も、すべて強引に心の奥底へと蓋をしていた。
ただ「仕事」としてルシアンに向き合おうと、これまで以上に必死に頑張っている。だけど、こうして彼が不意に距離を詰め、甘い言葉を投げかけるたびに、完璧なはずの仮面は簡単に揺らいでしまうのだった。
(……意識してくれている。ちゃんと、俺を一人の男として見てくれているんだ)
その確信が、ルシアンの胸をじんわりと熱くさせる。彼女が自分を意識してくれていると分かるからこそ、ルシアンは仕事にも、エレノアという一人の女性に対しても、より一層真摯に向き合うようになっていった。
迫り来る終わりの数字とは裏腹に、彼の存在は、商会の利益率という冷徹な数字を過去最高へと押し上げていく。
それからの毎日はいっそ、これまでの二人にとって、最も満ち足りた「新しい日常」だった。
朝、ルシアンが誰よりも早く商会に足を運び、届いた書類の仕分けをする。午後からは二人が並んで座り、あちこちの夜会から届いたカスタム香水の先行予約リストをチェックする。夕暮れ時には、ルシアンが新しく覚えたハーブティーの淹れ方で彼女をもてなし、他愛のない世間話に花を咲かせる。
かつてのように、一週間ごとに中身の無い恋を乗り換えていたルシアンの退屈な日常。
そして、数字の規律だけで世界を縛り、孤独に戦ってきたエレノアの冷たい日常。
そんな過去とは全く違う、お互いをビジネスパートナーとして対等に認め合い、共に一つの未来を創り上げていく幸福な日々が、そこにはあった。
「ルシアン様、こちらの配合データですが……」
「ん? どれどれ、見せてごらん」
覗き込むと、エレノアの髪から、ほんのりと甘い薔薇の香りがした。ルシアンが以前、彼女のプロモーション用に選んだ香油の匂いだ。
「うん、この数字なら完璧だよ。本当にエレノアの計算は美しいね」
ルシアンがそう言って愛おしげに頭を撫でようと手を伸ばすと、エレノアは拒絶するでもなく、ただ少しだけ肩をすくめて、じっと彼の手のひらを見つめていた。
仕事中のふとした瞬間に、エレノアが柔らかく目を細めて微笑む。
そんな奇跡のような幸せが、今の二人を優しく包み込んでいた。
――だけど。
カレンダーの数字だけは、二人の幸福に一切の耳を貸さず、無慈悲に減り続けていく。
【残り76日】
新事業のカスタム香水、カスタム香油は、社交界で空前の大ヒットを記録していた。
アシュフォード商会の利益は天井知らずに跳ね上がり、伯爵家が自立するための財政基盤は、これ以上ないほど強固なものとして完成されつつある。
ルシアンが真摯に頑張れば頑張るほど、商会は大きくなる。
そして商会が大きくなるということは、エレノアが孤独に目指していた「ルシアンを自由にするための婚約破棄」の条件が、皮肉にも完璧に満たされていくということでもあった。
【残り42日】
ついに、タイムリミットまで二ヶ月を切った。
これほどまでに充実し、これほどまでに愛に満ちた、新しい日常をふたりで紡いでいるというのに。
夕日に照らされた執務室で、隣り合って微笑み合っている二人の胸の奥には、止まることのない冷たいカウントダウンの足音が、不気味に響き続けていた。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




