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第16話

数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。

しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。



「……っ、は……」

 


 アシュフォード伯爵邸の自室。静まり返った暗がりのベッドの中で、エレノアはシーツを強く握りしめ、浅い呼吸を繰り返していた。


 ルシアンを半ば追い出すようにして商会を後にし、どうにか屋敷へ戻ってから数時間が経過している。しかし、彼女の脳内は未だに、あの執飾室での出来事を処理しきれずにいた。

 

 じわり、と右の手のひらが熱い。


 ルシアンに包み込まれていたあの場所だけが、まるで今も彼の体温を覚えているかのように、不自然なほどの存在感を放っている。

 


「落ち着きなさい、エレノア・アシュフォード。……思考を、整理するのです」

 

 自分自身に言い聞かせるように、暗闇に向かって冷徹な声を出す。


 いつものように、物事を論理と数字の天秤にかければいい。そうすれば、すぐに正解は導き出せるはずだった。

 


 ――ルシアン様のあの行動は、単なる『婚約者としての義務感』に過ぎない。

 


 エレノアの頭脳が、必死に都合の良い数式を組み立てる。


 あと百数十日で婚約が強制終了するという現実を突きつけられたのだ。ヴァレンタイン侯爵家の令息としての責任感、あるいはこれまで不誠実であったという自責の念が、彼をあそこまで駆り立てたのだろう。一時的な罪悪感によるバースト。義務感による無理な帳尻合わせ。


 そう定義すれば、すべての辻褄は合う。完璧な予測モデルだ。何も動揺する必要はない。

 



「……いいえ、違う」



 

 組み立てたはずの数式が、自らの声によって粉々に粉砕される。


 合理的に考えようとすればするほど、あの倉庫での汗にまみれた泥塗れの姿が、執務室での焦がれるような蜂蜜色の瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。


 単なる『義務感』であそこまでプライドを捨てて足掻ける人間が、この世のどこにいるというのか。


 一言一言に、彼の魂そのものが刻みつけられていた。義務や責任という記号では、あの圧倒的な熱量を説明することなど、到底不可能なのだ。

 

 予測モデルは完全にエラーを起こし、エレノアの完璧なはずの計算式はキャパオーバーを告げる警告音を鳴らし続けている。

 


「説明が、つかない……。これでは、計算が成り立ちません……」

 


 胸の奥が、引き千切られるように苦しい。


 そしてその苦しさの底には、もう一つ、何年も前から消えずに沈殿している澱があった。

 




 ルシアンは、きっと覚えていないのだ。


 八歳と十歳の日。大人たちの前で完璧な正解を演じていた自分を、テラスの隅へと連れ出し、『嫌なら、嫌って言っていいんじゃない?』と、世界で初めて自分の本音を許してくれた、あの眩しい笑顔を。


 そして、それから数ヶ月後の子供たちだけのお茶会で、お菓子の数を必死に数えて周囲に変だと言われていた自分を、真っ直ぐに肯定してくれたあの瞬間を。

 


『エレノアは数を正しく見てるんだな。すごいよ』

 


 他の誰もが「正解ではない」と笑った自分の歪な性質を、彼は当然のように受け入れ、微笑んでくれた。大人のための模範解答を出す必要なんてないのだと、完璧な正解を求めてこない唯一の居場所を、彼は何気なくエレノアに与えてくれたのだ。

 


『女の子には優しくするもんだろ?』

 


 けれど、あの時彼が口にした言葉。

 ルシアンにとっては、誰にでも、どんな女の子に対しても同じように向ける『紳士としての嗜み』の、ほんの一コマに過ぎなかったのだろう。だからこそ彼は、一週間ごとに違う女性と浮名を流すような、自由気ままな放蕩息子へと育っていった。なぜなら断れば女の子が傷つくから。


 彼にとってあの数々の日は、数ある日常の、取るに足らないスタートラインの一つ。

 


 けれど、エレノアにとっては違った。



 正解だけを求める自分が作ってしまった冷たい世界の中で、初めて自分を肯定してくれた、生涯で唯一の不条理な優しさ。あの日からずっと、エレノアの心は彼に囚われたまま、彼を維持するための数字を積み上げ続けてきたのだ。



 

 自分だけが覚えている。自分だけが、あの瞬間に縛られている。

 その事実が、どうしようもなく寂しかった。

 



 どれだけ商会の帳簿をめくっても、この胸の痛みや寂しさを相殺できる引き算のデータはどこにも存在しない。数字で表すことのできない、あの日からずっと降り積もってきた『好き』という感情と『寂しさ』は、行き場を失ったまま、彼女の細い身体の内で激しく渦巻いていた。

 



「私は……っ……」



 

 シーツに顔をうずめ、エレノアは途切れ途切れに息を漏らす。




 

「私は……数字で表せないことは……苦手なのです……っ……」




 

 ぽつりと、掠れた声が暗闇に消える。


 その瞬間、限界を迎えた数式が崩壊するように、彼女の菫色の瞳から、熱い雫がとめどなく溢れ出した。



 それは、完璧な淑女としての仮面を容赦なく濡らし、枕を深く染めていく。声にならない苦悶が、喉の奥をきつく締め付けた。どれほど計算を試みても、目元から溢れ出るこの流体の量を、胸を締め付けるこの熱の正体を、制御することなどできはしない。

 

 人生で初めて流す、計算不能な、けれどあまりにも確かな、恋の証明だった。

お読みいただきましてありがとうございました。

次回もお楽しみくださいますと幸いです。

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