第13話
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
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お茶会の席を立ち、自室の執務室へと戻ったエレノアは、扉が閉まった瞬間にドッと押し寄せてきた疲弊感に襲われていた。
いつもと違う、胸の中のすべてを吐き出すような大きな、大きなため息をつく。完璧な淑女の仮面を外し、机に両手をついて呼吸を整えようとしたが、乱れた心拍数は一向に下がる気配を見せなかった。
(……不条理ですわ。本当に……不条理極まりありません)
エレノアは、先ほどまでのルシアンとの会話を思い出していた。
『俺たち、いつまで婚約者なんだろうな』
そう、いつもの優しい蜂蜜色の瞳で、当たり前のように未来の結婚を疑わずに呟いてくれた。
その瞬間、エレノアの胸を跳ね上げたのは、これまでの人生で感じたことのないほどの、言葉にできない瑞々しい歓びだった。
けれど同時に、それはエレノアの背筋を冷たい風が駆け上がるような、恐ろしいほどの冷ややかさを伴っていたのだ。
(ルシアン様が、あのように温かく未来を望んでくださる。……だからこそ、私は約束通りに、あなたを自由にして差し上げなければならないのに)
激しい感情の濁流をなんとか冷徹なロジックで押し殺し、淡々と「あと147日ですわ」と告げた己の声を思い返し、エレノアはそっと胸元の焦燥感を指先で押さえた。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、お茶の入ったカップを持った侍女が入ってくる。
「お嬢様、少しお疲れのようです。温かいハーブティーを淹れましたわ」
「……ありがとう。少し、落ち着きたかったのです」
エレノアはいつになく弱々しい声でお礼を言うと、勧められるままにソファへと深く身を預け、湯気の立つカップから一口、お茶を喉に滑らせた。
温かい液体が染み込んでいく感覚の中で、彼女は頭の中にある「147日」を、もう一度狂いなく整理し始める。
我が伯爵家の財政再建は、今期の決算をもって完全に完了する。
商会の利益は王都のラグジュアリーブランドとして最高値を更新し続けており、侯爵家からの資金援助は完全に不要となった。
つまり、この婚姻を維持することによる双方の経済的・政治的メリットは消失し、当初大人たちが交わした「婚約の目的」は完璧に達成されたのだ。
エレノアの頭脳が導き出した答えは、いつだって至極単純で、極めて明快だった。
『これ以上、我が家の都合で侯爵家(ルシアン様)に縋り付く、合理的な理由はなくなった』
ただ、それだけのこと。数字に従えば、これが最も美しく、正しい清算の形なのだ。
――しかし。
エレノアの完璧な計算式には、どうしても一つの巨大な「数値」だけが抜け落ちていた。
「……私は、ルシアン様を好いておりますわ」
ぽつりと、誰もいない静室にエレノアの掠れた声が響いた。
自嘲気味に、けれど絶対に否定できない事実として、彼女は己の恋心を明確に自覚していた。8歳のあの日、みんなに変だと言われた自分の数字を「正しく見てるんだな」と笑わずに受け入れてくれた、世界で唯一の、かけがえのない初恋の男。
彼のことが、不条理なほどに大好きなのだ。
「ですが……それは、婚姻を続ける理由にはなりませんわ」
エレノアはカップを見つめたまま、菫色の瞳に切ない諦念の光を宿した。
彼が好きだから、隣にいたい。そんな不確かな感情は、彼女の愛する絶対的な真理(数字)の理論には乗らない。
ルシアンは誰にでも優しく、華やかで、自由な世界が似合う人だ。実家の財政難という義務が消え去った今、エレノアの個人的な「好き」というエゴだけで、彼をこの退屈な政略の檻に縛り付けておくわけにはいかない。義務が消えたなら、彼は本当の自由になり、いつか自分が心から愛する女性と結ばれるべきなのだ。14歳の時に侯爵に対面した時の気持ちと寸分のズレもない。
(それが、ルシアン様を慕う私が取るべき、最も『正しい選択』ですわ)
ルシアンを愛しているからこそ、自分の恋心ごと完璧に彼を突き放す。
そんな歪で、あまりにも健気な少女の決意を、夕暮れ時の静かな部屋だけが、じっと見守っていた。
ルシアンが「別れたくない」と絶望し、ここから自分の計算を狂わせる猛烈な反撃を仕掛けてくることなど、完璧な彼女の帳簿には、まだ一文字も刻まれてはいなかった。
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次回もお楽しみくださいますと幸いです。




