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55話 会敵④

「鹿嶽、応答しろ! 鹿嶽!!」

きしむ電子ノイズだけが、冷たくスピーカーから返ってくる。

一ノ瀬は、零式二型改の操縦桿を強引に引き絞り、機首を暗黒の海面へと向けようとした。その絶望の下降機動を、ハルテンベルクの平坦な声がピシャリと制した。

 

『お止めなさい。副官の方は、おそらくまだ生きていますよ』

 

一ノ瀬の指が、レバーの上で止まった。

 

『意図的にコックピットブロックの直撃を避けました。切断したのは動力ラインのみです。密シールは無傷のはず。……ただし』

 

ハルテンベルクの声音には、一切の悪意も、歓喜も混じっていなかった。ただの純粋な物理現象を提示するトーン。

 

『あの六式の生命維持システムもまた、切断された動力に依存している。暖房が完全に停止し、酸素循環が途絶える。この極寒の海水温度と、チリの冬の気圧下です。……そう長くは保ちませんよ、彼の肉体は』

 

一ノ瀬は、凍りついた海面を見下ろした。

深く、濁った波頭の隙間に、巨躯を横たえた鹿嶽の六式が、じわじわと気泡を吐き出しながら沈みかけているのが見えた。

 

『急いだ方がいい』

 

ハルテンベルクのアドラーが、霧の奥で不気味に、その死神の翼を静かに広げ直した。

 

『私を今ここで排除すれば、あなたは心置きなく副官を助けに行ける。……極めてシンプルです。さあ、一ノ瀬少佐。急ぎなさい。彼のタイムリミットが尽きる前に』

 

煽りだ。完璧な、こちらの焦燥を誘うための心理誘導。

それは一ノ瀬にも百も承知だった。

だが時間が一秒ごとに削り取られているのも、また冷酷な物理的事実だった。

一ノ瀬は、一瞬だけ、激しく脈打つ眼球を閉じた。

脳裏を流れたのは、鹿嶽の不器用な、しかし何よりも頼もしい声だった。

先の大戦と共に戦い抜き、第七大隊に合流した最初の日から、どんな無茶な作戦の時も、文句を並べ立てながら、ただの一度として自らの背中を追い越させず、一番近くを飛び続けてくれた男の、あの濁った声。

それと同時に、一ノ瀬はハルテンベルクの言葉の意味を、冷徹に脳髄で噛み砕いた。

──アーキタイプ。

──他者の存在を意識した瞬間に、あなたの超感応反射にノイズが混ざる。

ならば。

今は──。

自らの右にも、左にも、守らねばならない鹿嶽の六式は存在しない。

彼を巻き込まないためのスペースも、コンマ数秒の配慮も、今のこの戦区には一切、不要だった。

 

「……ハルテンベルク」

 

一ノ瀬は目を開いた。その瞳は、限界を超えた脳細胞の摩擦熱によって、異常なほどの静謐を湛えて明滅していた。

 

『はい』

 

「お前の能書き通りにしてやる。一対一だ」

 

『ようやく、その枷を外してくれましたか』

 

ハルテンベルクの声に、初めて、隠しきれない真摯な充足が滲んだ。

 

『貴方の、本意気。楽しみに──』

 

その贅沢な言葉が、最後まで紡がれることはなかった。

零式二型改が、動いた。

──ハルテンベルクが、その一瞬、完全に空白を吐き出した。

初めて生じた、絶対的な反応の遅延。

零式二型改の漆黒の巨体が、プエルトモントの海霧を切り裂いて吶喊していた。

その進行方向は、ハルテンベルクの脳内シミュレータが叩き出していたすべての「予測回避ベクター」の、完全に外側の領域だった。

上でも、下でも、左でも、右でもない。

斜め四十五度の座標軸を維持しながら、前方への急加速ベクトルと、機体を意図的にねじる超変則スライドを「同時」に出力する、物理的な関節構造を無視した超次元機動。

零式二型改のフレーム全体がギチギチと軋み、悲鳴を上げる。だが、機体は確かにその不条理な軌跡を描き切っていた。

ハルテンベルクは、反射的にアドラーの退避システムを最大出力で噴射させた。

しかし──。

零式は、すでにそこに存在しなかった。

 

『どこに──!?』

 

ドガァァァン!! と、空間を激しく振るわせる凄まじい鉄の衝撃。

ハルテンベルクのアドラーの右肩に、鋭いブレードが深く食い込み、結合関節の人工筋肉をズタズタに切り裂いていた。火花と衝撃波によってアドラーの巨体が激しく弾き飛ばされるが、その装甲には、深く、決定的な「敗北の傷」が刻まれていた。

ハルテンベルクの脳内が、狂ったような速度で再計算を繰り返す。今の一ノ瀬の運動理論をトレースしようとする。

だが、できない。数式が、構築されない。

一ノ瀬の「次の一手」が、すでに牙を剥いて迫っていた。またしても、解は出ない。

 

『──これは……!』

 

ハルテンベルクの声に、初めて、人間らしい「戦慄」の色が混じった。絶対的な優位性が、根底から崩れ去っていくことへの、恐怖に満ちた認識の更新。

零式二型改が再び肉薄する。今度は、近接ブレードの一閃と、120ミリ電磁砲の至近距離射撃が、完全に「非同調」で放たれていた。

砲弾が飛来する射線と、機体の突撃するベクトルが、意図的にズラされているのだ。

砲弾の質量を陽動として使い、一ノ瀬の機体本体は、霧のさらに別の暗闇から急降下で襲いかかる。

ハルテンベルクは、かろうじて砲弾を紙一重でかわした。だが、その裏側に張り付いていた零式の高周波ブレードまでは回避しきれず、アドラーの左腕装甲が肩口から無造作に削ぎ落とされた。

アドラーは、ブースターを逆噴射させて大きく後退し、なんとか死線を引き剥がした。

 

『……なるほど』ハルテンベルクの、いつも整っていた前髪が激しく乱れ、その額からは冷たい汗が滴り落ちていた。

 

『邪魔者がいなくなった途端……あなたは、全く別の「生物」へと変質している』

 

「違う」

 

一ノ瀬は、零式二型改の操縦桿を限界まで引き絞った。

 

「昔を思い出しただけだ」

 

漆黒の零式が、さらに出力を上げて加速する。

ハルテンベルクは必死にシステムを更新しようと、一ノ瀬の新しい運動パターンを強引に取り込もうと演算を急がせた。

だが──一ノ瀬の次の挙動が、再びハルテンベルクの予測閾値の遥か外側へと吶喊する。

超高速の上昇。そこからの無理な慣性急減速。さらに、落下速度を利用したバレルロール。

それらの超高負荷機動が、たった一息のシームレスな流れの中で、完璧に調和して実行されていた。

一つ一つの技術は、既知の機動だ。だが、その繋ぎ合わせ方のシークエンスが、通常の人間が可能とするものを、完全に超越していた。

機体にとっては物理的に最も自然な連続だが、搭乗員の肉体にとっては、限界Gの負荷によって即座に気絶を誘発する、死のシーケンス。

ハルテンベルクは、その絶対的な進化の差を、初めて正確に理解した。

一ノ瀬は、自分の肉体を、機体の限界性能に完全に合わせている。

 

『……実に、興味深い。……ク、クーメルが執着した理由が、今ようやく、理解できた……っ!』

 

ハルテンベルクは、操縦桿を握る手を小刻みに震わせ、距離を取るためだけに、ひたすら回避スラスターをふかし続けた。

そうしなければ、一瞬で首を捥ぎ取られる。退がらざるを得なかったのだ。

 

「もう、喋るなと言ったはずだ」

 

零式二型改が、正面の霧を完全に薙ぎ払って肉薄した。

ハルテンベルクは瞬時に右へ身を退けた。それは、彼の最高予測演算が叩き出した、唯一の生存ルートだった。

だが──漆黒の零式は、まるでハルテンベルクがそこに逃げてくることを知っていたかのように、その「先」で、すでに銃口を向けて待っていた。

お前が、そこに動くのを、俺は知っている。

ズ、ガァァァン!!

限界までチャージされた電磁砲が、ゼロ距離で吠えた。

回避不可能。アドラーの肉厚な胸部装甲が、真正面から凄まじい徹甲弾の衝撃波を浴び、装甲板がひしゃげた。

貫通こそ免れたものの、機体のメイン人工筋肉の同調リンクが激しく破損。アドラーの姿勢制御システムが完全に崩壊し、巨体が霧の中で大きくバランスを崩してのけ反った。

完全な、無防備。

体勢が完全に瓦解した、その決定的な一瞬。

一ノ瀬は、その勝利の秒数を逃さなかった。

零式二型改の高周波ブレードを最大出力で咆哮させ、自らを一本の黒い死神の矢に変えて、アドラーの剥き出しの胸部へと、一直線に突進した。

──トドメの一撃。

まさに、そのブレードの先端が、アドラーの装甲を肉薄し、切り裂かんとした、そのコンマ数秒前。

一ノ瀬の、そしてハルテンベルクの、さらにはこのプエルトモント港全域に展開するすべての戦機のコックピットの中で、けたたましい緊急アラートが鳴り響いた。

特定の暗号回線ではない。

陸、海、空、すべての軍事通信帯に対する、極超長波の広帯域緊急同時送信信号。

 

『──緊急電文! 日英米合同軍・統合参謀本部より、全戦域、全部隊に告げる!』

 

スピーカーから響き渡ったのは、限界を超えて引き裂かれたような、金切り声だった。

 

『本日──1953年7月10日、午後五時十五分をもって、大ゲルマン帝国政府と、日英米三国同盟との間に、無条件の暫定停戦協定が正式に締結された! 繰り返す、停戦協定が締結された! 日英米、ならびに帝国軍のすべての部隊は、直ちに、ただちに一切の戦闘行動を停止せよ! 繰り返す──』

 

ドォォォ、と、一ノ瀬のブレードの熱気だけが、空虚に空間を焼いた。

一ノ瀬の動きが、コンマ数秒、凍りついたように静止した。

アドラーの喉元、あと十センチの距離で、白熱する高周波の刃が、むなしく霧を蒸発させている。

対峙するハルテンベルクのアドラーも、動かなかった。

崩れた体勢を、ゆっくりと、しかし確実に立て直し、構えていたブレードを静かにマウントへと収めた。反撃の素振りすら、そこにはなかった。

軍人としての、冷酷なまでの絶対的な規則への服従。

通信機の向こうの参謀の声が、同じ文言を、何度も、何度も、壊れた機械のように繰り返し続けていた。

乳白色の深い海霧に包まれたプエルトモント港に、不気味な、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。

燃え盛るドックの火花が、パチパチと爆ぜる音だけが、虚しく世界を埋めている。

 

「……停戦、だと……?」

 

一ノ瀬は、カサカサに乾いた喉から、ぽつりと声を漏らした。それは、あまりに理不尽な世界に対する、掠れた呟きだった。

 

『……そのようですね、一ノ瀬少佐』

 

ハルテンベルクの声が、スピーカーから静かに流れた。

その声音には──新人類としての冷徹さを超えた、何とも判然としない複雑な「温度」が混じっていた。それは、命拾いしたことへの安堵なのか、それとも、真の決着を奪われたことへの深い落胆なのか。

 

「命拾いしたな、ハルテンベルク」

 

一ノ瀬は、ブレードの出力をゆっくりと切り、操縦桿を戻した。

 

『──ええ。今回ばかりは。……そうとしか、言いようがありませんね』


ハルテンベルクは、あっさりと自らの敗北の一歩手前を認めた。

しばらくの間、二機の戦機は、お互いに触れ合えば一瞬で死に至る距離を保ったまま、深い霧の中で直立し、沈黙を共有した。

 

「……これも、お前の差し金か」

『まさか。私とて、予測出来ないことはあります』

 

ハルテンベルクは、静かに、しかし断定的にそれを否定した。

 

『どうやら──我々がこの地球の南端で、お互いの命を削り合って戯れている間に。……東京とベルリンの、その中央で、何か取り返しのつかない決定的な動きがあったのでしょうね。これ以上の戦争継続を、物理的に不可能にするほどの、巨大な動きが』

 

「……だが、このままお前たちが、大人しく矛を収めるとは思えんがな」

 

『当然です』

 

ハルテンベルクのアドラーが、ゆっくりと浮上し、傾いたルーデンドルフの甲板へと退がっていった。

 

『お互いが面倒事を片付けた時、私たちは再び、より凄惨な地獄の戦場でお会いすることになるでしょう。それまで、どうか無事でいてください、一ノ瀬少佐。──では、また』

 

霧の奥へと、ハルテンベルクの、そして生き残ったアーリア戦闘団のアドラーたちが、不気味なほど整然と、漆黒の煙の彼方へと撤退していった。

その黒い翼が完全に霧の檻へと消え去ったのを見届けると、一ノ瀬は一瞬の躊躇もなく、零式二型改を急降下させ、冷たいプエルトモントの海面へと突入させた。

海水の底、深い闇の中に、鹿嶽の乗った六式の重厚なシルエットが、静かに沈みきらずに漂っていた。

 

『停戦が成立した。戦闘を停止せよ。……繰り返す、戦闘を停止せよ──』

 

復讐の火花が霧散したパナマの空に、虚しい停戦の報せだけが、ただ何度も、何度も、冷酷に響き渡り続けていた。

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