56話 電撃停戦
空母『天鳳』の第二格納庫に、第七大隊の傷だらけの戦機を収容し終えたのは、あの唐突極まる停戦電信が全周波数を席巻してから、半日以上が経過した頃であった。
引き込み作業を指揮する甲板員たちの手つきは、出撃時の、あの命を削るような狂騒とは打って変わり、酷く緩慢で、どこか生気を欠いていた。
誰もが、この「停戦」という理不尽な現状をどのように咀嚼すべきか、答えを見出せない顔で、泥と油にまみれた鉄板を踏みしめていた。
一ノ瀬は、零式二型改の気密ハッチを開け、ステップを滑り落ちるようにしてフライトデッキへと降り立った。
自らの軍靴の底が、オイルの匂いの染み付いた頑丈な鉄板に触れたその瞬間。
──俺は生きている。
その生々しい、しかし酷く冷え切った感覚が、一拍遅れて彼の胸の奥を通り過ぎていた。
格納庫の隅、赤色灯が明滅する簡易担架の上に、低体温症処置のための毛布を何枚も被せられた鹿嶽が横たわっていた。
冷たい海から強引に引き揚げた瞬間、彼の呼吸は弱く、意識は完全に失われていた。
艦の医務班が、毛布の中に温熱導管を滑り込ませて急速保温処置を開始し、その巨躯が天鳳の地下医療ブロックへとエレベーターで運ばれる直前、一ノ瀬は彼の、凍りついたように青白い貌を覗き込んだ。
死んではいない。
ただそれだけを、一ノ瀬は自らの眼で、確かに確認していた。
「──少佐!」
七宮の声が響いた。
振り返ると、格納庫のハッチから、南、坂巻、舞草、そして浅見が肩を落とすようにして入ってくるところだった。最も遅れて、桐島が無言で歩み寄る。
誰も、最初に「停戦」という言葉を口にしようとはしなかった。
「……鹿嶽副長は、どうなんですか」七宮が、縋るような視線を一ノ瀬に向けた。
「意識不明だ」一ノ瀬は、ヘルメットを小脇に抱え、乾いた声で答えた。
「低体温症によるショック状態が続いている。つい先ほど、救急医療室へ運ばれた」
「……危険な状態なんですか」
「分からん。それを判断するのは俺たちではない、医者だ。ただ、回収後の処置は極めて迅速だった。それだけが、今の唯一の救いだ」
七宮は、それ以上言葉を紡げず、視線を床へと落とした。
浅見は、錆びついた鋼鉄の隔壁に背中をもたせかけ、きつく腕を組んだまま、静かにその美しい瞳を閉じた。
「──停戦って、一体どういうことだよ」
南が、喉を鳴らすようにして呟いた。その声には、やり場のない、行き先を失った狂暴な怒りと困惑が混じっていた。
「大和が沈められて、パナマがクレーターにされて、桃木中佐たち海軍の仲間が目の前であっさり殺されて……。あの化け物どを追って、あと一歩で仕留められるって時に、突然『やめろ』だなんて」
誰も、彼の問いに答えなかった。誰もが同じ不条理を、胸の底で噛み潰していたからだ。
「上の連中が、何を企んでいるのか、俺たち現場の兵隊にはさっぱり見えやしねえ」南は、怒りを押し殺したダミ声で続けた。
「俺たちが前線で内臓をきしませて、命を張って泥をすすっている間に、畳の上で勝手に線を弾きやがって……!」
「……南。そこまでにしろ」桐島が、低い声で遮った。
「──分かっていますよ。軍令は絶対だ」南は、歪んだ笑みを零した。
「でもな、あんまりにも……あんまりにも、都合が良すぎるだろうが」
それ以上、彼は言葉を重ねなかった。言葉を重ねるほど、自分たちの戦いの意味が虚無に侵食されていくことを理解していた。
坂巻は力なくその場に座り込み、舞草は彼の傍らに立ち尽くしたまま、ただ無機質な格納庫の天井を見上げていた。
一ノ瀬は、錆びた隔壁通路の奥、医療ブロックへと続く暗い曲がり角へと視線を走らせた。
「……少し、様子を見てくる」
「少佐」七宮が、一ノ瀬の背中に声をかけた。
「……鹿嶽副長は、大丈夫ですよね。また、文句を言いながら、私たちの前に立ってくれますよね」
一ノ瀬は立ち止まり、半身で七宮の若い瞳を見つめた。
「……わからない」一ノ瀬は言った。
「それを決めるのは、俺たちではない。神様だけだ」
それだけを冷たく、しかし静かな優しさを込めて告げると、一ノ瀬は一人、冷たい鉄の通路の奥へと歩みを進めた。
天鳳の最下層、特別救急医療室は、格納庫の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
鹿嶽は、純白のシーツが敷かれたベッドの上に、巨躯を折り曲げるようにして横たわっていた。
いくつかの点滴ラインが彼の太い腕へと繋がり、心電図のホログラフィック・モニターが、一定の、単調な電子音を規則正しく室内に響かせている。
自発呼吸用の温熱マスクの下で、胸部が確かに、ゆっくりと上下している。彼が生を繋ぎ止めている証拠だった。
顔の血色は、酷く悪かった。
プエルトモントのあの氷のような海水に沈み、体熱を奪われ続けていた時間の長さが、そのまま彼の顔に死相の翳として刻まれていた。
一ノ瀬は、ベッドの傍らにスチール製の椅子を引き、腰を下ろした。
それ以上、何も言わなかった。耳を傾けるべき、言葉を交わすべき男は、今、深い昏睡の底に沈んでいる。
静かな時が、ただモニターの音と共に流れていった。
不意に、防音ハッチがエア音を立てて開いた。
入ってきたのは、第一陸戦大隊を率いる白城翔一少佐だった。
「──やはり、ここにいたか」白城は、フライトジャケットの襟を正し、極力声を潜めて歩み寄ってきた。
「他に行くあてもないからな」
白城は一ノ瀬の向かいの丸椅子を引き、腰を下ろすと、じっと鹿嶽の寝顔を見つめた。
「……副長の様子は」
「意識はまだ戻らん。だが、蘇生処置は間に合った、と軍医は言っていた。あとは、この男の頑強な生命力に賭けるしかない」
「そうか。……なら、大丈夫だろう。彼が、こんなところでアッサリと死ぬはずがない」
しばらくの間、二人は何も語らず、ただ医療用モニターの波形を見つめ続けた。
「……ルーデンドルフを、仕留めきれなかった」
白城が、苦渋に満ちた声を漏らした。
「停戦電令が流れた瞬間、こちらは対艦攻撃を中止せざるを得なかった。私の、戦術判断の踏ん切りが遅れたせいで、奴らを大西洋の霧の彼方へ逃がす結果となった。……すまない、一ノ瀬」
「お前が謝ることではない、白城」一ノ瀬は首を振った。
「軍令は絶対だ。あの決定的な瞬間、もしお前が命令を無視してルーデンドルフに攻撃を叩き込んでいれば、停戦協定の違反者として、お前は確実に横須賀で軍法会議にかけられ、銃殺されていた。……お前の判断は、一人の指揮官として完璧に正しかったよ」
白城は、少し間を置いてから、深く息を吐き出した。
「……ありがとう。そう言って貰えると、この胸のつかえが、少しは軽くなる」
一ノ瀬は、鹿嶽の波形を見つめたまま、白城へと静かに問うた。
「停戦の理由を知っているか」
「分からない。ただ、司令部からの暗号文には『停戦合意』の事実だけが記されていた」
「わけが分からんな」一ノ瀬は言った。
「ああ。大和の沈没を前にして、我々に『地の果てまで追撃しろ』と命じておきながら、喉元に刃が届く直前で、一瞬にして矛を収めさせた。意味が不明だ」
一ノ瀬は沈黙を保った。
ハルテンベルクが最後に口にした、あの言葉。
──『我々が中南米で命を削り合って戯れている間に、お互いの中央で、戦争継続を不能にするほどの大きな動きがあったのでしょう』
「一つだけ、確定している事実がある」白城が言った。
「天鳳の、これからの進路だ」
一ノ瀬は視線を上げた。
「カリフォルニアの、前進基地に戻るんじゃないのか」
「戻らない」白城は首を振った。その瞳に、不穏な影が宿る。
「本艦は、ハワイを素通りし──帝国本土の『横須賀港』に向けて、最大戦速で直行している」
「……本土へ?」
「そうだ。パナマで損傷した駆逐艦や空母の修復、および人員再編という名目が与えられているが、それだけのはずがない」
「本国の枢要で、地殻変動が起きた、ということか」
「そうとしか考えられない」白城はさらに声を低くし、一ノ瀬の耳元へと囁きかけた。
「……海軍諜報部の同期ルートから得た、極秘の噂話だが。──『元老会議』が、総理官邸を飛び越えて、陛下に直接動かれたらしい」
一ノ瀬の眉が、鋭く跳ね上がった。
「元老会議……」
元老会議──。
天皇陛下に直接奏上し、内閣の改変や軍の統帥権にすら隠然たる拒否権を行使できる、選ばれた華族重臣、および一握りの退役大将たちからなる、帝国最奥の超憲法的権力機関。
民主主義の表舞台からは退きながらも、政財界、そして軍部中央の派閥の根幹を、未だに絶対的な力で支配し続けている「真の支配者」たち。
「大ゲルマン帝国が停戦する気でも、戦争継続の意思を固める軍部を止められるとすれば、元老会議しかない。軍中央が知らないところで、あるいは知っていても止められない形で、何かが決まった可能性がある」
一ノ瀬は鹿嶽に目を戻した。
モニターが規則正しく音を立て続けていた。
「……どちらにしても、俺達一般将校からすれば、雲の上の話か」
「ああ、そうだな」と白城は言った。
「ただ、俺たちが戦っていた間に、世界がまた動いた。それだけは確かだ」
ぐらり、と、九万トンの巨艦『天鳳』の船体が、アンデスの冷たい大嵐を抜け、遥かなるハワイ、そして帝国の心臓部へと向かう、大平洋の大きなうねりによって、重重しく揺れた。
ここで一旦区切りとさせてもらいます。
色々構想を練ったら、続きを投稿しようと思います。
ここまで読んで下さりありがとうございました!




