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53話 会敵②

一ノ瀬とハルテンベルクが凍てつく海霧の深淵で激突しているその周囲、プエルトモント港を包む白い檻のあちこちで、別の凄惨な局地戦の火蓋が切られていた。

桐島が僚機の退路を確保すべく右翼のフィヨルド沿いへ回り込もうとした、まさにその瞬間だった。

センサーが微弱な機動ノイズを捉え、視界の霧の塊を割って、一機の『アドラー』が眼前に現れた。

桐島の操作桿を握る手が、ピタリと止まる。

異様な、しかし見紛うはずのないペイント。

漆黒の装甲を纏うアドラーの右肩に描かれた、鮮烈な「赤と黒の稲妻」を模したパーソナル・エンブレム。

 

東部大陸戦線の泥沼において、桐島はただ一度だけその機体を目撃し、そして今日この瞬間まで、自らの脳髄に一生消えない悪夢として焼き付けられていた。西ロシアの泥濘で、数多の日ソ連合軍の精鋭戦機部隊を文字通り一方的に蹂躙し、消滅させた『蒼空の悪魔』。帝国軍の絶対的エース。

 

「……ハンス=ウルリッヒ・ルーデラ大尉か」

 

桐島は、極限まで声を潜めて呟いた。

 

「こんな地球の裏側で、また相対することになるとはな」

 

漆黒のアドラーが駆動関節をきしませ、滑らかに回頭して桐島を正面から捉えた。

 

『──ほう。その特有の無駄のない機動、そして回線の向こうの青臭い震え声。……やはり、そうか』

 

スピーカーから、地を這うような、地鳴りに似た重厚なダミ声が流れてきた。

 

『あの時、西ロシアの雪原で逃がした小僧だな。お前が俺につけた傷は、まだ痛むぞ』

 

「今度は傷をつけるだけじゃ済ませない。……ここでお前の息の根を止める」

 

桐島は、高周波ブレードの出力を最大値へと引き上げた。ブレードの熱量が周囲の霧を真っ白に蒸発させ、青白い光線となって空間に固定される。その声には、一切の感情が排除されていた。

 

『どうした?』ルーデラ大尉の低い哄笑が、コックピットを震わせる。

 

『あの時のように、泣き叫んで感情を剥き出しにするかと思ったがね。随分と静かじゃないか。怖気づいたか?』

 

「お前ほどの怪物を前にして、感情に流されるような阿呆じゃない。ただ冷徹に、お前を削り殺すだけだ」

 

『いいな、実にいい。 来いよ、クライナー(坊や)。 お前がどれほどマシな猟犬に成長したか、この俺直々に測ってやろう』

 

赤と黒の稲妻が跳んだ。

桐島もまた、スラスターの全開気流で霧を薙ぎ払いながら、その死線へと吸い込まれるように突進した。


───

 

少し離れた、ドックの瓦礫が散乱する海面。

別の、さらに邪悪な会話が冷たい空気の中に響いていた。

七宮と南の二機は、密集陣形を維持したまま、手を取り合うように滑空する二機のアドラーと対峙していた。

回線から流れてくるのは、不釣り合いなほど無邪気な、しかし歪んだ高揚感を孕んだ少女と少年の声だった。

 

『あら、ジーク。また可愛らしい小っちゃいのが紛れ込んできたわね』

 

マリアンネの中尉の、湿り気を帯びた優しい声。

 

『本当だ、お姉様。あのカナダの最初の夜に遊んであげた連中と同じ匂いがするよ』

 

ジークフリート少尉が、歌うように、弾む声で応じる。

 

『ほら、あの時は確か……そう、あの不恰好な緑色の六式。僕が胸部装甲を一撃で撃ち抜いたら、中の人間ごと、きれいに一瞬で消えちゃったあの夜のことさ!』

 

七宮の指が、トリガーの上で硬直した。

心臓が、破裂しそうなほどの音を立てて肋骨を叩き始める。

 

『あのコックピットごと鋼鉄が融けて消える感触、本当に大好きなんだよねえ。お姉様、今回も一撃で、きれいに消してあげていい?』

 

七宮は、息をすることすら忘れていた。

伏野──。

カナダの夜、彼らの眼の前で、コックピットを文字通り一撃で撃ち抜かれて爆散した、大切な戦友。

あの夜の、熱源センサーに映った無残な火花と、二度と返ってこなくなった信号の記憶が、濁流となって七宮の脳内を埋め尽くした。

 

「……南」

 

七宮は、震える声を絞り出した。

 

「聞こえてる、七宮」南の返答も、いつもの陽気さを失い、激しい怒気で引き裂かれそうになっていた。

 

「あの野郎共は、伏野を殺した奴らだ」

 

「ああ。間違いねえ。奴らだ」

 

七宮は、きしむ手袋の中で操縦桿を握り直した。

怒り。それは、はらわたを焼き尽くさんばかりの、漆黒の怒りだった。

今すぐスラスターを全開にし、あの無邪気な笑顔のまま殺戮を楽しむ化け物どもに突っ込んで、ブレードでその首を捩じ切りたいという強烈な衝動。

だが──。

その灼熱の激情の裏側から、冷酷なまでに冷え切った「何か」が、七宮の脊髄を駆け抜けた。

 

(──感情に流された奴から順に、死ぬ)

 

浅見の言っていた言葉が、一ノ瀬の冷徹な横顔が、そして桐島に徹底的に叩き込まれた「有視界近接戦」のドクトリンが、パニックを起こしかけた脳細胞を力ずくで冷却していく。

「南」七宮は、もう一度声をかけた。今度は、震えが完全に消えていた。

 

「……分かっているさ」南が、自らの六式の照準をマリアンネ機に固定しながら、静かに言った。

 

「俺たちがここで怒りに狂って、奴らの術中に嵌まって死んだら、あの世で伏野に呆れられちまうからな」

 

七宮は、ゆっくりと眼を閉じ、そして開けた。

視界の霧は相変わらず濃かったが、アドラー二機の挙動は、驚くほど鮮明に捉えられていた。

 

「仕留める。……でも、絶対に焦らない」

 

「ああ。基本に忠実に、奴らの追い込むぞ」

 

『あら? 黙っちゃったわね』マリアンネが、退屈そうに囁く。

 

『やっぱり、怖くて泣き出しちゃったのかな? 可哀想に』

 

「怖くなんかない」

 

七宮は、通信機の送信スイッチを入れ、その声をプエルトモントの海へと響かせた。

 

「ただ──お前たちを海の底に叩き落とすのに、余計な時間はかけないと言っているんだ」

 

二機のアドラーが、その傲慢な確信を乗せて跳んだ。

七宮と南も、寸分の狂いもない連携軌道を描き、冷徹なる復讐の牙を剥いて突撃した。

 

───

 

さらに南側の、波飛沫が吹き荒れる給油ドックの直上。

浅見の、いつも以上に鋭く引き裂かれた命令が、無線機から飛び散っていた。

 

「坂巻、左の構造物の死角に回り込みなさい! 舞草はそのまま前進、私と並列! 敵の頭を抑えるよ!」

 

対するアドラーは四機。こちらは三機。数においても、性能においても、明白な劣勢だった。

だが、浅見の六式は、その不条理をあざ笑うかのように、スラスターの爆風を噴射して加速を続けた。

 

「──中尉!」

 

舞草が、必死に自機の姿勢をコントロールしながら、スピーカー越しに叫んだ。

 

「少し、今日の飛び方は──」

 

「何よ」

 

「いつもより、荒すぎます! 限界点を超えています!」

 

浅見は、一瞬だけ、息を止めるように返答を遅らせた。

 

「気のせいだよ!」

 

気のせいなはずがない。舞草の、鋭い空間認知能力がそれを明確に捉えていた。

桃木中佐が、奇襲の最初の一瞬で、目の前で撃墜された。

浅見は、その瞬間を確かに見つめていたのだ。

浅見中尉と、海軍のエースである桃木中佐の間に、どのような過去の交流があったのか、新兵である舞草は知る由もない。

だが、浅見が長く、海軍のあの『不落の撃墜女王』を人生の唯一の目標として追い続けてきたことは、大隊の噂で聞いていた。女性パイロットとして、偏見と差別の多い軍という組織で、誰よりも真っ先に先頭を走り、背中を示し続けてくれた偉大な存在。

 

「中尉!」舞草は、もう一度叫んだ。

 

「分かっている!」

 

浅見の声が、ふっと掠れた。今度は、その冷徹な仮面の下に張り付いた、生々しい震えを隠しきれていなかった。

アドラーの電磁弾が、浅見の装甲をかすめて霧の中に消える。

浅見は六式を独創的なロール機動で横に流し、射線を完全に外した。その隙に、右翼の遮蔽物に潜り込んでいた坂巻の電磁砲が吠え、一機のアドラーの右足をひしゃげさせる。

敵の陣形が、その一瞬で乱れた。

 

「桃木はね……」浅見は、加速するGに耐えながら、遮二無二話し続けた。

 

「私がいつか絶対に、実力で超えたかった人だったんだ。……それなのに、超えさせてすらくれないまま、あんな風にあっさり、先に逝っちゃうんだもん。本当に、どこまでも意地が悪い先輩だよ」

 

坂巻が、怯んだ一機の背後を執拗に追撃する。

 

「だからさ」浅見は、自らの六式のブレードを展開した。

 

「今度は、私がその位置に立つ番なんだよ。この女も男も関係ない、人手不足の中で女性のパイロットがいる限り……誰かが、最も危険な、一番先頭を走ってなきゃいけない。桃木がいなくなった今、その『頂点』になれるのは、生き残った私しかいないんだよ!」

 

舞草は、言葉を失った。

浅見中尉の、荒い操縦の裏にある、自らを奮い立たせるためのあまりに悲壮な、そして気高き『覚悟』。

 

「だから、私は死ねない」浅見は、アドラーの喉元へとブレードを突き立てた。

 

「私の後ろを走る、お前たち後続も……絶対に、死なせやしない。それだけが、私の任務だ!」

 

『──了解、しました!』

 

舞草は、自らのFCSにアドラーの熱源を完璧にロックオンした。

 

「やっと、私が前に立つ理由が分かった?」

 

浅見は、霧の向こうで短く笑った。その声に、涙の湿り気など微塵も混じっていなかった。

 

「──なら、仕事の時間だよ! 坂巻、そのまま右の奴を袋小路に追い込みなさい! 舞草、頭上を抑えるよ!」

 

『了解!』

 

三機の六式が、泥に塗れた死神となって、敵の四機を圧倒的な気迫で押し戻し始めた。


───

 

そして、最も濃密な霧が渦巻く核心部。

一ノ瀬の『零式二型改』と、ハルテンベルクの『アドラー』は、互いの人工筋肉をきしませながら、死の円舞曲を踊り続けていた。

これが、六回目の交差。

ハルテンベルクは、脳内での完璧な予測演算で、一ノ瀬の機動の「二手先」を完全に支配していた。

だが、一ノ瀬もまた、コンマ数ミリの擦れ合いの中で、ハルテンベルクのアドラーが放つ、特有のリズムをその肉体に同期させつつあった。

クーメルは、距離を取ってこちらの技術を「品定め」する贅沢な時間を作った。だが、このハルテンベルクは最初から「出力最大値」を以て、全力で圧殺しにきている。

だが、その限界駆動の「全力」だからこそ、わずかな、しかし確実な『物理の揺らぎ』が発生していた。

右方向への緊急回避ののち、ハルテンベルクは必ず、余剰出力を利用してコンマ数秒、真上へと「上昇」する。

一ノ瀬は、その一瞬の空白だけを待っていた。

アドラーが右へ流れた。

上昇シーケンスへと移行する、そのコンマ数ミリ秒の空白。

一ノ瀬は、引き金を引き絞った。

 

「──そこだ!!」

 

放たれた120ミリ電磁徹甲弾。

直撃ではなかった。だが、弾丸はアドラーの胸部防護装甲をかすめ、凄まじい金属摩擦の火花を霧の中に爆発させた。

ハルテンベルクの、完璧であったはずの上昇軌道が、初めて物理的な衝撃によって外側から乱される。

 

『……惜しいですね、一ノ瀬少佐』

 

ハルテンベルクの声に、微かな驚きが混じる。

だが、アドラーは失速しなかった。強制制動システムを稼働させ、異常な速度で一ノ瀬の死角──その右側面へと、回り込もうと加速する。

一ノ瀬の機体は、左腕のエラーにより、その回り込みの速度についていけなかった。

 

(──間に合わん!)

 

だが、その死の回り込みの射線の間に、強引極まる一機の質量が、地鳴りのような推進音と共に割り込んできた。

鹿嶽であった。

 

『──一ノ瀬! 完全に後ろを取られてるぞ!』

 

鹿嶽の荒々しい絶叫が通信を震わせる。

 

『援護する! 立ち止まるな!』

 

「来るな、鹿嶽! 巻き込まれるぞ!」

 

『──もう来てますよ、大隊長殿!』

 

鹿嶽の六式は、すでに動いていた。

彼は自らの装甲をハルテンベルクのキルゾーンへと無造作に放り投げ、アドラーの進路を物理的に塞ぐように立ちはだかった。

密着至近距離から、電磁砲を正面から乱射する。

弾丸はアドラーの変幻自在の機動にすべて回避されたものの、ハルテンベルクは衝突を避けるために、その進行方向を強引に変えざるを得なかった。

その一瞬の隙に、一ノ瀬は零式二型改を反転させ、完全に態勢を立て直した。

 

「……助かった、鹿嶽。恩に着る」

 

『礼は後で。美味い酒で頼むぞ』

 

鹿嶽は、自機の右肩から排熱を噴き出させながら、一ノ瀬の左右へと並び立った。

 

『その代わり……あの化け物を、ここで二人で、確実に仕留めるぞ、一ノ瀬!』


『……まぁ、これはこれで面白い。どんな反応を示してくれるか、見せてください一ノ瀬少佐』

 

ハルテンベルクのアドラーが、霧の奥で不気味に、金色の電子眼を明滅させた。

今度は、一ノ瀬と鹿嶽の「二機」を同時に、一瞬で屠るための、異形な複合機動シーケンスが、その冷徹な電脳の奥で稼働を始めていた。

 

「行くぞ、鹿嶽!」

 

「おうよ、一ノ瀬!!」

 

二機の日本軍の戦機が、霧を切り裂き、新世界の神を自称するその漆黒の猟犬に向けて、限界を超えた咆哮と共に吶喊した。

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