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52話 会敵①

チリ南部、プエルトモント港。

大西洋から吹き付ける凍てつく冬の夜気と、氷河が削り出した複雑なフィヨルドから立ち上る濃密な海霧が、港の北岸ドックを不気味な白の檻へと閉じ込めていた。

その乳白色の闇の奥に、潜水母艦『ルーデンドルフ』の黒く巨大な鯨のような背中が、横付けされていた。

 

「──早くしろ! この無能どもが! モタモタしていれば、夜が明ける前に海の底へ叩き落とされるぞ!」

 

岸壁のぬかるみを、シュテルン艦長は狂ったように走り回り、怒声を張り上げていた。

補給作業は、彼の焦燥を嘲笑うかのように難航を極めていた。

現地政府を通じて雇い入れたチリ人の港湾労働者は三十人。だが、彼らは夜霧の中から浮上したルーデンドルフの、あの常識を超越した大質量を前にしてすっかり及び腰になり、半数が作業を放棄しかけていた。シュテルンは拳銃を突きつけて脅し、賄賂(ライヒマルク)を文字通り投げつけ、力ずくで彼らを動かしていた。

さらに、北米の制海権維持に人員を吸い取られた結果、本艦に配属されたのは素人同然の若い国防軍水兵ばかり。彼らはルーデンドルフを動かすための電磁反応炉の急速冷却用液体窒素ホースの結合に手間取り、すでに三度の接続失敗とやり直しを繰り返していた。

それでも、時計の針が午前四時を回る頃には、ようやく完了の見込みが見え始めていた。

あと一時間。あと一時間で、この凍てつく罠の港から潜行し、マゼランの闇へと逃げ込める。

シュテルンは額の冷たい脂汗を外套の袖で乱暴に拭い、大急ぎで艦内の司令通路を通り、ハルテンベルクの自室へと向かった。

鉄扉を強くノックする。

 

「中佐、私です! 補給完了の目処が立ちましたので、報告に参りました」

 

「どうぞ、お入りください」

 

入室すると、ハルテンベルクはいつものようにデスクに向かっていた。

だが、その視線は南米の紙地図ではなく、ライプニッツ研究所直通の暗号解読端末に向けられていた。その青白い光が、彼の左右非対称な美貌を冷酷に照らし出している。

 

「閣下、作業はあと数十分で完了します」シュテルンは息を荒くして告げた。

 

「シュテルン艦長」ハルテンベルクが、その声を遮った。

 

「つい今しがた、ベルリンの友人(マイヤー党官房長官)から、非公開の極秘通信が私の個人端末に届きました」

 

シュテルンは不吉な予感に立ちすくんだ。「……内容は」

 

「チリにおける我が方の補給座標。……あの通信を送信する際、シェルナー元帥は、あえて『エニグマ』の旧式二重暗号を使用するように命じたそうです。それも、完全に意図的にね」

 

ハルテンベルクはそう言って、端末からゆっくりと顔を上げた。

 

「……は、はあ?」シュテルンは、状況を理解できずに間抜けな声を上げた。

 

「閣下、それが何か問題でも? まさか……あの劣等種(日本人)どもに、我が帝国が誇るエニグマが解読できるとでも?」

 

「シュテルン親衛隊中佐。彼らを、人種的な偏見だけで値踏みするのは、軽率ですよ」

 

ハルテンベルクは、傲慢な人種優越論に凝り固まったシュテルンに対し、知能の低い人間を見つめるような、底知れない侮蔑を孕んだトーンで言った。

 

「彼らの暗号解読班は、とうにエニグマのアルゴリズムを掌握している。シェルナーはそれを承知の上で、私たちの座標を意図的に漏洩させたのです。……すなわち、日本軍の追撃部隊は、すでにこのプエルトモントへ向けて行動を開始していると考えて行動すべきです」

 

「な、何と……! いつ来ますか!?」シュテルンの顔が、瞬時に土気色に変色した。

 

「エニグマを傍受した瞬間に、あの太平洋の凄まじい嵐を無視して強行発艦させたのだとすれば、遅くとも、この夜明けの直前には、私たちの目の前に現れるでしょう」

 

「そ、そんな馬鹿な! この暴風雨の中を飛べる戦機など、地球上には──」

 

「戦争ですよ艦長。追い込まれた人間とは理解を超えた行動をするものです」

 

ハルテンベルクの声に、微かな熱量が混じった。それは絶対の確信だった。

シュテルンは、恐怖で顎をがくがくと震わせ、沈黙した。自分がベルリンの最高幹部によって「エサ」として見捨てられたという事実に、脳髄が追いついていなかった。

 

「我々を嵌めようとする者たちの処分については、無事に帰国してから執り行いましょう」


ハルテンベルクは静かに立ち上がり、親衛隊制服のボタンの締め具合を丁寧に確かめた。

 

「今はそれより先に、目の前の『狩り』に集中しなければならない」

 

「艦長。補給を完了させ、ただちに離岸)の準備を」

 

「りょ、了解しました!」

 

「離岸と同時に、アドラーをカタパルトへ。私が直々に迎撃に立ちます」

 

シュテルンは、狂ったように頭を振り、一礼して部屋から飛び出していった。

 

(あの男は……自分が帝国の最高指導部に殺されかけているのに、まるでゲームのように愉しんでいる! 狂っている。ライプニッツの化け物どもは、どいつもこいつも──!)

 

だが、指示は明確だった。シュテルンは恐怖を掻き消すように、再び霧の岸壁へと走り始めた。


───

 

──午前四時十五分、夜明け前の深淵。

アンデス山脈の牙のような白い岩肌を、地表効果高度を保って舐めるように飛び続けていた混成戦機大隊が、チリ沿岸の最後の稜線を越えた。

眼下に広がったのは、一面の乳白色の霧に覆われたプエルトモント港の冷たい死界。

だが、その霧の向こう、港の北岸の最深部に、蠢くような巨大な「鉄の輪郭」があった。

 

「──全機、オプティカルを最大感度に設定」

 

通信機から、桃木中佐の、凛として張り詰めた声が流れた。

 

「目標まで、残り三分。ここまでの暴風を耐え抜いておきながら、最後の最後でマヌケな激突死を遂げるんじゃないよ。命がいくつあっても足りないからね」

 

一ノ瀬はコクピット越しに、深い海霧の向こうにある「ルーデンドルフ」の超巨躯を睨みつけた。

 

「対艦強襲任務。我が航空戦隊が先鋒を担う!」


桃木中佐の指示が飛ぶ。


「陸軍の第七大隊、および白城の部隊は、上空から我々のエアカバーを担当。……行くよ!」

 

「了解」と、一ノ瀬が応じた、その瞬間。

霧が、無音のまま、裂けた。

上空からではなかった。

港湾の、海面から這い上がる濃密な霧の層──横からだった。

音もなく。センサーの警告すらなく。

 

「──敵機!!」

 

鹿嶽の悲鳴のような絶叫。

だが、歴戦の海軍搭乗員たちの反射速度をもってしても、その「死神」の初速には、一歩も及ばなかった。

閃光。

桃木中佐が駆る先頭の六式の右主翼が、超高速の高周波ブレードのすれ違いざまの一閃によって、根本から爆散した。

十数年の海戦を無傷で生き抜いてきた伝説の『撃墜女王』のエース機が、何が起きたのかを理解する間もなく、火を噴きながら冷たいプエルトモントの海へと激突し、爆発のオレンジ色が霧を染め上げた。

さらに、その後続を飛んでいた直衛機二機が、尾翼を千切られて連続して火葬場と化す。

霧の奥から、蛇の舌のように明滅する冷酷な電磁徹甲弾の光条が走り、桃木隊の機体が、まるでおもちゃのように次々と叩き落とされていく。

わずか、五秒。

大和の仇を討つべく集った、海軍空戦隊の五機が、一瞬で太平洋のゴミにされた。

 

「──桃木隊、五機撃墜を確認!」鹿嶽の報告する声は、完全に強張っていた。

 

一ノ瀬は、オプティカルセンサーの感度を上げ、霧の中に蠢く、異様に俊敏な「黒い影」を捉えようとした。

複数。息の合った、完璧な三次元の陣形。

 

『──一ノ瀬少佐』

 

通信回線に、極めて滑らかな、しかし魂を凍りつかせるほどに平坦な声が滑り込んできた。

クーメルに酷似しているが、それよりも遥かに「死の気配」を完全に消臭した、冷たい声。

 

『ディートリヒ・フォン・ハルテンベルクです。……あの日からずっと、貴方との邂逅を心待ちにしていましたよ』

 

一ノ瀬は返答の代わりに、零式二型改のスラスターを全開にして機体を横へ跳ばした。

その直後、先ほどまで零式がいた空間を、大口径の電磁弾が音もなく突き抜けていった。

 

(──見えん! どこから撃ってきている!)

 

あのアドラーの急制動。クーメルは、距離を置いてこちらの技量を「品定め」する戦術をとった。

だが、このハルテンベルクは違う。

彼は、自らの気配を完全に霧と同化させ、引き金を引くその刹那まで、一切の質量を感じさせなかった。

クーメルよりも、遥かに──実戦的で、冷酷な殺戮者の挙動。

 

「白城!」一ノ瀬は、すぐさま全体回線へと叫んだ。

 

「桃木隊が壊滅した! 対艦雷撃任務を、お前たちの第一大隊で引き継いでくれ! ルーデンドルフを、あの巨獣を絶対に生かして大西洋に逃がすな!」

 

『了解した!』白城の、いつになく荒々しく引き締まった声が返る。


「第七大隊は、これよりアーリア戦闘団を迎撃する!」一ノ瀬は、右腕のブレードを展開した。


「白城の部隊には、あの黒い鳥を一機たりとも近づけるな!」

 

『──ありがとう、一ノ瀬少佐。幸運を』

 

通信が切れた。

 

『──適切な、きわめて合理的な判断です。一ノ瀬少佐』

 

ハルテンベルクの声が、再び脳髄をあざ笑うように響いた。

『奇襲を受けておきながら、迅速で最適な戦力配置。合格点をあげましょう』

 

「……お前らの能書きは、いい加減聞き飽きた」

 

一ノ瀬は、スロットルを踏み込み、霧の中の「黒い影」へと零式二型改を突進させた。

 

『ふふ、つれないですね。しかし、今夜はゆっくり話す時間があります。クーメルが果たせなかったことを、私が引き継がせて貰いますよ』

 

白く煙るプエルトモントの海霧の奥、金色の電子眼を不気味に明滅させたアドラーの凶悪な爪が、一ノ瀬の網膜を一杯に満たしていった。

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