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50話 アーリア戦闘団を討て②

超大型潜水母艦『ルーデンドルフ』が、青いパナマの海を離れて再び暗黒の深海へと潜行したのは、大和の残骸が海底へ沈みきってから約六時間後のことだった。

深度、二百メートル。

敵の追跡が懸念される局面において、潜水艦の標準戦術手順は、推進動力を極限まで抑えた静粛微速運転へと移行することである。

だが、全長三百メートルを超えるこの異形の巨躯が抱える動力炉は、いくら静粛化に努めようとも放出するノイズの質量そのものが規格外だった。艦長は無駄な隠蔽を即座に破棄。通常のセオリーを冷酷に黙殺し、高出力でエンジンを回し続けることで、日英の追撃部隊との物理的な距離を引き剥がす決断を下していた。

その日の深夜、ハルテンベルクの自室の重厚な鉄扉がノックされた。

 

「──中佐、少々、お話したいことか」

 

「どうぞ、お入りください」

 

入室してきたのは、ルーデンドルフ艦長──ヴァルター・シュテルン親衛隊中佐であった。

三十代半ば。ヒトラー・ユーゲント出身の生え抜きで、実戦での叩き上げの技量というよりは、党および親衛隊中央への絶対的な政治的忠誠心によって今の地位に収まった男である。

普段は、正規軍の将校に対して傲慢不遜な態度を崩さない俗物だったが、今、その引き締まった顔には、これまで見せたことのない焦燥と緊張の陰が張り付いていた。

ハルテンベルクという、ライプニッツ研究所から生み出された「ファルゴルト計画」の最高傑作が持つ底知れない怪物性を、彼は親衛隊の極秘資料を通じて熟知していたからだ。

 

「……報告があります」

 

「伺いましょう」ハルテンベルクは、机の上の地峡マップから顔を上げずに言った。

 

「パナマを強襲した日本海軍の残存艦艇が、すでに本艦への追撃を開始した模様です。水上駆逐艦、および複数の対潜哨戒機による広帯域の複合捜索を展開中。──さらに」

 

シュテルンは、そこで一度、息を呑んで言葉を止めた。

  

「……主力特設空母『天鳳』が、本艦の予測針路である『マゼラン海峡』の方向に向けて、最大戦速で変針したという超長波の傍受情報が入りました。奴らは、我々が大西洋へ逃れるための脱出ルートを完全に読んでいる」

 

「……面白いですね」

 

ハルテンベルクの薄い唇から、微かな吐息のような言葉が漏れた。

シュテルンは、不審げに眉を跳ね上げた。「……面白い、と?」

 

「大和を海の藻屑にされ、空母を二隻も戦闘不能にまで追い込まれ、パナマは奪還したものの自慢の水門は消滅した。……その破滅的な戦況において、彼らはまだ、牙を剥いて追ってくる」

 

ハルテンベルクは、肉厚の丸窓の外、暗黒の深海で激しく明滅するプロペラの気泡を見つめた。

 

「日英の旧人類どもを動かしているのは、死んだ戦友への『感情』という名のノイズなのか、それとも地政学的な『戦略的判断』なのか。……いずれにせよ、彼らはきわめて往生際が悪いな」

 

「その『往生際が悪い連中』が、大和を沈められた狂気で追いかけてきている現状は、本艦にとって致命的な危機かと存じます」

 

シュテルンが乾いた声で言った。

 

「ええ。危機的状況であることは、否定しません」ハルテンベルクは平然と認めた。

シュテルンは喉を鳴らし、ようやく最も言い出しにくかった「本題」を切り出した。

 

「──実は、我が方の致命的な内情について、もう一つ。中佐に要請がございます」

 

「何でしょうか」

 

「……本艦は現在、蓄電池の残量、および推進燃料の補給が極めて窮迫した状態にあります。パナマでの全力奇襲作戦と、そこからの強行離脱に膨大なリソースを浪費しすぎた。このまま深海をマゼランまで直行すれば、海峡に辿り着く前に、海の中で完全に沈黙することになります」

 

ハルテンベルクの指先が、南米大陸の西海岸、チリの長く複雑な群島地帯をなぞった。 

 

「……チリ、ですか」

 

「その通りです」シュテルンは頷いた。

 

「チリ国内の複数の無防備な軍港に、帝国が水面下で整備していた潜水艦基地が存在します。そこで数時間だけ着岸し、燃料と予備パーツを積み込まねばならない。……ですが、あの施設は本来、小型のUボートが音もなく出入りすることを想定したものであり、本艦のような巨躯を晒せば、敵の哨戒機に露見するリスクは跳ね上がります」

 

「そしてその無防備な着岸の隙を、日本軍の一ノ瀬たちが確実に突いてくる、と」

 

ハルテンベルクは、まるで自分の脳内のシミュレーションをなぞるように言った。一ノ瀬、という名前が、彼の口から極めて滑らかに滑り落ちた。

 

「はい」シュテルンは顔を強張らせた。


「ご承知の通り、本艦は潜水母艦という特性上、対戦機防護火器は最低限しか搭載しておりません。着岸・補給中の防衛能力は、文字通りゼロに低下する。その最悪の瞬間、もし敵の戦機が襲来した場合、ハルテンベルク中佐。……貴方の『アドラー』を、直衛として飛ばして頂きたいのです」

 

沈黙が、ハッチの隙間を埋める湿った冷気のように落ちた。

シュテルンは内心で身構えた。ハルテンベルクがどう答えるか、彼には一切の予測がつかなかったからだ。

新人類たる彼らは、通常の親衛隊の階級秩序や上意下達の命令系統を逸脱した特権領域に属している。もし「くだらない」と判断されれば、この潜水空母を見殺しにして自分たちだけで離脱することすら、彼らならやりかねない。

 

「構いませんよ」

 

ハルテンベルクは、拍子抜けするほどあっさりと微笑んだ。

 

「……は?」

 

「停泊中の、港湾防空直衛任務ですね。わかりました、私たちが引き受けましょう」

 

シュテルンは大きく息を吐き出した。拍子抜けして一瞬口を半開きにしたが、すぐに親衛隊将校としての引き締まった表情を取り繕った。

 

「か、感謝いたします、中佐。……実は、この危険な要請をどのように切り出せば断られないか、ずっと胃を痛めながら考えておりましたので」

 

「難しく考えすぎです、シュテルン艦長」ハルテンベルクの灰色の瞳が、冷たく明滅した。

 

「このルーデンドルフがここで沈めば、私たちも、すべて太平洋の底に消え去る。……守るべき合理的な理由がある以上、私は喜んであなたの盾になりましょう」

 

「は、はあ……おっしゃる通りで」

 

「それに、もう一つ」

 

ハルテンベルクは、再び地図上のマゼラン海峡へと灰色の視線を落とした。

 

「一ノ瀬少佐が、あの『零式二型改』を駆って私を追ってくるのだとすれば──このチリの静かな海は、彼を清算するための、これ以上ない舞台になりますから」

 

シュテルンはその言葉の真意を測りかね、不気味さに背筋を震わせたが、ハルテンベルクがそれ以上語る気がないことを悟ると、一礼して退室した。

鉄扉が閉まった直後、シュテルンは冷たい金属壁に寄りかかり、小さく息を吐き出した。

 

(……とにかく、断られなかった。それだけで十分だ。あとは、あの化け物にすべて任せておけばいい)

 

それが、この『新人類』と関わってしまった旧人類の、唯一の処世術だった。


───

 

同刻、ベルリン──大ゲルマン帝国軍総司令部。

深夜の静寂に包まれた総長執務室に、副官のブラント少佐が静かに足を踏み入れた。

 

「──総長閣下。エクアドル沖を南下中の『ルーデンドルフ』より、最優先暗号電文が到達いたしました」

 

シェルナー元帥は、執務机に並べられた国防軍の機密書類からゆっくりと老いた顔を上げた。「……読め」

 

「アーリア戦闘団、およびハルテンベルク中佐の回収成功を報告。現在、燃料枯渇のためチリ沿岸への針路をとっており、接岸補給のための安全な秘密拠点の指定を仰ぎたいとのことです。候補地は三箇所。バルパライソ近郊の第一拠点、アンコンの第二拠点、プエルトモントの第三拠点」

 

シェルナーは、しばらくの間、微動だにせず書類を睨みつけていた。

 

「……お前に任せる」やがて、老帥は極めて低く応じた。「もっともらしく、適切な補給基地を一つ選んで返電してやれ」

 

「承知いたしました。では、ただちに暗号化し、超長波回線で返信いたします」

 

「『エニグマ』で送れ」

 

ブラント少佐の、キビキビとした軍靴の動きが、凍りついたように止まった。

 

「……閣下。失礼ながら、先月の作戦最高会議において、旧式のエニグマ暗号システムはすでに日英米の暗号解読機関に突破されている可能性がきわめて高いと報告され、新型の完全二重暗号への移行が完了していたはずですが。……その決定には、閣下ご自身も署名を──」

 

「エニグマで送れ、と言っているのだ、ブラント」

 

シェルナーは繰り返した。

その声は静かだった。怒気すら含まれていなかった。

しかし、それは三十年の軍歴の中で磨き上げられた、絶対的な、そして背後に悍ましい「奈落」を湛えた命令の形をしていた。

ブラント少佐は、シェルナーの顔を恐る恐る凝視した。

老元帥の双眸は、再び書類の文字へと戻っており、目の前に立つ自らの副官を「見る」ことすらしていなかった。

 

「……閣下。それは、つまり……」

 

「ブラント」シェルナーは書類をめくった。紙が擦れる乾いた音が、静かな部屋に不吉に響く。

 

「お前は、きわめて優秀で、話の早い私の副官だ。……だから、私が何を意図して、何を『望んで』いるのか、すでに骨の髄まで理解しているはずだ」

 

ブラント少佐は、喉を激しく上下させ、沈黙した。

約三秒。

彼は直立不動の姿勢をとり、胸が張り裂けんばかりの敬礼を捧げた。

 

「……承知いたしました。──ただちに、チリの補給座標を、エニグマ暗号にてルーデンドルフへ返信いたします」

 

「よし。下がっていいぞ」

 

ブラント少佐が退室した。

重い扉が閉まり、静まり返った廊下に出た瞬間、若き少佐は額ににじみ出た冷や汗を拭い、激しく息を吐き出した。


執務室の奥。一人になったシェルナー元帥は、椅子の背に深く身体を預け、目を閉じた。

窓の外には、サーチライトが夜空を交錯する、大ゲルマン帝国の帝都ベルリンの、冷酷な夜景が広がっている。

ハルテンベルク。クーメル。そして党官房のマイヤー。

ライプニッツ研究所の「システム」によって、遺伝子から最適化されて造り出された、傲慢極まる『新人類』たち。

彼らが戦場で大戦果を挙げ、帝国の救世主として崇められれば崇められるほど、国防軍が積み重ねてきた三世紀の誇りと、正規軍の絶対的な立場は、骨の髄から侵食されて形骸化していく。すでに北米総軍の指揮権はSSのファルケンに奪われ、陸軍の自立性は死に体だ。

 

パナマにおいて、ハルテンベルクが挙げた戦果は、確かに帝国史における最大級の奇襲劇だ。

大和の撃沈。第一機動艦隊の壊滅。

あの事実が世界中に知れ渡り、彼がベルリンに凱旋すれば、あの親衛隊中佐の名は「不滅の神話」となる。

不滅の神話となった英雄は、やがて伝統的な軍事システムそのものを、根底から破壊する『新たなる絶対権力』へと変貌するのだ。

だが──もし。

その不滅の英雄が、太平洋の敗戦から狂いかけた日英米の混成追撃部隊に補給地を暴かれ、マゼランの凍てつく深海で、哀れに沈み、消滅したとすれば、歴史の文脈は美しく書き換えられる。

シェルナーは、暗闇に向かって、冷酷な老将の笑みを漏らした。

 

「国家というものはな。制御不能なカリスマより、死せる英雄の方を愛するものなのだ。それにフューラーも、もう長くない。将来の不安要素は潰しておくに限る」

 

その老人の呟きを聞く者は、この部屋には誰も存在しなかった。

 

そして、シェルナーが意図的に「古いエニグマ」によってルーデンドルフへ送信させたチリ・プエルトモントの補給座標データ。

それが、遥か太平洋上を疾走する『天鳳』の通信室によって、完璧に解読・捕捉されたのは、それからわずか半日後のことであった。

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