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43話 レセップス作戦①

1953年7月7日、午前二時四十分。

大西洋と太平洋を結ぶ漆黒の海原を、灯火を一切遮断した大日本帝国海軍『第一機動艦隊』が、音もなく滑るように進んでいた。

超弩級戦艦『大和』の巨大な艦橋から見渡す水平線はただただ暗く、頭上の満天の星々だけが、これから始まる地獄を冷たく見下ろしている。

作戦名──『レセップス』。

かつてフランス人技師フェルディナン・ド・レセップスが私財と無数の人命を投じて開削を試み、挫折したパナマ運河。その「運河を創ろうとした男」の名を、今度は「運河を奪還する大規模強襲作戦」に冠する。日英米の共同参謀部が選んだ、極めて皮肉の利いた、そして不退転の決意を込めた命名だった。

 

──午前三時十二分。

洋上に浮かぶ巨大な滑走路。空母『天城』および『葛城』の飛行甲板から、青白いプラズマの光条を噴き出しながら、六式戦機空戦仕様の第一波が夜空へと次々に吸い込まれていった。

目標は、パナマシティ西方に設置された独軍の防空レーダー要塞、および主要な通信中継局四箇所。

地峡を支配するドイツ軍の防空網は強固だったが、太平洋を我が庭として訓練を重ねてきた日本海軍空母搭乗員の技量は、その設計上の防衛閾値を遥かに凌駕していた。奇襲開始からわずか十八分。独軍の目と耳であったレーダー網は、爆煙と共に完全なる沈黙を強いられた。

 

──午前五時、夜明けの直前。

白城翔一少佐率いる第一陸戦大隊が、太平洋側の泥濘の沿岸へと一斉に上陸を開始した。

その右翼には、合衆国連邦軍リー大佐が駆る第一戦機師団の重厚な装甲群が並ぶ。

パナマシティの防衛を実質的に担っていたのは、独軍ではなく、アリアス大統領が急造した「パナマ共和国軍」の守備隊であった。ドイツ軍の主力は運河地帯の要塞群に完全に籠もっており、都市部という「外殻」の防衛は現地軍に丸投げされていたのだ。

旧式の装備、低い練度。そこへ、海上から突如として襲いかかった日英米の精鋭による立体侵攻。共和国軍の防衛線は、戦う前から雪崩を打って瓦解した。

 

午前九時、港湾地区を完全制圧。

午後一時、鉄道ターミナルを遮断。

午後三時、大統領府前広場に、星条旗と日英の軍旗が翻る。

 

路地裏からの散発的な銃撃や、廃ビルの陰からの狙撃こそあったが、それは組織的な戦闘とは呼べない、絶望した兵士たちの悪あがきに過ぎなかった。白城は民間人の巻き込みを極限まで避けるため、一棟ずつ執拗にクリアリングを行い、降伏する者は国際法に基づき即座に保護した。

日没を迎える頃には、パナマシティの心臓部はすべて同盟軍の軍靴の下にあった。

 

アリアス大統領は夜明け前にすでに大統領府を脱出しており、その消息はこの日、誰にも掴めなかった。

初日の損害は、白城大隊に三機の中破、米軍師団に四機の全損。いずれも乗員は生還。

文字通りの「大勝利」であった。

だが──前線に立つ将校の中で、これを真の勝利と呼ぶ者は、ただの一人も存在しなかった。

街は奪い返した。しかし、最優先目標である「パナマ運河」は依然としてドイツ帝国の掌中にあった。

運河を包み込む鬱蒼とした熱帯の密林には、多数の独軍戦機が息を潜めている。捕虜となったパナマ軍将校の口からは、あのカナダで日英軍を恐怖のどん底に陥れた「アドラー」の不気味な影が、この緑の地獄にも多数配備されているという情報がもたらされていた。

都市占領は、ただの豪華な幕開けに過ぎない。

 

翌朝、上陸を完了した一ノ瀬らは、新造された『零式二型改』のエンジンを咆哮させ、湿気と死臭の立ち込める緑の深淵へと、静かに歩みを進めていった。


───

 

同じ頃。パナマ運河地帯の最深部、分厚い鉄筋コンクリート処理された独軍の堅牢な地下前線指揮所。

そこは、パナマシティから逃げ惑うように這いずり込んできたアリアス大統領の、怒りと屈辱に満ちた絶叫によって満たされていた。

 

「──なぜだ! なぜ我が国の首都を、あの黄色い猿どもにこうもあっさりと明け渡したのだ!」

 

アリアスは、泥と脂汗にまみれた顔を歪め、執務机に両拳を激しく叩きつけた。バン、と乾いた衝撃音が響き、並べられた軍用マップが激しく踊る。

大統領としてのプライドはズタズタに引き裂かれ、血走った眼球は怒りで激しく震えていた。

指揮所の中は薄暗く、エアコンの冷気と密林特有の濃密な湿気が不気味に混ざり合っている。

周囲に並び立つドイツ国防軍の将校たちは、彫刻のように無言のままだった。アリアスの政治的後ろ盾であったはずのクネヒト少将すら、居心地悪そうに視線を泳がせ、一言も発しようとしない。

 

「我がパナマの首都が、わずか一日で落ちたのだぞ! 貴様らは、冷房の効いたこの穴蔵で一体何をしていたのだ!」

 

アリアスはハルテンベルクの胸元へ詰め寄り、その細い襟首を掴みかねない剣幕で叫び続けた。

 

「我々は、大ゲルマン帝国と『相互安全保障協定』を結んだはずだ! パナマを、我が祖国をアメリカの魔の手から守り、真の独立を保障すると約束したのは、ベルリンの総統閣下ではないのか!」

 

だが、アリアスがどれほど声を枯らし、激情をぶつけようとも、机の前に座るハルテンベルクは微動だにしなかった。

彼はアリアスを「見ること」すらせず、ただ卓上のホログラム戦術マップに静かに目を落としていた。激昂する一国の大統領の声を、あたかも雨粒が窓を叩く退屈な「環境ノイズ」として聞き流しているかのようだった。

 

「……大統領閣下」

 

やがて、ハルテンベルクが低く、全く起伏のない声を漏らした。だが、視線はマップに固定されたままだ。

 

「少々、お黙りください」

 

「黙れ、だと……! この私に向かって、何という無礼を──!」

 

「作戦座標の確認を行っております」ハルテンベルクは、アリアスの激昂を冷酷なまでに遮った。


「それが終わってから、あなたの質問にお答えします。静かに」

 

「うぐ……っ!」

 

アリアスは喉を詰まらせ、言葉を失った。激しい怒りで血圧が上がり、視界が真っ赤に染まる。

他国の支配を排し、真の独立を勝ち取ったはずのパナマ共和国大統領が、弱冠二十代の中佐に、まるで出来の悪い野犬をあしらうようなトーンで「静かにしろ」と切り捨てられたのだ。その圧倒的な屈辱に、アリアスの全身が小刻みに震えた。

約三十秒の後。

ハルテンベルクは、ようやく満足したようにマップから顔を上げた。

 

「まず、事実を申し上げましょう。閣下。パナマシティの防衛は、当初から我が軍の作戦計画には含まれておりません」

 

「……何、だと?」

 

アリアスは耳を疑った。顎ががくがくと震える。

 

「パナマシティの防衛主体は、パナマ共和国軍である──協定にはそう取り決められています。彼らが侵攻初日で戦意を喪失し、自ら防衛線を放棄して瓦解した。それは純粋に、あなた方の統治能力と軍事的な無能の問題です。……我が帝国軍の問題ではない」

 

アリアスは、一歩踏み出した。彼の額から、屈辱の脂汗が滴り落ちる。

 

「それが……命を預け合うべき同盟国に対する態度か! 我々を欺いたのか、ハルテンベルク!」

 

「欺く? いいえ、とんでもない」

 

ハルテンベルクは、氷のような灰色の瞳でアリアスを見つめた。

 

「条文をご確認ください。大ゲルマン帝国は『パナマ運河地帯』の絶対防衛を担う、とだけ明記されている。パナマシティの主権や防衛に関する記述など、どこにも存在しませんよ。我々は、自らの条約義務を完璧に遂行しているに過ぎない」

 

アリアスは息が止まりそうになった。条文の細かな文言を思い出そうとしたが、パニックに陥った脳髄は何も返さなかった。そしてハルテンベルクは、アリアスがそこまで頭の回らない無能であることを、最初から完璧に計算し尽くしていた。


「閣下」

 

ハルテンベルクは静かに立ち上がった。漆黒の親衛隊制服の皺をゆっくりと伸ばし、巨大な戦術マップの前へと歩み寄る。

 

「我々がパナマを守る気がないとお思いなら、それは大いなる誤解です。……ただ、我々には合理的な『優先順位』があるだけです」

 

「優先順位……だと? 我が国民の命よりも、優先するものがあるというのか!」

 

「当然です」

 

ハルテンベルクは平然と言い放った。

 

「我々大ゲルマン帝国が今この瞬間、本当に欲しているものは何か──閣下は、お分かりですか?」

 

アリアスはハルテンベルクを睨みつけたまま、荒い呼吸を繰り返した。

 

「運河ではありませんよ」ハルテンベルクは薄い唇を歪めた。


「正確には、運河というただの水路だけでは不十分なのです。我々が真に欲しているのは、太平洋と大西洋の全域を完全に支配する『無制限の制海権』だ。そのためには、邪魔な障害物をここで一掃しなければならない」

 

「邪魔な、障害物……」

 

ハルテンベルクの細い指先が、マップ上の太平洋沖合をトントンと叩いた。そこには、小さなホログラムで、いくつかの艦艇のアイコンが明滅している。

 

「あの艦隊です。戦艦『大和』を旗艦とする、日本海軍の第一機動艦隊。あの小賢しい劣等人種どもが構築した唯一の脅威がこの海にある限り、我々がパナマ運河を死守したところで、海の覇権は完成しない」

 

アリアスは、地図に映る『大和』の不気味なシルエットを見つめた。

 

「我々は今、彼らに『運河』という最高のエサを追いかけさせているのです」

 

ハルテンベルクの声が、冷徹な愉悦を帯びて囁かれた。

 

「日本軍を、この鬱蒼とした緑の地獄へ誘い込み、泥まみれの地上戦に釘付けにする。どれほど優秀なパイロットであっても、この複雑な密林の中では本来の力を発揮できません。──そして彼らの意識が完全に地上へ奪われているその瞬間に、最も予期せぬ、最も彼らが恐れていない方向から、あの艦隊の喉元へ必殺の痛打を浴びせる」

 

「……どうやって、あの大艦隊を沈めるというのだ」

 

アリアスは、ハルテンベルクの狂気じみた合理性に圧倒されながら、掠れた声で訊ねた。

ハルテンベルクはふっと笑みを消し、その反射光のない灰色の瞳で、アリアスの顔を真っ直ぐに、深く見つめた。

かつて、ワシントンでヒューイ・ロング前大統領の精神を、その言葉だけで完全に崩壊させた時と、まったく同じ「死神」の眼差し。

 

「それは、まだお教えできません。ただ──その絶対的な奇襲計画の成就には、大統領閣下。……あなたと、あなたに付き従うパナマ共和国軍の、命懸けの協力が必要不可欠なのです」

 

アリアスは、蛇に睨まれた蛙のように、その灰色の瞳から視線を逸らすことができなかった。

自分が勝ち取ったはずの「独立」という甘い蜜が、今や、自国を巨大な生贄の祭壇へと捧げるための、最も残酷な毒薬へと変わっていくのを、彼は吐き気を伴う恐怖と共に理解し始めていた。

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