42話 新たなる戦場④
1953年6月、カリフォルニア州北部。
そびえ立つレッドウッドの巨木が天空を覆う、薄暗い国有林の外縁部。そこに、第七独立戦機大隊の臨時訓練基地がひっそりと設置されていた。
太平洋から絶え間なく流れ込む濃密な湿気を含んだ海霧が、巨大な針葉樹の根元を、這うような速度で白く濡らしていく。
「──あちぃ。いや、暑いっていうか、蒸し風呂だろこれ」
七宮が、コンソールに向かって耐えかねたように毒づいた。
機内の環境維持システムは最大出力で稼働しているはずだったが、肺腑にまとわりつくような外気の湿気までは完全には遮断できていなかった。
「カナダの雪原が、早くも恋しくなりますね……」
舞草が、不快そうに呟いた。制服の背中は、訓練開始から一時間もしないうちに、べっとりと汗で貼り付いている。
「ここはまだ、乾いたカリフォルニアだ」桐島が、自機の計器類を冷徹にチェックしながら割り込んできた。
「現地パナマの湿熱は、この比ではないと上層部の報告書にはある」
「……できれば、耳を塞いでおきたかった情報ですね」七宮がため息を漏らす。
訓練は、黎明の直後から休むことなく続けられていた。
樹木が密集する森林地帯での限界機動。赤外線や熱源センサーが乱反射する環境下での超至近索敵。そして、鬱蒼と生い茂る樹冠のわずかな隙間を利用した、極低速でのホバリング戦闘。
それらはすべて、これまで一ノ瀬たちがカナダの平原で磨き上げてきた、障害物のない広大な冬の平原での戦術ドクトリンを、根底から全否定するような過酷な適応訓練だった。
一ノ瀬は、巨木群を見下ろす岩頭に『零式二型改』を静止させ、高台から大隊の挙動を凝視していた。
露呈した問題は、あまりにも致命的だった。
第七大隊が培った戦術は、「視界が極めて広く、地形起伏が単純な土地」を前提として構築されている。長距離電磁砲による遮蔽物越しの狙撃、あるいは稜線を利用した一撃離脱戦法。
だが、この密林ではその牙が通用しない。
何百年もの歳月をかけて育った巨木の幹が物理的な障壁となり、自慢の長距離射線は通らない。複雑に入り組んだ枝葉のせいで、大隊全体の戦術リンクも容易に分断され、互いの位置すら見失いかねなかった。
「──鹿嶽」
一ノ瀬は、眼下の深い樹海の底で、重苦しい金属音を立てて身を翻した鹿嶽の六式へと非公開回線を開いた。
「何だ、少佐」
「前方を行く南の機動はどうだ」
「技術そのものは悪くない。だが、木々との接触を極度に恐れている。切り株や幹の隙間を縫う際、目に見えてスロットルを戻しすぎる。慎重さが仇になり、機動が死んでいるな」
「桐島は」
「あれは別格だ。カナダの山岳地帯でも思ったが、あの男は不規則な地形形状に対する空間認知と適応が異常に早い。まるで最初から、戦争を戦うために生まれてきたようなやつだよ。あいつは」
『──一ノ瀬少佐』
不意に、コンソール横の電磁シールドボックスに、技術官の鶴木から通信が入った。
『各機のリアルタイム・テレメトリから、電子系統のデータが上がりました。報告します』
「言え」
『懸念していた通り、この濃密な湿気が、機体の繊細なセンサーアレイに深刻なエラーを誘発しています。光学センサーのレンズ曇りだけでなく、ミリ波レーダーの減衰率が予測値の倍に達している。防湿シーリングの補強を急ぎますが、完全な遮断は物理的に不可能です。本番のパナマはここよりさらに湿度が高く、泥濘も深い。実戦では、かきかや索敵センサーは半ば「使い物にならない」と前提しておく必要があります』
「……計器ではなく、己の肉眼で戦え、ということか」
『ええ。旧時代的ですが、それが一番確実です』
一ノ瀬は、再び巨木が並び立つ鬱蒼とした森を見つめた。
海霧が微かに薄れ、差し込んできた鋭い木漏れ日が、湿った地面に不気味な斑模様を描き出している。
「全機、高台の開墾地に集結させろ。ミーティングを行う」
巨木に囲まれたわずかな空き地に、泥に汚れた戦機たちがエンジンをアイドリングさせながら並んだ。一ノ瀬は、コックピットからホログラム回線を開き、円陣を組む大隊員たちの顔を見つめた。
「今日の訓練を終えて、各自、密林戦における最大の障壁がどこにあるか理解できたか」
重苦しい沈黙が、エンジン音の低音に混じる。桐島、浅見、そして副長の鹿嶽は、意図的な沈黙を保ち、若い新兵たちの発言を待っていた。
やがて、坂巻が少しの間を置いてから、スピーカー越しに発言した。
「……索敵能力が極限まで制限される。つまり、最初から森の陰に潜み、相手が近づくのを待っている『待ち伏せ側』が、圧倒的な先制権を握ることになる、と痛感しました」
「その通りだ」
一ノ瀬は静かに頷いた。
「これまで俺たちが戦ってきたカナダは、視界さえ確保できれば、敵がこちらを視認するのとほぼ同タイミングでこちらも敵を捕捉できた。だが、パナマは違う。この湿った緑の天蓋の下では、肉眼でもセンサーでも、互いに身を隠すための無限の『死角』が存在する。──一瞬でも早く相手を発見し、銃口を向けた側が、その戦闘の勝敗を一方的に支配する」
「……だったら、俺たちみたいな侵攻側はどうすりゃいいんですか」
七宮が、遮るように言った。その声には、理不尽な死地に対する、剥き出しの焦燥が混じっている。
「守備側はただ、森の陰で息を殺して俺たちが近づくのを待てばいい。でも、攻め込む側の俺たちは、泥を踏んで前に進まなきゃいけない。進む以上、必ず足音や排熱で、先に相手に補足される。その状況を覆す、何か画期的な戦術でもあるんですか、大隊長」
一ノ瀬は、ディスプレイに映る七宮の焦りを含んだ瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「正直に、戦場の現実を言おう。七宮、お前の言う通りだ。それに対する答えなど、どこにも存在しない」
七宮が言葉を失い、通信回線が急激に凍りついた。
「密林における攻勢作戦は、本質的に不利を強いられる。待ち伏せ側が絶対の優位を握るという鉄則は、いかなる最新の超技術を用いても覆らん。それを一瞬で解決するような、都合のいい魔法の戦術は存在しないんだ」
「では……」南が、歯を食いしばるようにして割って入った。
「俺たちは、何を訓練すれば」
「慣れるしかない」
一ノ瀬は、冷徹極まるトーンで、二人の問いを叩き潰した。
「この息の詰まる緑の闇を、機体の一部として動かすことに慣れる。樹冠の下の暗がりに、自らの気配を完全に同化させることに慣れる。センサーが死に、FCSがただの砂嵐を返す環境で、自らの剥き出しの肉眼だけで敵の輪郭を捉えることに慣れる。そして何より、近接遭遇戦の理不尽に、己の肉体を適応させるんだ」
「近接遭遇戦……ですか」舞草が、細い声を上げた。
「木の陰、あるいはブッシュを回り込んだその一瞬、突如としてゼロ距離に敵が現れる状況だ」一ノ瀬は言った。
「カナダでは、敵を捕捉してから交戦シーケンスに入るまで、少なくとも数秒から数十秒の、思考を挟む猶予があった。だが、パナマでは違う。視認したその瞬間には、すでに互いのトリガーが引き絞られている。──考えるより早く、肉体が『反射』で最適な一撃を叩き込めるようになるまで、この森で体を擦り切らせる。近道はない」
「……結局は、反吐が出るほどの数をこなせ、ということですね」
坂巻が、自嘲気味に呟いた。
「そうだ」一ノ瀬はスロットルに手を戻した。
「一ヶ月。パナマへの船団が出るその瞬間まで、ここで訓練を続ける」
『──まあでもさ』
通信に、浅見の、どこかふてぶてしくも頼もしい声が滑り込んできた。
『作戦が始まる前の段階で、これだけ自分たちの不器用な弱点がはっきりと見えているのは、逆に幸運だと思わない?』
「どういう意味ですか、中尉」七宮が怪訝そうに訊ねる。
『本番の泥濘の中で、初めて手足をもがれて気づくよりは、よっぽど安上がりだって言ってるのさ』
浅見は、シートの背にもたれかかるようにして、遠い森の奥を見つめた。
『カナダの、あの最初の撤退戦の夜を思い出しなさい。あの時、私たちはアドラーという想定外に、何一つ準備ができないまま戦場に放り出され……大切な同僚を失った。だけど今回は違う。私たちは、自分たちがどうやって殺されかけるのかを、あらかじめ正確に理解して地獄へ行けるのよ』
誰も、その言葉を遮ることはできなかった。
伏野という、失われた戦友の名前は誰の口からも出なかった。だが、その場にいる全員の脳裏に、あの雪原で燃え尽きた『六式』の、悍ましい最期の光景が鮮烈に蘇っていた。
今度は、誰も死なせない。生き残るために、この泥をすする。その無言の決意が、訓練場を不気味なほど引き締めていく。
「──午後の訓練を再開する」
一ノ瀬は、零式二型改のプラズマジェットを咆哮させた。
「近接遭遇を想定した、五十メートル圏内での瞬間反射交戦を繰り返す。射線を整える暇などない。敵の機影が網膜に映った瞬間、スラスターとブレードを同期させろ。……桐島、お前がまず手本を見せろ」
『了解』
桐島の短い了解とともに、彼の六式が、まるで最初から森の影であったかのような滑らかさで、レッドウッドの暗闇へと音もなく消え去っていった。
たちまち、霧が深さを増し、巨木たちの輪郭を、冷酷に白く滲ませていく。
パナマの地獄の蓋が開く、七月の決戦まで、残された猶予は、もう一ヶ月を切っていた。




