41話 新たなる戦場③
パナマ共和国。
面積は日本の北海道ほど。人口は百万にも満たない中米の小国。
だが、元はコロンビアの構成州の一つにしか過ぎなかったこの国は、その細くくびれた国土を縦に貫く一本の泥の割れ目によって、いや応なしに世界帝国の覇権争いの中心へと引きずり込んでいた。
パナマ運河。
全長八十キロメートル。
大西洋と太平洋を繋ぐこの巨大な人工水路は、一九一四年の完成以来、世界の海運地政学を根底から書き換えた。南米大陸の最南端、荒れ狂うマゼラン海峡を命懸けで迂回する必要がなくなったことで、世界の物流・軍事展開の速度は爆発的に向上した。
石油タンカーが通り、巨大な軍艦が通り、無数の商船が通る。その通行料こそが、このちっぽけな共和国の国家収入の、文字通りの背骨であった。
だが──その運河を管理・運営し、実質的な「地主」として君臨していたのは、パナマ人ではなくアメリカ合衆国であった。
一八九〇年代、アメリカの強大な軍事力を背景にコロンビアから「独立させられた」パナマに対し、ワシントンは運河建設の代償として、運河地帯の永久租借権と、そこにおける事実上の主権を強奪した。パナマ共和国は、自らの領土の心臓部を真っ二つに引き裂くように、合衆国の星条旗が翻る「運河地帯」という占領地を抱えたまま、半世紀に及ぶ屈辱の時を過ごした。
この不条理な隷属に対し、誰よりも激しい怒りとナショナリズムを燃やしていた男がいた。
現パナマ大統領──モルビル・アリアス。
一九四〇年に大統領へ就任したアリアスは、徹底した「パナマ第一主義」を掲げた。
パナマはパナマ人のものだ。ならば、その肺腑を流れる運河もまた、パナマ人の血肉に帰すべきである。
彼はワシントンに対し、不平等極まる運河条約の改定を幾度も激しく迫った。だが、当時のホワイトハウスは小国の大統領の悲鳴など端から一顧だにしなかった。国際外交の盤面において、アリアスはただの砂粒に過ぎなかったからだ。
アリアスは牙を研ぎ、怒りと屈辱を胸の底に溜め込みながら、絶対の「機」を待ち続けた。
そして、その機は世界を焼き尽くす第三次世界大戦という形で到来した。
ロング大統領の「乱心」によって連邦政府の指揮系統が崩壊し、大ゲルマン帝国の軍靴が北米東部を侵食していく未曾有の混乱の最中、アリアスは引き金を引いた。
かねてより水面下で接触していた大ゲルマン大使と密約を交わし、帝国の物資支援を受けて、無防備となっていた運河地帯の米軍守備隊を急襲したのだ。退路を断たれた守備隊は、一週間の戦闘の末に白旗を掲げた。
運河は、ついにパナマ人の手に戻った。
アリアスは国営ラジオを通じ、熱狂する国民に向けて高らかに宣言した。
「今日この日、我が同胞を緊縛していた半世紀の屈辱は終わった!」
国民は歓喜に沸き返り、アリアスを英雄と崇めた。大ゲルマン帝国との間に交わされた「相互安全保障」の細かな条件や、裏で交わされた主権の切り売りについては、巧みなプロパガンダによって美しく覆い隠されていた。
だが。いま、大統領府の窓から見つめる太平洋の果て、うららかな五月の陽光を浴びる水平線に、アリアスは「不吉な鋼鉄の影」を見出していた。
「日本の機動艦隊が、カリフォルニアのサンフランシスコに入港しました」
側近の、冷え切った報告が執務室に響いた。
アリアスは卓上の地図に目を落とし、サンフランシスコからパナマ地峡へと伸びる海路を、自らの震える指先でなぞった。
日本連合艦隊の主力。あの世界最大を謳う超弩級戦艦『大和』を擁する第一機動艦隊が西海岸に常駐したということは、彼らが次なる牙を、このパナマへと向けてくるのは地政学上の自明であった。
大ゲルマンとの協定に基づき、運河の防衛は独軍が引き受けることになっている。
実際、パナマシティには大ゲルマン軍の前線将校が駐在し、運河の各水門には最新鋭のレーヴェや防空戦機が展開していた。
だが、アメリカという「目に見える強欲な支配者」を追い出した後に引き入れた、この「不気味な大帝国」は、本当に自分たちの味方なのだろうか。アリアスは最近、その疑念に夜も眠れぬ日々を過ごしていた。
「大統領」側近が言葉を濁しながら続けた。
「駐パナマの独軍司令部より、緊急の防衛体制強化に関する協議を行いたいと、要請が来ております」
「わかった。……明日の午前に、こちらへ招く」
だが一時間後に、大統領府に届けられた書簡の文面には、アリアスの発言を完全に無視するように、ただ一行、こう記されていた。
『本日の午後二時。旧運河地帯庁舎の独軍司令部にお越しいただきたい』
アリアスは書簡を握りつぶし、苦渋に満ちた表情で眉をひそめた。
国家の元首が「明日にしろ」と命じたにもかかわらず、相手は時間と場所を指定して呼びつけている。これは外交上の招待などではない。
「主人が、飼い犬を呼びつける『召喚』だ」
側近が顔を青ざめさせ、恐る恐る訊ねた。「……いかがなさいますか」
「……行く」アリアスは吐き捨てた。
「行かないという選択肢など、今の我が国に用意されていないことくらい、私が一番よく知っている」
旧アメリカ運河地帯庁舎。
大ゲルマンがパナマを実質的に軍事掌握して以来、この重厚な石造りの建物は、北米総軍南方司令部の『前進基地』として機能していた。
かつて合衆国の星条旗が誇らしげに掲げられていた玄関ポーチには、今や、大ゲルマン帝国の冷酷な黒鷹旗が重々しく垂れ下がっている。
アリアスが護衛を外され、案内された最奥の特別会議室には、すでに数人の軍人が席を占めていた。
在パナマ大ゲルマン軍の将官たちだ。アリアスもよく知る、ヴァルター・クネヒト少将の姿もあった。パナマ運河防衛司令官。五十代後半、堅牢な城壁を思わせる四角い顎を持ったプロイセン気質の軍人であり、これまで何度も実務的な交渉を重ねてきた男だ。
だが、そのクネヒトの隣に座る、もう一人の将校にアリアスの目は釘付けになった。
異様に、若かった。
二十代半ばにしか見えない。透き通るような金髪を完璧に抚でつけ、国防軍の緑ではなく、漆黒の親衛隊の制服を非の打ち所なく着こなしている。
胸元には、一介の青年には不釣り合いな重みを持つ勲章が鈍く光っていた。階級章を見る限り、クネヒト少将よりも遥かに格下であるはずの「中佐」に過ぎない。
だが、その少年の座り方が、アリアスの本能的な警戒心を激しく刺激した。
上座の席ではない。しかし、その部屋にいる誰もが彼を中心に呼吸しているような、絶対的な支配者としての佇まいで椅子に深く腰掛けていた。
あの頑固なクネヒト少将が、まるでその若者の「従者」であるかのように、一歩引いた位置で畏まっているのだ。
「──大統領閣下。お忙しい中、我々の要請に応じていただき、心より感謝申し上げます」
立ち上がってアリアスに手を差し伸べたのは、クネヒト将軍ではなかった。
その、黒い制服の青年だった。
流れるように美しいスペイン語。ラテンアメリカのどの地域にも属さない、非の打ち所がない完璧に均一な宮廷発音。
「ハルテンベルクと申します。北米総軍司令部派遣参謀として、ファルケン上級大将閣下のご命令を携え、このパナマの防衛を統括するため参りました」
アリアスは、冷え切ったその細い手を握りながら、青年の階級章を凝視した。
やはり、中佐だ。
大ゲルマン帝国は、一国の大統領を呼びつけるための特使として、少将でも中将でもなく、弱冠二十代の中佐を派遣してきたのだ。
アリアスは長年鍛え上げた政治家の仮面を崩さなかった。だが、その胸中には、氷の楔を突き立てられたような寒気が走り抜けていた。
「どうぞ、おかけください」ハルテンベルクは言った。まるで、この大統領府から奪い取った執務室の「真の主人」として、迷い込んだ客人を迎えるかのように。
クネヒト少将は完全に沈黙を守っていた。
アリアスが助けを求めるように少将へ視線を走らせると、老将はただ、恥辱を耐え忍ぶようにわずかに目を伏せた。
この部屋で決定権を握っているのは、私ではない。その老いた双眸は、無言でそう絶叫していたようであった。
アリアスは、重い腰を椅子に下ろした。
「早速ですが、本題に入りましょう」
ハルテンベルクは、手元のフォルダーを開くこともなく、メモに目を落とすことすらなく、ただその灰色の瞳を真っ直ぐにアリアスに向けて語り始めた。
「日英米による三国同盟の成立。そして、カリフォルニアへの第一機動艦隊の入港。……これらのデータを統合するに、敵連合軍がこのパナマ運河を次なる最優先攻勢目標として定義していることは、もはや確実です。そこで、当戦域における防衛体制の『合理的再編』のため、大統領閣下には、いくつかの項目についてご協力を頂きたい」
極めて丁寧で、優雅な声音。
だが、その「ご協力」という単語の響きが、事実上の「絶対服従の命令」であることを、アリアスが聞き違えるはずもなかった。
アリアスは、ハルテンベルクの顔を凝視した。
その灰色の瞳は、アリアスという人間を、パナマという国家を、まるで温かみのある生命体としては捉えていないようだった。
はるか遠くの、冷徹なシミュレータの奥から、チェス盤を眺めているような、非人間的な視線。
そこには、アメリカ人たちが持っていた「下俗な強欲さ」や「支配の傲慢さ」といった、人間的な感情すら存在しなかった。ただ、数式のような最適化された冷徹さだけが、そこにあった。
「……具体的に、我が国に何を求められるのか」アリアスは、乾いた喉から声を絞り出した。
ハルテンベルクは、薄い唇の両端をほんの僅かに釣り上げた。笑みというには、あまりに体温の感じられない筋肉の運動だった。
「いくつかお伺いしたいことがありすので、順番に確認させて下さい」
本格的な軍事会議が始まった。
議題は、防備増強と現地徴用、そして運河水門の共同管理についての話だった。
だがアリアスには、目の前の若い男が提示している本当の議題が、別の深淵にあるような気がしてならなかった。
この、人間と同じ皮膚と髪を持った化け物は何者なのか。
なぜ、歴戦のクネヒト将軍がこの若造の傍らで怯えたように沈黙しているのか。
そして。なぜ、この男の瞳の奥には、光が反射していないのか。
アリアスは大統領としての嘘を並べ、質問に答えながら、自らの脳髄の奥で、決して声にできない恐怖の問いを、何度も、何度も繰り返し続けていた。




