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40話 新たなる戦場②

夜のサンフランシスコは、まるで東部での戦争など知らないような、白々しい平時の仮面を被っていた。

通りの窓からは色とりどりのネオンが溢れ、ジャズの艶やかなサックスの音が、湿った潮風に混じって路地から漏れ出ている。

 

三ヶ国(日米英)の軍服を着た若者と、華やかなドレスを纏った市民が入り混じって歩く。東では今も何万もの命が削り取られている現実を知りながらも、この街だけは「平和」という名の、いつ剥がれ落ちてもおかしくない薄皮を大事そうに被り続けていた。

一ノ瀬が白城に連れてこられたのは、マーケット通りから一本外れた、裏路地の片隅に佇む小さなバーだった。

 

重厚な木製のカウンターと、使い込まれて角の丸くなった革張りの椅子がいくつか。客はまばらで、騒がしいネオンの喧噪はここまでは届かなかった。

白城翔一は、奥の薄暗いテーブル席に先に来て、一人でグラスを傾けていた。

 

「来てくれて、本当に良かった」

 

一ノ瀬の姿を認めると、白城はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべ、軽く手を上げた。

 

「……随分と渋い店を知っているな。お前の行きつけか」一ノ瀬は向かいに腰を下ろしながら、周囲を見回した。

 

「前の大戦が終わった後、短い期間だがここでの駐在武官時代に、好んでここに寄っていた。ここのバーテンダーは寡黙で、軍人の詮索をしない」

 

やってきた年老いたバーテンダーに、一ノ瀬はバーボンをストレートで頼んだ。

 

「オンタリオの廃墟じゃ、『これで貸しは帳消しだ』と言って退がったはずだが」一ノ瀬は白城を見つめた。

 

「まだ、俺に何か用でもあるのか」

 

「用があるから呼んだわけじゃないさ」

 

白城は薄く笑い、琥珀色のグラスを傾けた。

 

「純粋に、もう少しあなたと話がしたくてね。よく考えたら、我々はいつも煤まみれの戦場で、互いに死にかけながらしか言葉を交わしていないだろう?」

 

「戦場で生きて会えているだけ、上等な部類だ」

 

「確かに。まったく、その通りだな」

 

運ばれてきたバーボンのグラスを、二人は静かに合わせた。氷の触れ合う乾いた音が、静かな店内に小さく響く。

しばらくは、お互いの他愛のない話が続いた。白城の瀬戸内での幼少期、陸戦兵団に自ら志願した経緯、前大戦でのブリテン島での泥塗れの記憶。白城は本来聞き上手なのだろうが、相手の懐に入り込み、言葉を引き出すのが天才的に上手かった。一ノ瀬は、自分が若輩の頃に旧零式を初めてあてがわれ、そのあまりの敏感さに手こずった話を、いつの間にか自嘲気味に語っていた。

二杯目のグラスが運ばれてきた頃、白城が不意に、声をトーンを一段階落とした。

 

「……ここからは、極めて内密の話だ。一ノ瀬少佐」

一ノ瀬はバーボンを置いた。「聞こう」

 

「今日、調印式の裏で、日米英の高級軍人たちによる非公式の作戦会議が行われた。そこで、決定的な『次期攻勢目標』が定義された」

 

「パナマだな」と、一ノ瀬は言った。

 

白城は、驚いたように僅かに目を細めた。「どこでそれを掴んだ」

 

「見当はついていた。昨日、金門橋の下を通って入港してきたあの馬鹿げた『大和』の艦隊を見た時からだ。第一機動艦隊をわざわざ大西洋に近いこの海域まで引っ張ってきて、力ずくで奪いたい要衝なんて、北米にはそこしかない」

 

白城はしばらく呆気にとられたように一ノ瀬を見つめていたが、やがて、心底嬉しそうに肩を揺らして笑った。

 

「さすがだな、幽霊大隊の大隊長は。伊達に幾多の死線から生還していない。……そうだ。我々の次の進路は、パナマ運河の強行奪還だ。作戦期日は、七月。残された時間は少ない」

 

「主攻は、お前たち陸戦兵団か」

 

「形の上ではね。合衆国臨時政府のメンツを立てるため、先陣を飾るのはリー大佐率いる米第一戦機師団だが、実質的な切り込み役として、私の第一大隊がその泥水を吸いに行く。あなたの第七大隊も、すでに参加が決定している」

 

一ノ瀬は、氷が溶けて少し薄まったバーボンを静かに見つめた。

 

「……カナダの雪原とは、まるで勝手が違うな」

 

「ああ、まったく違う。熱帯の濃密な密林、呼吸すら奪う高熱多湿。寒冷地で我々が培ってきた戦術は、あの泥濘の中じゃ機能しないだろう」

 

「お前たちの兵団は上陸戦のプロだが、ジャングルの実戦経験は」

 

「前大戦の太平洋での強襲戦がある。だが、あそこは狭い島嶼だ。今回は深く広大な大陸の地峡であり、攻略対象には大都市であるパナマシティも含まれている。……率直に言って、想定を遥かに超える『イレギュラー』が多発する戦場になるだろう」

 

二人はしばらく無言のまま、それぞれのグラスに宿る琥珀色の光を見つめ、静かに酒を胃に落とし込んでいった。


「──白城」一ノ瀬が切り出した。

 

「何だ」

 

「交友を深めたいというのは本当だろうが、お前が俺をここに誘った動機は、本当にそれだけか」

 

白城は、グラスを見つめたまま一瞬だけ動きを止めた。

バーの奥、暗がりに消えかけるジャズのメロディ。やがて白城はゆっくりと顔を上げ、一ノ瀬の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「……正直に、話そう」

 

「ああ」

 

「縞野将軍から、あなたに接近し、その『素性』を詳細に観察するように命じられている」

 

一ノ瀬は眉ひとつ動かさなかった。バーボンを喉に流し込む。

 

「いつからだ」

 

「バンクーバーへ赴くため、横須賀の本拠地を出港する直前だ。縞野将軍の耳に、あなたの『一ノ瀬』という名前が届いていた。……近いうちに必ずお前たちの部隊と連携して大規模な作戦を行うことになる、その男の人柄と、何か『異常な傾向』がないかを内密に報告せよ、と」

 

「……なぜ、それを本人に明かす」

 

白城は困ったように苦笑した。

 

「監視役を命じられておきながら、最初の夜に当人を最高級のバーに誘い出して酒を酌み交わしている時点で、私に特務の才能が皆無なのはお分かり頂けると思うがね」

 

「違いない」

 

「それにさ」白城の声が、少しだけ真摯に、そして優しくなった。

 

「互いに背中を預けて死地へ向かう戦友を騙し、観察日誌をつけるような真似は、私の趣味ではないのだよ。どうせ報告書を書くなら、あなたと徹底的に腹を割って話した後、私が感じた真実を書き殴った方が、縞野将軍への誠実な義務の遂行になる」

 

一ノ瀬はグラスを置いた。

 

「……縞野将軍が、俺のような一現場の大隊長をマークする理由は」

 

「私にも知らされていない。ただ、あなたが、陸軍中央に、目を付けられるような『何か』に触れてしまったのではないかと、私は純粋に危惧している」

 

白城は冗談を完全に排した、厳しい瞳で一ノ瀬を見

た。「……本当に、心当たりは無いのか」

 

一ノ瀬は、煤けたバーの天井を仰ぎ見る。

 

「……ありすぎて、どれが該当するのか特定できん」

 

一ノ瀬は、自嘲気味に息を吐いた。

 

白城はそれを聞き、驚いたように目を見張ったが、すぐに観念したように笑った。

 

「はぐらかされているのか、正直すぎるのか、判断に苦しむ答えだな」

 

「どちらとも言える」

 

「どちらとも言えない、とも言えそうだ」

 

一ノ瀬は小さく口角を上げた。「ずいぶんと息の合った返しだな」

 

「あなたがそう言うと思ったからね」

 

二人の間に、どこか心地よい、静かな時間が落ちた。

バーボンが喉を焼く熱さだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。

 

「……縞野将軍には、『一ノ瀬少佐は極めて模範的な、優秀かつ誠実な軍人である』と報告しておくよ」白城はグラスの酒を飲み干した。

 

「それが、お前の監視結果か」

 

「そうだ。私なりの、絶対の信頼を置くべき戦友への観察結果だ」

 

白城は穏やかに、しかし絶対に折れない確信を込めて言った。

 

「あなたは信用できる人間だ。……これは、私の本心だよ、一ノ瀬」

 

「お前も、十分に信用できる。……監視任務を、酒の肴にして本人に打ち明けるような阿呆は、他にいないからな」

 

白城が声を上げ、今夜一番の、晴れやかな笑い声を響かせた。

老バーテンダーが、二人のテーブルに三杯目のバーボンを静かに置いた。サンフランシスコの夜は、まだ始まったばかりだった。


白城はグラスを再び持ち上げ、一ノ瀬の前に差し出した。

その優美な横顔には、すでにこれから赴く、熱帯の地獄を見据えた軍人の鋭い覇気が宿っていた。

 

「ならば、友よ。……例のパナマで、今度は私があなたを助ける番だ」

 

一ノ瀬は、自らのグラスを重ねた。チリ、と硬質なガラスの音が響く。

 

「いや、パナマじゃなくとも、戦場はいつも俺たちの思い通りにはいかない。互いに泥をすすることになるだろう」

 

「違いない」白城は笑った。

 

「生き残るぞ、白城」

 

一ノ瀬の声は、夜のバーの静寂の中に、確かに溶け込んでいった。


「ああ、約束しよう、一ノ瀬」

 

白城は、自らの瞳の奥に宿る闘志を隠すことなく、深く頷いた。

 

「パナマの地獄の底から、二人揃って這い上がってこよう。生き延びて、またここで一杯やるために」

 

重ね合わされた二つのグラスが、サンフランシスコの夜の光を浴びて、鈍く、しかし激しくきらめいていた。

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