39話 新たなる戦場①
調印式典が幕を閉じた翌日。大幡将軍は、避暑地めいたサンフランシスコの空気を愉しむ間もなく、湾に面した海軍の機密施設へとその足を進めていた。
昨日の華美なパレードとは完全に一線を画す、鉄筋コンクリート造りの冷徹な洋館。
厳重な二重の憲兵詰所を抜け、鉛の重い防音扉が開かれた会議室には、すでに幾人もの高級将校と外交官たちが顔を揃えていた。
正面の壁面全体には、北米大陸から中米、そしてカリブ海を俯瞰する最新の大型戦域図がピンで留められている。その地図の最南端、大幡の網膜に突き刺さったのは、一本の極細い水路──パナマ運河であった。
上座に鎮座するのは、昨日、金門橋をくぐり抜けたばかりの第一機動艦隊を率いる司令長官・水雲提督。
その隣には、陸戦兵団を統べる縞野大将。英国側からはカナダ方面軍の総参謀長代理が席を占め、末席にはリーら米国軍人らが座っていた。
大幡が冷ややかに指定席へ着くと、水雲提督が重厚な口を開いた。
「諸君、昨日の調印式をもって『日英米三国同盟』の締結は成った。これより、我々新生同盟軍が最初に遂行すべき、第一次共同軍事作戦について説明する」
水雲の視線を受け、参謀が指示棒を手にして戦域図の前へ進み出た。
黒い塗装の棒先が、パナマ運河の狭隘な要衝をピシャリと叩く。
「現在、パナマ運河は独軍の完全な掌握下にあります。先の大戦における『バルバロッサ作戦』の電撃的進撃に呼応し、中米のドイツ租界部隊と、パナマ共和国軍が、合衆国の耳目がすべて北へと奪われている隙を突いてこれを急襲、制圧しました」
会議室に、湿った緊張が満ちていく。
「ここを本拠に、独軍Uボート部隊は太平洋の通商破壊作戦を展開しており、無視できない損害と疲労を我々に強いています。しかし」
参謀は、声を一段と尖らせた。
「このパナマを力ずくで奪還すれば、太平洋はその名の通り同盟の巨大な安全地帯となり、日英米の海軍力で大西洋で大ゲルマン帝国本土とアメリカ東部占領地を結ぶ通商を遮断することが可能です。それは、未だに北米に展開している独軍の軍需物資がヨーロッパ本土に強く依存している、今だからこそ効果的なのです。これが本反攻作戦の核心です」
リー大佐が、不審げに眉をひそめて手を挙げた。
「戦略の妥当性は理解できるし、アメリカ軍人として、祖国の一部の奪還作戦は本望だ。しかしカナダの戦線は、どうするつもりだ。諸君ら日英軍はオンタリオを奪い返したばかりだが、まだ安定した防衛線を構築できていないはずだ」
「現在、カナダ戦線は『突号作戦』の凄惨な消耗により、双方ともに自発的な大規模攻勢を行えない一種の小康状態にあります」参謀は淀みなく答えた。
「独軍の兵站再建には最低三ヶ月。我々の戦力再編も同様です。──この、生じた空白の三ヶ月を転用するのです」
「つまり」リー大佐が静かに言葉を補填した。
「カナダの戦火を一時的に膠着させたまま、戦力を一点、パナマに集中投資する、と」
「その通りです」水雲提督が引き取った。
「我々日本軍は、本作戦に最低限の防衛戦力を残し在カナダ軍の全力に加え、陸戦兵団の第一陸戦師団、そして我が連合艦隊の第一機動艦隊も参加します。ベルリンの参謀本部が、オンタリオ戦線の硬直を『当然の冬の停滞』と信じ込んでいる間に、彼らの最も予期せぬ腹背を深く刺す」
「──待て」
大幡の、低く濁った声が、会議室の温度を一瞬で引き裂いた。
水雲が視線を向ける。縞野も、作戦盤から顔を上げて大幡を見つめた。
大幡は机の上を、その大きな手のひらで乱暴に叩いた。
「カナダに最低限の防衛戦力を残す、だと? ……それは、具体的にどの大隊を、どれだけの兵力を放り置いていくという意味だ」
大幡はパナマから遥か北方、カナダ東岸の寂寥たる荒野を指し示した。
「『突号作戦』で失地の一部を奪い返したとはいえ、今の前線は本来あるべき防衛線の残骸に過ぎん。敵の補給線再建が三ヶ月というが、その三ヶ月の間、本当にその骨皮ばかりの『最低限の戦力』で、独軍の攻勢を持ちこたえられると思っているのか!」
「防衛に必要な兵力は残置します」参謀が、表情を硬くして弁明する。「英軍第五十一師団、および我が方第九師団の一部を──」
「数が絶対に足りん!」大幡の声が怒号となって響いた。
「足りんどころの騒ぎではない! 独軍の再建が我々の予測より一週間でも早まれば、あるいは、その『パナマ奪還作戦』が一日でも長引けばどうなる! 北方の防備は薄紙を剥ぐように突破され、バンクーバーまでなだれ込まれるぞ。その時、誰が責任を取るんだ、水雲!」
水雲提督は表情ひとつ変えず、ただ氷のように静かに応じた。
「……そのリスクは、もちろん統合軍総司令部も十分に承知しています。だが、パナマの奪還が成功すれば、本土から北米の補給は格段に楽になるし、逆に独軍は辛くなっていく。それは長期的には、カナダ戦線への物資・増援の供給速度を爆発的に高めることになり、結果として北米全土の防衛力向上に繋がるのでは?」
「それは『長期的』に生き残っていればの話だ!」大幡は一歩も引かなかった。
「その間にカナダが崩壊すれば、長期も短期もクソもないわ!」
会議室に、耐え難い沈黙が落ちた。誰もが、現地で最悪の退却戦を指揮してきた大幡の「理」を理解していたからだ。
しかし、縞野大将が静かに口を開いた時、その言葉は理性を超えた重みを持っていた。
「大幡将軍。……この作戦計画は、東京の統合軍総長・高野五十六大将、ならびに長田叡山陸軍参謀総長の、連名の『裁可』をすでに得ている。無論、英連邦と合衆国両政府もだ。現地司令として懸念を持つのは理解できるが──これはすでに、ひっくり返せぬ『既定の方針』なのだよ」
大幡は、縞野の穏やかだが絶対に揺るがない瞳を見つめた。
「……高野と、長田、か」
大幡は吐き捨てるように息を吐くと、椅子の背にもたれかかった。それ以上、彼は言葉を重ねなかった。言葉を重ねるだけ、軍人としての時間の空費であることを誰よりも知っていたからだ。
長時間の会議が終了し、廊下へ出た大幡は、首元の第一ボタンを荒々しく引きちぎるように外し、副官だけを連れて海軍施設の長い渡り廊下を歩いていた。
窓の外。夕暮れのサンフランシスコ湾の海面に、金門橋の影を踏み潰すようにして、戦艦『大和』の巨体が不気味なほど厳かに浮かんでいた。
「……勇壮な船だ。まさしく、日本人の魂を鋼鉄で固めたような、見事な結晶だな」
大幡は、呟いた。嫌味など一片も混じらない、一軍人としての純粋な吐露だった。
副官は黙って、主官の一歩後ろを歩き続けた。
「パナマでの戦闘で、沈められたでもしたら我が国の士気に関わるだろうな」
大幡は立ち止まり、大和の周囲に展開する駆逐艦群のシルエットを見つめた。その滑らかな水面の揺らぎが、血の匂いを吸い込んでいるように見えた。
「おい、カナダを、バンクーバーをこれまで這いずり回って守り抜いてきたのは、一体どこの誰だ?」
副官は沈黙を返した。答えを求めているのではないことなど、百も承知だった。
「突号作戦で、あの冷たい結氷湖に脚をもがれながら戦ったのは誰だ。オンタリオの雪原で、泥と尿にまみれて凍えながら防衛線を死守したのは誰だ。……その前線を、今度は最低限の戦力で守りきれと、本土の偉いさんたちは涼しいツラをして畳の上で決めやがった」
大幡は再び歩き出した。その声に怒りはなかった。
ただ、すべてを奪い尽くされたような、深い、鉛のような疲労だけが、彼の軍靴の音を重くしていた。
「突号が成功したかと思えば、三国同盟だ。同盟が成ったかと思えば、即座にパナマへ全軍を転回させろと喚く。……いくらなんでも、矢継ぎ早が過ぎるだろう」
彼は廊下の突き当たりの窓で、再び足を止めた。
「高野は日本軍の古い伝統を継ぐ戦略家だ、大局を見る目はある。長田は長田で、あいつの脳髄の奥で蠢く計画は誰にも読めんが、先を見据える器量は持っている。……だがな、あの二人が揃って、これほどまでに『目に見える焦り』を見せているのは──」
大幡は拳を窓枠に押し当てた。
「──間違いなく、『何か』があるぞ」
副官が初めて、声を極限まで潜めて言った。
「……何か、とは」
「わからん。わからんから、胃袋の底が焼け付くように不気味なんだ」
大幡は、薄闇の迫る湾を見つめた。
「『突号作戦』の立案も、本来ならこの地を統べる現地司令の俺が主導して本土を動かすべき話だった。それを、本土が先に完璧な絵図を描いて俺に押し付けた。今回のパナマもまったく同じだ。俺への事前の相談など、ただの形式の一言すらなかった」
大幡はまた歩き出した。その足取りには、何かを決定した者の暗い決意が宿っていた。
「作戦のロジックそのものは通っている。パナマを取れば、我々は両洋の自由を手にする。長期的な戦略としては、これ以上ないほど正論だ。だがな、ただの正しい戦略なら、これほど急く必要はない。突号作戦の後、半年、あるいは一年かけて十分に足場を固め、新兵を練成し、機体を増産してからでも決して遅くはないはずだ」
大幡は副官の耳元に、死線で培った低い声を落とし込んだ。
「高野と長田がこれほどまでに時間を惜しんでいる理由は、単なる失地回復やパナマ運河の利権奪取などでは断じてない。あの二人は、我々現地軍には見せていない、別の『理屈』を凝視して動いている」
副官は、その言葉の質量を正確に受け止め、鋭い目付きで頷いた。
「……探らせますか。本土の、長田派閥の裏に繋がっている我々の協力者を使って。ここまで派手に動いている今なら、何か掴めるかもしれません」
「ああ、急げ」
大幡は前を見据えたまま、冷たく命じた。
「東京の奴らが、何を隠しているのか。すべての『裏』を暴き出せ」




