38話 サンフランシスコ入港
1953年5月、サンフランシスコ。
ゴールデンゲートブリッジの向こうに、どこまでも蒼い太平洋が広がっていた。
うららかな春の光が湾面に降り注ぎ、砕ける白い波頭がきらきらと眩い。東部で吹き荒れる鉄と炎の嵐など、この地には露ほども存在しないかのような、残酷なまでに穏やかな凪の海だ。
「……まさか、戦争中にサンフランシスコに来ることになるなんて」
七宮が、敬礼の姿勢を崩さないまま小声で呟いた。
「おしゃべりはそこまでにしろ。黙って正面を見据えてろ」
その背後から、鹿嶽が低く厳格な声を返した。
サンフランシスコ市庁舎前の広大な大通りを、日英の陸戦部隊が埋め尽くしていた。第七独立戦機大隊も、泥に塗れた六式や零式二型改を遥か後方に残し、その一角に整然と列をなしている。
礼服の用意はなく、全員が戦地から引き揚げたままと大差ない略装制服だった。だが、真鍮の略綬だけは、彼らの胸元で痛いほどの光を弾いていた。
一ノ瀬は隊列の最先頭に立ち、微動だにせず正面の議事堂を見つめていた。
式典の開始まで、まだ三十分。
大通りの両脇に設置された規制線の外には、じわじわと無数の市民が集まり始めていた。
彼らは、大ゲルマン帝国に郷土を追われ、この西海岸へ逃げ延びてきたアメリカ人たちだ。手作りのプラカードを掲げる者、色褪せた星条旗を握りしめる者。だが、その群衆の表情は決して一枚岩ではなかった。
歓喜に顔を上気させる者もいれば、拭い去れぬ不安を瞳に宿す者もいる。そして、整然と並ぶ「日本の軍服」に対し、憎悪と警戒の混じった複雑な眼差しを向ける者も少なくなかった。
「……何だか、妙な緊張しますね」
舞草が、前方を見据えたまま、ほとんど唇を動かさずに言った。
「戦場でもないのに緊張してどうする」隣の列から、浅見がそっけないトーンで応じる。
「ここには電磁徹甲弾も高周波ブレードも飛んでこないよ」
「そういう意味じゃないんです。……あの、歩道の最前列にいる人たちを見ていると」
舞草の視線の先。
一人の老人が、歩道の手すりにしがみつくようにして立っていた。かつては立派な仕立てだったであろう、いまは綻びだらけのスーツを着た老人は、古びた星条旗の小旗を自らの胸元へ強く押し当てるように抱え、日英の軍列をじっと見つめていた。
その皺深い顔に刻まれた感情が、誇りなのか、それとも他国の力に縋るほかない屈辱なのか、一ノ瀬たちには判然としなかった。おそらく、その双方は彼の胸中で激しく鬩ぎ合っているのだろう。
「この国の人々にとって、俺たちは──」坂巻が、低く湿った声で言葉を落とした。
「自分たちを大ゲルマンから救い出してくれる『救世主』であると同時に、愛する故郷を踏み荒らし、泥まみれで殺し合いを演じている『もう一人の侵略者』なのかもしれないですね」
誰も、その言葉に反論を返さなかった。
静寂を破り、式典の開始を告げる厳かなラッパの音が鳴り響いた。
市庁舎の重厚な石段に、合衆国西海岸臨時政府の閣僚たちが姿を現した。あの鋭い眼光を湛えたハロルド・スティーブンス次官の姿もある。その隣には、日本大使の橘幸太郎、そして英国大使のセシル・バウアーが、威風堂々とした佇まいで並び立った。
純白の署名文書に、三者の万年筆が順番に走る。
プレス関係者の放つ無数のフラッシュが、五月の陽光をかき消すほどの強烈な閃光となって、彼らの横顔を真っ白に焼き付けた。
『日英米三国相互援助条約』
実質的に崩壊しかけていた亡命アメリカ政府が、日英同盟という名の巨大な怪物の触手と、正式に、そして不可逆的に血の同盟を結んだ歴史的瞬間だった。
スティーブンスが、演台のマイクの前に進み出た。
「──我々アメリカ国民は、今日この日をもって、もはや孤独ではなくなった!」
彼の腹の底から響くような声が、大通りを埋め尽くす何万もの沈黙へと届いていく。
「卑劣極まる大ゲルマン帝国の軍靴を大陸から叩き出し、我々の誇りある合衆国を取り戻すその日まで、我々は日英の盟友と共に、最後の一兵となるまで戦い抜くことをここに誓う!」
万雷の拍手と、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
一ノ瀬は前を見据えたまま、隊列の中で彫刻のように直立していた。
「捧げ──銃!」
鹿嶽の鋭い号令が響き、第七大隊が一斉に硬質な敬礼動作を捧げる。
まさにその瞬間、湾の彼方から、すべてを圧殺するような低い地鳴りのような汽笛が響き渡った。
ドォォォ、と、空気を物理的に震わせる重低音。
一度ではない。続いて、また一度。サンフランシスコ湾の海面を、そして大通りに立つ兵士たちの足元をビリビリと震わせながら、その波動はどこまでも広がっていった。
騒然とする市民たちが、一斉に湾の方向へと顔を向けた。
ゴールデンゲートブリッジの巨大な吊り橋の向こう、立ち込めていた朝霧を切り裂いて、「それ」が姿を現した。
先頭を切って進む超弩級艦の、現実感を喪失させるほどの巨大さに、隊列の誰かが息を呑む音が聞こえた。
全長二百六十メートル。主砲三基九門。
超弩級戦艦『大和』。
背後に背負った初夏の強烈な太陽を逆光に変え、金門橋の影をその巨大な艦体で踏み潰すようにして、鋼鉄の魔王がサンフランシスコ湾内へと静かに滑り込んできた。
さらに、その後背から無数の黒色の影が続いた。
大型航空母艦、重巡洋艦、駆逐艦。波濤を蹴り、軍旗を翻した無骨な鋼鉄の城塞群が、整然たる艦列を構築しながら金門橋の下をくぐり抜けていく。
──第一機動艦隊。
大日本帝国海軍が誇る絶対的な精鋭主力群が、その威容をこれでもかと湾内に誇示していた。
市民の間から、悲鳴にも似た驚嘆のざわめきが上がり、やがてそれは割れんばかりの熱狂的な歓声へと変わっていった。
だが、一ノ瀬の耳に届いたのは、その歓喜の裏に張り付いた、別の音だった。
恐怖に息を呑む音。圧倒的な質量にねじ伏せられる音。
(まるで黒船来航の意趣返しだな)
ちょうど百年前、ペリーの黒船が浦賀の海に現れた時、かつての日本人が味わったであろう底知れぬ無力感と震撼。それをいま、まったく逆の立場で、この超大国アメリカの残存者たちに見せつけている。これは対等な三国同盟などではない。どちらが「支配者」であるかを、一滴の血も流さずに叩きつけるための、冷徹に計算され尽くしたデモンストレーションだった。
「……でかいな」七宮が、正面を見つめたまま、ほとんど独り言のように呟いた。
「……ああ。あれが、大和だ」南が応じる。
鹿嶽も、桐島も無言だった。ただ、浅見が一度だけ、諦念を帯びた細い息を吐き出した。
一ノ瀬は、湾内を埋め尽くしていく巨大な艦隊を見つめていた。
これは、世界に向けた高度な政治的ショーだ。日英米の同盟締結をベルリンの指導部に知らしめ、揺らぐ中立国を威圧するための絵になる一幕。
だが、それだけではないことを、一ノ瀬は理解していた。
日本海軍の象徴である第一機動艦隊を、このカリフォルニア西岸に常駐させるということ。
それはすなわち、日英同盟がこの海域を「本格的な作戦海域」として定義し、太平洋の守りから、北米大陸の制海権を巡る作戦へと完全にシフトしたことを意味している。
これから始まる戦いの規模と凄惨さは、これまで一ノ瀬たちが戦ってきた「突号作戦」のような局地戦とは、次元が違うレベルへと跳ね上がる。
重厚な鎖の音を響かせ、大和が錨を下ろした。湾内に美しい艦列が完成していく。
その光景を見つめながら、一ノ瀬はこれまでの歩みを静かに反芻していた。
戦友の伏野を失い、零式の手足を捥ぎ取られ、クーメルと二度の死闘を演じ、突号作戦という不条理な戦場を駆け抜けた。
だが、そのすべてを以てしてもなお──本当の地獄は、まだ一歩も始まってすらいなかったのだ。
「……一ノ瀬」
鹿嶽が、敬礼の姿勢のまま小声で話しかけてきた。
「何だ」
「あの本土からあの化け物を引き連れてきたということは、上層部の野郎共は、次は俺たちをどこへ放り込むつもりかね」
「さぁな。だがお前は分かっているはずだ」一ノ瀬は、潮風に混じる微かな重油の匂いを嗅ぎ取った。
「次はもっと大きな作戦が来る。それだけは確かだ」
「……上等だ。こうなったら、死ぬまでとことんやってやるぜ」
二人は湾内に整列した鋼鉄の城塞群が、午後の光を鈍く跳ね返す様をじっと見つめていた。
歩道の最前列。あの老人が、今度は震える手で星条旗を高く、高く天へと掲げていた。その濡れた双眸が、大和の巨大な影に射抜かれて光っているのが、一ノ瀬たちの位置からも、残酷なほどはっきりと見えていた。




