37話 北米総軍
1953年4月、ワシントン。
かつて合衆国大統領府として機能したホワイトハウスは、今や『北米総軍司令部』の仮庁舎へと変貌を遂げていた。
かつて星条旗がはためいていたポールには、現在、大ゲルマン帝国の黒い単頭鷲が描かれた軍旗が冷たい風に翻っている。
帝国軍最高司令部報道部は、その日の午前、全世界に向けて一大声明を発表した。
『大ゲルマン帝国は、ケベック解放政府および合衆国暫定政府との間に、歴史的な集団安全保障条約を締結した。これにより、帝国軍は両政府の正式な要請に基づき、北米大陸における主権と秩序の永続的な守護者として駐留する。本条約は、自由と文明の連帯を体現するものである』
世界中の新聞がその声明を一面に掲げた。論調は報道管制下の欧州と日英側で異なったが、その内実を見誤る者は一人もいなかった。
永久駐留とは、占領という行為を美文化した別名に過ぎない。集団安全保障とは、服従という制度に鎖をかける儀式だった。
条約の署名式に出席したケベックと合衆国暫定政府の代表者たちの、生気の一切を失った仮面のような顔が、その真実を何よりも雄弁に物語っていた。
同日夜。ホワイトハウスの大統領執務室。
ヘルムート・ファルケン上級大将は、報道部の声明原稿に一瞥をくれ、それを重厚なマホガニーの机に置くと、再び窓外の闇へと視線を戻した。
四十代半ば。老いを感じさせない引き締まった頑強な体躯に、その遺伝子に刻まれた非ドイツ人的な要素を含みながら洗練された理知的な輪郭、そしてすべてを見透かすような深く冷たい眼差し。
彼は国防軍の叩き上げでありながら、先の大戦では武装親衛隊の戦機将校として東部の泥沼を征した男だ。正規軍将校特有の生真面目な堅苦しさとは明らかに一線を画す、冷酷な政治的野心と、死線を潜り抜けた者だけが持つ獣のような凄みを漂わせていた。
扉が静かにノックされた。
「ハルテンベルク大使がお見えになりました」
「通せ」
ファルケンは短く命じ、デスクに背をもたれさせた。
扉が開き、ディートリヒ・フォン・ハルテンベルクが音もなく入室してきた。漆黒の外交官服を非の打ち所なく着こなしているが、その音を立てない、重心のブレない歩幅は決して外交官のものではなかった。副官のクラーラが、完璧に同期した歩調で一歩後ろに従う。
「ファルケン閣下。東西両軍集団の指揮権一元化、ならびに北米総軍司令官へのご就任、心よりお祝い申し上げます」
ハルテンベルクは完璧なドイツ語で言った。その端整な顔には、計算され尽くした柔和な笑みが張り付いている。
「君と私に社交辞令は要らんよ」ファルケンは冷淡に遮った。「座れ」
ハルテンベルクは笑みを崩さず、促されるままソファーに深く腰掛けた。クラーラは主人の背後に立ち、精巧な自動人形のように直立不動の姿勢を保った。
「ベルリンのシェルナー元帥は、何か吠えていたか」
「元帥閣下は、形式を好まれる。軍の自立性について、書面での保護を強く求められましたよ。……前時代の騎士のようで、じつに微笑ましい」
ハルテンベルクが微かに肩をすくめて皮肉を弄する。
「あの人を侮るべきではない」ファルケンの声が、執務室の空気をぴしゃりと叩いた。
「仮にも帝国軍総司令に上り詰めた御仁だ。油断すると、君とて足元を掬われるぞ」
ハルテンベルクの灰色の瞳が一瞬、細められた。ファルケンが放つ、新人類をも威圧する独自の威厳。それは、遺伝子操作では決して再現できない、数万の生と死を自ら剪定してきた者だけが持つ、野生の支配力だった。
「……お説教、身に沁みます」ハルテンベルクは静かに頭を下げた。
「マイヤーと連絡を取り合っていたな。今回の軍集団一元化を進言したのは君か」
「マイヤー長官が、現状の打開に最も合理的であると判断されたに過ぎません」ハルテンベルクは淡々と答えた。
「私は、オンタリオの敗戦という『生のデータ』をベルリンに提供しただけです」
「同じことだよ。君が動けば、必ず人が死に、大勢が塗り替えられる」
ファルケンは再び窓外へ目を向けた。かつて合衆国の、そして旧世界の民主主義の心臓だったワシントンの街が、静まり返っている。
「今の最優先事項は、西への進撃ではなく、既存占領地の『絶対的な安定化』だ。オンタリオで日本軍の陸戦兵団にズタズタにされた補給線の再建、そして全軍の再編成には、最短でも三ヶ月を要する。……その間、日英側も間違いなく牙を研ぐ」
「ええ。ですが、その膠着の三ヶ月の間に、我々が片付けねばならぬ最大の問題が他にある」
「カリフォルニアだな」
「左様です」ハルテンベルクは、膝の上でしなやかな指を組んだ。
「西海岸の臨時亡命政府が、日英との本格的な同盟交渉を進めています。オンタリオでの我々の後退を見て、彼らは日英の『実力』を再評価し始めた。あのカリフォルニアを放置すれば、合衆国西岸に温存された資本と工業力が、すべて日英同盟へ流れ込むことになります。それは……帝国の勝利を、数年は遅らせる致命傷となる」
ファルケンは、背もたれに深く体重を預けた。
「分かってる。クーメルが生きていれば、力ずくでねじ伏せることもできたがな」
「後継となる『素体』の選定は、ライプニッツ研究所が最優先で進めています。しかし、あのような完成個体を戦場に供給するには、いささか時間がかかる。今は、我々生き残った者が代役を果たすしかありません」
ファルケンはハルデンベルクの有用さに目を細める。二十八歳。この若さで北米大陸全体の政治工作という名のチェス盤を、一人でコントロールしている。帝国本土の頑迷な閣僚どもは信じもしないだろうが、この男の能力は、疑いようもなく「次世代」のそれだった。
「わかった。カリフォルニアへの政治工作は、君の裁量で進めろ。ただし、前線を脅かすような無秩序な強硬策は絶対に認めない」
「心得ております」
ハルテンベルクは静かに立ち上がり、非の打ち所のない一礼を捧げた。
「閣下。改めて、この地をお手中に収められたことをお慶び申し上げます。……北米は今日から、閣下の庭園です」
「庭園か。……それも『ファルゴルト計画』を完遂するための実験場に過ぎんだろう」
ファルケンが放った一言に、部屋の空気が張り詰めた。
「ええ」ハルテンベルクの声音から、先ほどまでの外交官特有の柔らかさが完全に霧散した。抑揚のない、冷酷な『仕様書』を読み上げるような声。
「ファルゴルト計画。閣下には、その完遂を何よりも優先していただきたい。現在、第二フェーズへの移行に遅れが生じています。占領地の平定と並行し、計画の進度を倍速化させねばなりません」
「言うほど容易ではないよ。そこまで急ぐなら、君が直接手を出せば良い。一軍人に過ぎん私が、ライプニッツの計画に口を挟む領域でもないだろう」
「私は、表舞台に立って世界を統べる『器』ではありません」
ハルテンベルクは静かに、しかし絶対的な真理として言った。
ファルケンは目を細めた。「どういう意味だ」
「計画が完成した時、新世界を先導する『象徴』が必要になります。人類の歴史というものは、常に崇拝すべき『具体的な顔』を求める。それはベルリンの総統閣下であり……あるいは、かつての副王の如く北米を従えた貴方かもしれない」
ハルテンベルクは、闇に沈むワシントンの空を見つめた。
「私は、ただの触媒です。劇的な化学反応を引き起こす役割はありますが、反応が終わった後、その世界に『残留』するものではないのです。そこにあるのは、完全に清算されたシステムだけだ」
ファルケンは、ただ沈黙を返した。その言葉を否定することも、肯定することもせず、怪物として大使の歪んだ理想を静かに値踏みした。
「……わかった。計画の促進については、最善の配慮をする。ただし、今は兵站の再建が先決だ」
「承知しております」
ハルテンベルクが踵を返しかけた瞬間、ファルケンは静かに話題を変えた。
「一つ、個人的な質問をしていいか。ハルテンベルク」
「何でしょうか」
「君が近く、アーリア戦闘団の事実上の指揮を引き継ぐという情報が、私の元に入っている。色々と動きやすい大使という役職から離れ、わざわざ泥まみれの戦場へ戻る、その理由は何だ」
ハルテンベルクは、答えるまでに、ほんの僅かな間を置いた。
通常の人間同士では決して気づかない、コンマ数秒の停止。だが、対峙するファルケンの双眸はその空白を鋭く捉えていた。
「二つ、あります」
ハルテンベルクは、平坦な声で答えた。
「一つは、クーメルの件です」
「復讐か」
「そのような感傷ではありませんよ。しかし、否定もしません」
ハルテンベルクの笑みが、ゆっくりと消えていく。その静寂は、感情が欠落していることの冷たさではなく、もっと底知れない、凍てついた狂気から発せられていることを、ファルケンは肌で感じていた。
「クーメルは、私の半身でした。同じ研究所の、まったく同じシークエンスで製造された存在だ。あれほど高度に完成された個体が、あのように無残な、不条理によって失われた。その事実だけは、私の手で直接、清算する必要があります」
「もう一つは」
「クーメルが死ぬその一瞬まで、執着していた人間がいます。日本軍の少佐、一ノ瀬という個体です」
ファルケンは微かに眉を動かした。
「アーリア戦闘団を相手に、二度も生還したというあの幽霊か」
「そうです。クーメルは死の間際、あの男の行動パターンに強烈な興味を抱き、その本質を見極めようとしていた。……その未完了のタスクを、私が引き継ぎます」
ハルテンベルクは再び一礼した。
「個人的な私怨と、純粋な観察の興味。どちらとも言えますし、どちらでもない、とも言えますがね」
「その一ノ瀬という男を見極め、仮にそいつが、『アーキタイプ』の本物であったなら、お前はどうする気だ」
ハルテンベルクは扉へと静かに歩みを進めながら、振り返りもせずに答えた。
「その時は、その時。どちらがより優れた存在か、証明するだけです」
クラーラが計算された角度で扉を開け、二人の影は、ホワイトハウスの長い廊下の闇へと滑るように消えていった。
ファルケンは一人、執務室に残され、再び窓外のワシントンを見つめた。
『北米は今日から、閣下の庭園です』──賛辞を装った、あの新人類の言葉が、今も不吉な残響となって耳の奥にこびりついて離れなかった。




