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36話 主導権争い

1953年3月、ベルリン。

大ゲルマン帝国軍総司令部の第一会議室。その壁面全体を覆う巨大な電磁式作戦盤は、帝国の「世界制覇」を視覚化した冷酷なモニュメントであった。

北米大陸の地図が精緻に投影され、赤と青の戦況記号が刻々とリアルタイムで更新されていく。だが、先月まで鮮血のような「赤(大ゲルマン帝国領)」で塗りつぶされていたオンタリオの広大な領域は、いま、無惨な「青(日英同盟領)」へと浸食されていた。

 

「──以上が、西部軍集団より届いた最新の戦闘報告書です」

 

参謀将校が、震える手で黒い報告書を閉じた。

会議室の重厚な空気の中に、凍てつくような沈黙が落ちた。

上座に座る帝国軍総司令部総長、フェルディナント・シェルナー元帥は、その静寂の中で作戦盤の一点だけを凝視していた。

 

『冷酷な元帥』。

それが、帝国軍において誰もが彼の背後で囁く異名だった。前大戦の大陸戦線において、ソ連赤軍二百万を冷徹な包囲戦で完全に磨り潰した男。泥濘の中で一歩でも後退を進言した部下を、階級を問わずその場で自ら撃ち殺した男。感情という部品を生まれつき欠落させていると噂される、百万人を超える帝国正規軍の頂点。

その鉄壁の貌を持つ老元帥が今、きわめて不快そうに作戦盤を睨みつけていた。

 

「西部軍集団が先月までに奪取したオンタリオ領域の……実に六割が、日英の手に逆戻りした。そういうことだな」

 

シェルナーの掠れた声が、室内の気温を数度下げた。

 

「は、はい」

 

「五大湖周辺に展開していた主要補給拠点は、日本軍『陸戦兵団』の不意の強襲によって、ほぼ壊滅」

 

「は……はい」

 

「その兵站麻痺により、東部軍集団が合衆国東部から接収予定だった重工業設備、および現地生産計画は、劇的な下方修正を余儀なくされている」

 

「その通りです、閣下。……言い訳の余地はございません」

 

シェルナーは一度だけ、深く、重い息を吸い込んだ。

 

「我が軍の全体の優勢は変わらん」元帥は言い切った。


「確かな事実だ。合衆国東部は依然として我々の鉄靴の下にあり、南部諸州は事実上の降伏を選択した。西進の進撃曲線は緩やかになるが、止まることはない」

 

「おっしゃる通りです」

 

「しかし──」

 

シェルナーはゆっくりと立ち上がった。その小柄だが鉄のように引き締まった体が、巨大な作戦盤の前に影を落とす。

 

「戦略目標の下方修正は免れん。……モルドーの、決定的な失態だ」

 

「モルドー大将の処遇は、いかがいたしましょうか」

 

「我が栄光ある大ゲルマン帝国軍に、敗軍の将はいらない」

 

シェルナーは淡々と、しかし決定的な死刑宣告として言い放った。その言葉が、更迭のみならず、彼の軍歴、ひいては社会的抹殺を意味することを、その場にいる将校の全員が即座に理解した。

 

「ただちに、後任の選定を急げ。これ以上、無能な西部軍集団の既存体制に北米の戦線を委ねておくわけにはいかん」


「──その件について、少々」

 

会議室の隅から、高低差のない極めて平坦な声が上がった。

シェルナーは不快げにそちらへ視線を向けた。いつからそこにいたのか、それとも最初からそこに立っていたのか、シェルナーには確信が持てなかった。影のように気配が極端に薄い男だった。

マルティン・マイヤー──党官房長官にして、親衛隊中将。三十四歳。

前任のボルマンが昨年急死して以来、総統府の実務と親衛隊のネットワークを一手に統括する、実質的な「黒幕」の一人。細身の長身、寸分の乱れもなく仕立てられた黒い制服。顔立ちは彫刻のように整っていたが、眼球の奥には、人間が本来持つべき「揺らぎ」が一切存在しなかった。ハルテンベルク大使や、戦死したクーメル中佐と同じ──ライプニッツ研究所が『ファルゴルト計画』によって造り出した新人類という不気味な噂は、シェルナーの耳にも入っていた。

 

「西部軍集団の後任について、私どもから一つ、ご提案がございます」

 

マイヤーが言葉を紡ぐ。発音は完璧に均一で、まるで機械の合成音声のように抑揚が欠落していた。

 

「聞こう」

 

「現在北米において、最も安定した戦果を挙げているのは、東部軍集団司令であるファルケン大将です。バルバロッサ作戦の完遂は彼の卓越した指揮によるものであり、合衆国東部の占領地統治もきわめて合理的に推移しております。……そこで、西部軍集団の指揮権もファルケン大将に一元化することで、北米全域の作戦展開に、高度な統一性と迅速性が生まれるかと」

 

会議室を、肺を圧迫するようなざわめきが埋めた。

シェルナーの表情こそ石像のように動かなかったが、その立ち姿はわずかに硬直していた。

 

「ファルケンは東部軍集団の司令官だ。東西両軍集団の指揮権を特定の一人に集中させるなど、帝国陸軍の編成原則に反する」

 

「非常時における、柔軟な超法規的運用とお受け取りください」

 

「柔軟な運用と、指揮権の『不当な私物化』は同義ではない」

 

シェルナーの拒絶には、純粋な軍事的地政学以外の、より深刻な動機があった。

確かにファルケンは有能な将軍だ。しかし彼の幕僚構成を見れば、主要なポストは親衛隊系の将校によって完全に占められている。何より、ファルケン自身も先の大戦では武装親衛隊外国人義勇兵(・・・・・・)の将校として血の川を渡ってきた男だ。

西部軍集団の指揮権まで彼に渡せば、北米大陸における正規軍たる「帝国軍」の独立した指揮系統は事実上消滅する。それは、帝国陸軍の誇りと、シェルナー元帥としての権威が断じて許容できるものではなかった。

 

「元帥閣下のご懸念は、ご尤もです」

 

マイヤーは、シェルナーの脳裏を埋め尽くす陸軍の論理を冷徹に見透かすように、表情ひとつ動かさずに言った。


「しかしながら──」

 

「しかしながら、何だ」

 

「これは、私個人の、あるいは親衛隊だけの提案ではございません」

 

マイヤーはそれ以上、言葉を重ねなかった。追加の説明すら省いた。

だが、その傲慢な沈黙が何を意味するかを、この部屋にいる全ての者が痛烈に理解した。

シェルナーは作戦盤を見上げ、青く染まったオンタリオの領域を睨み、そして、マイヤーの血の通わぬ瞳を見つめ返した。

 

「……フューラー(総統)の、直接の御意志か」

 

「左様です」

 

死のような沈黙が、会議室を支配した。

シェルナーは二十年を超える軍幹部としての軍歴の中で、この種の沈黙を何度か経験していた。

どれほど論理を尽くし、どれほど実績を積み重ねようとも、決して穿つことのできない「絶対的な壁」に衝突した瞬間の、虚無的な沈黙だ。

 

「……正規軍としての、独立した指揮権と階級秩序の保護について、文書での担保を求める」

 

シェルナーは、乾いた喉からようやく言葉を絞り出した。


「総統府の口頭の了承だけでは、総長としてこの異動は受け入れられん」

 

「承知いたしました。ただちに、書面を整えさせましょう」

 

シェルナーは、肺胞の空気をすべて吐き出すように、一度だけ深く息を吐いた。

 

「ファルケンに伝えろ。西部における失地回復を最優先の絶対任務とする。モルドーが開けた大穴を、奴の血で埋めることが……まずは新司令官の仕事だ、とな」

 

「承りました」

 

マイヤーは静かに、完璧な角度で一礼した。

彼が去った後、シェルナーは会議室の空気が決定的に変質したのを感じていた。

今日、この瞬間を境に、北米の独軍を動かす実質的な主導権が、どこへ移り、誰に掌握されたのかを。

 

「……日英劣等種どもめ。余計な手間をかけさせおって」

 

シェルナー元帥は、再び作戦盤の青い領域へ目を向け、ぽつりと呟いた。

今度のその声には、冷酷な元帥には決して似合わない、かすかな、そして深い疲労の陰が混じり始めていた。

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