32話 作戦開始②
午前八時、日英軍主力の本格的な反攻が始まった。
第九師団が正面を鋭く穿ち、英連邦軍第五十一師団がその側翼を大きく迂回した。
総数五百機に及ぶ戦機の群れが低空を覆い尽くし、凍てついたカナダの大地を震わせながら、怒濤の勢いで東進する。
補給の途絶えたドイツ帝国軍の前線部隊は、すでに壊滅的な混乱の渦中にあった。
燃料の底を突いた機体は雪原でただの鉄屑と化し、弾薬の届かない重砲は虚しく沈黙する。頼みの指揮通信系統は、前夜に受けた「幽霊大隊」による局所奇襲の傷跡から、未だに回復していなかった。
ほんの六時間前まで、開戦以来、常に圧倒的な攻勢に立っていたはずのドイツ軍が、一瞬にして凄惨な守勢へと立たされていた。
第九師団の先鋒が最初の防衛線を突破したのは、攻勢開始からわずか四十分後のことだった。想定を遥かに上回る瓦解の速さ。補給を断たれた守備隊は、組織的な防衛戦を維持できずに後退。さらに、英軍第五十一師団の側背機動が完璧に決まり、前線の二個大隊が完全な包囲網の中に置き去りにされた。
午後を迎える頃には、戦況図の色彩は劇的に塗り替えられようとしていた。
オンタリオ州南部の廃工場、前線司令部。
モルドー大将は、卓上の作戦盤を凝視していた。
朝から、青い防衛線が東へ、東へと恐るべき速度で後退していく。止まらない。
「報告を述べよ」
「……北方へ引きずり出された機動予備部隊が、未だ現場に到達しておりません」参謀長が、硬い声で答えた。
「距離がありすぎます。北の『幽霊』に釣られて移動した部隊がここまで反転するには、最短でもあと六時間が必要です」
「六時間後だと?」モルドーの声が低くきしんだ。
「その頃にはどうなっている」
「……現在の敵の進撃速度を勘案すると、主要補給拠点たる第二線すら失っている可能性があります」
モルドーは沈黙した。
押し込み続けてきたはずの前線が、仕組まれた一晩の罠によって、砂の城のように崩れかけている。
「肝心の、現地補給は」
「オンタリオ湖南岸の拠点群が、日本軍陸戦兵団の奇襲を受け壊滅。事実上、物資は全滅です。代替路の選定を急いでおりますが、凍結した悪路では前線への緊急輸送は物理的に困難です」
「つまり、前線には『弾も燃料もなしに、素手で塹壕を守れ』と、そう命じろと言うのだな」
参謀たちは一様に口を閉ざした。沈黙そのものが、残酷な回答だった。
モルドーはゆっくりと拳をテーブルに置いた。激しく叩きつけるのではない。ただ、そっと置いた。その老いた手が微かに震えているのを、隣の参謀長は見逃さなかった。
「……東部軍集団に、緊急の増援を仰ぐべきでは」
一人の参謀がおずおずと進言した。
「馬鹿を言え」モルドーは即座に一喝した。
「この程度の局地戦術の破綻で他軍に泣きついてみろ。ファルケンの奴に、一生分の笑いぐさを提供することになる」
次期帝国軍総司令部総長の座を争うライバルに、無能の烙印を押されることだけは、伝統ある陸軍将校としてのプライドが断じて許さなかった。
「……では、軍集団予備の『アーリア戦闘団』は」参謀長が、モルドーの顔色を窺うように切り出した。
「彼らは後方で即応体制にあります。投入されますか」
「……いや。まだだ。奴らは手元に置いておく」
危うく現実の恐怖に屈しそうになったモルドーは、慌てて言葉を呑み込んだ。
クーメル中佐率いるアーリア戦闘団の実力は、先日の戦闘で証明されていた。陸軍の正規部隊が手も足も出なかった「幽霊大隊」をあぶり出し、致命的な打撃を与えて退けたのだ。
部隊の戦闘力だけではない。指揮官たるエーリヒ・クーメル中佐──あの、ハルテンベルク大使と同じ、冷酷な「新人類」の血を感じさせる青年の才覚は、疑いようもなく本物だった。
だからこそ、モルドーは彼らを動かしたくなかった。
彼らにこの窮地を救わせ、さらなる武功を献上することなど、死んでも御免だった。
平時であれば、軍隊は階級と役職が絶対の秩序となる。しかし、ひとたび戦時となればそのシステムは歪む。
圧倒的な「武功」を挙げた軍人は、階級を超越した独特のカリスマと凄みを帯び始める。それは、どれほど階級が上の者であっても無視し得ない事実上の『力』となる。すなわち、軍隊という名の絶対的な上意下達組織において、合法的な下剋上が発生するのだ。
クーメル中佐は弱冠二十五歳の佐官に過ぎない。しかし、その背後には総統府直轄の親衛隊と、ライプニッツ研究所の「システム」が存在する。彼がこの戦場で英雄になればなるほど、モルドーの、ひいては伝統的プロイセン軍人による西部軍集団における指揮権は、骨の髄から侵食されていく。
それは、すでに始まっている兆候だった。
先の「幽霊大隊」追撃戦の際も、クーメルは要請を受ける前に、独自の情報網で敵の動きを完全に掌握していた。モルドーお抱えの陸軍情報部より早く、正確に。
そして戦闘後、クーメルが提出した「結果のみをご報告する」という言葉通りの報告書──そこには越権の証拠こそ一言もなかったが、行間からは「陸軍が無能を晒したため、我々SSが清算した」という冷徹な事実が、これ以上ないほど雄弁に立ち上っていた。
若輩のSS中佐が、三十年の軍歴を持つモルドーを、書類一枚で嘲笑っていたのだ。
「機動予備の再配置を急がせろ」モルドーは、自らの焦燥を掻き消すように声を張った。
「北方から引き返せる部隊から順次、第二補給線の防衛に放り込め!」
「しかし閣下、現在の敵の進撃速度では、部隊が展開を完了する前に陣地が突破されます!」
「やれと言っている!」
参謀長は、ただ無言で一礼した。
だが、地図の上に赤々と刻まれた線は正直だった。前線は止まらない。機動予備が届く前に、第二補給線が食い破られるのは、誰の目にも明らかだった。モルドー自身、その現実を自嘲気味に理解していた。
「……やはり東部軍集団への増援要請を」若い参謀が、再び口を開いた。
「却下と言った」
「ですが現状は、自力での戦線維持の限界を超えています!」
「ファルケンの軍門に降るくらいなら、黄色人種に撃ち殺された方がマシだ!」
語気こそ強かったが、その声に以前のような確信はなかった。
参謀長は、目の前の老将が完全に手詰まりに陥っているのを見て取った。
やがて、凍りつくような午後の最新報告が司令部に舞い込んだ。
──第二補給線、第三戦区が部分的に突破。前線三個大隊、包囲隔離の危機。
モルドーは椅子に深く身体を沈め、静かに目を閉じた。
クーメルに頭を下げ、あの化け物達を解き放てば、おそらくこの崩壊は止められる。あの男の冷酷な戦術眼は、本物だからだ。
しかし、それを認めた瞬間、このカナダ戦域におけるモルドーの支配権は永遠に失われる。
親衛隊の「造られた英雄」が誕生し、陸軍は完全にその軍門に降るのだ。
「……閣下」参謀長が、耳元で静かに囁いた。「決断の刻限が、近づいております」
モルドーは目を頑なに開けなかった。
地図の上に描かれた青い防衛線は、彼の意思をあざ笑うかのように、刻一刻と西へ、破滅へと後退し続けていた。




