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3話 日本戦前史(〜1930年代)①

1914年6月。サラエボで響いた一発の銃弾により、欧州は二つの陣営に引き裂かれ、以降六年間にも及ぶ大戦が勃発した。


欧州の裏側に存在する日本は、最後までこの戦争に参戦しなかった。当初、英国はドイツ帝国の青島や南太平洋諸島攻略に日本を巻き込もうとしたが、当のドイツと同地域における停戦が成立したからだ。それに太平洋や中国沿岸部での軍事行動は、同地域に強い関心を示す米国を刺激する恐れがあり、英国はすぐに参戦要請を取り消した。


日本側にしても、参戦する気など毛頭なかった。やっと悪夢の二十世紀初頭から立ち直り、政治情勢も経済もようやく上向いていたからだ。緊縮財政のもと軍備も大幅に縮小しており、海軍は連合艦隊の栄光を辛うじて維持する程度、陸軍に至っては師団数を戦前の半分以下に減らしていた。国民の間でも、奉天の惨劇と日比谷暴動の記憶は生々しく、「また戦争を」という声は政界でも財界でもほとんど聞かれなかった。参戦論者は少数派として黙殺され、日本は協商寄りの中立国として大戦を静観することになった。


結果として、これは日本にとって僥倖だった。

欧州が血を流し続けるかたわらで、日本の工場は煙を上げ続けた。英仏露協商に加え独墺伊同盟の軍需物資の需要は際限がなく、砲弾、鉄鋼、綿布、缶詰、薬品。

日本商船団はそれらを積んで地中海へと向かい、莫大な利潤を日本経済にもたらした。戦前に積み上がっていた国債残高は1917年には半減し、1920年には完済されていた。


だが特需はそれだけではなかった。欧州列強が戦場に人員と資本を注ぎ込んでいる間、アジアと南米の市場は空白になった。英国製の綿織物が来なくなった。ドイツ製の化学品が途絶えた。日本の産業界はその空白に躊躇なく入り込んだ。大戦前には想像もできなかった市場が、ほぼ無競争で目の前に広がっていたからだ。


さらにイノベーション・ディ以降の技術発展が、この好機に厚みを加えた。宇宙船のデータから派生した新素材と動力技術は1910年代に入ると実用化の段階に達しつつあった。日本の製造業はこれをいち早く生産ラインに取り込み、旧来の欧州製品では到底及ばない性能と価格を両立させた工業製品を市場に送り出し始めた。


大戦が終わった1920(・・・・)年、日本の工業生産高は開戦前の四倍を超えていた。外貨準備高は米英に次ぐ世界第三位。造船、化学、電機、そして胎動し始めた戦機産業。かつて大陸への足場を失い島に引き篭もったはずの国が、いつの間にか世界経済の中枢の一角を占めていた。


「奉天の災厄がなければ」と後の歴史家は書いた。


「日本は満州の泥沼に嵌まったまま、大戦に引き込まれて疲弊していただろう」


屈辱が日本を救い、中立が日本を富ませた。歴史の皮肉というには、あまりに鮮やかだった。


その後、1923年に大規模な地震が帝都東京を襲ったが、それを契機に政府は大規模な首都近代化計画を打ち出して莫大な資本を投下した。欧州復興で好調な外需に加え、国内に巨大な内需が生まれ、産業の発展をさらに後押しした。


1929年、ニューヨークを震源とする世界恐慌で各国の経済活動が落ち込む中、日本だけは積極財政を選んだ。旗振り役は高橋蔵相だった。外需が期待できないなら、内需を作り出すしかない。彼を中心とするグループが議会に提出した『列島改造草案』は、財政規律を重んじる大蔵官僚から激しい抵抗を受けた。しかし高橋は動じなかった。翌年、法案は可決された。


財源の手当ては大胆だった。日本銀行に国債を直接引き受けさせる、当時の常識では禁じ手に近い手法である。「通貨を刷って借金を埋める」と批判する者は多かった。だが高橋の狙いは別のところにあった。


恐慌前、日本の鉄鋼メーカーと建材各社は輸出向けの高品質な製品を大量に抱えていた。世界市場が凍りつき、それらは行き場を失って工場と港の倉庫に積み上がっていたのだ。『列島改造草案』はその在庫を丸ごと飲み込んだ。


道路、橋梁、鉄道、港湾。全国に発注された公共工事は、ダブついていた高品質の鋼材と建材を次々と吸収した。輸出向けに鍛え抜かれた素材が、今度は日本列島そのものに打ち込まれていった。イノベーション・ディ以降に開発された新合金は耐久性に優れ、同じ予算でも旧来の工法より遥かに長持ちする構造物ができた。結果は目に見える形で現れた。


東北の山間部に舗装道路が通り、馬車が一日かけて越えていた峠を自動車が一時間で抜けるようになった。九州の炭鉱町から製鉄所までを結ぶ貨物線が開通し、石炭の輸送コストが半減した。四国の漁村に初めて電灯がともり、北海道の農業地帯に電話線が引かれた。かつて「東京から二十年遅れている」と言われた地方が、あれよあれよという間に近代の姿を整えていった。


工事現場には仕事が生まれ、仕事には賃金が生まれ、賃金は地方の商店と食堂と宿屋に流れ込んだ。世界が縮んでいく中で、日本国内だけが膨らんでいく。主要国が不況のどん底に沈む中、プラス成長を記録したのはソ連と日本のみだった。


十五年以上にわたる毎年二桁台の国民総生産の上昇は、明治の負の遺産である寄生地主制度にとどめを刺した。爆発的に発達する都市と工業が、農村から労働人口を大量に奪い取ったからだ。

それでも二十年代の終わり頃には産業の人手不足が心配され始めたが、大きな問題にはならなかった。海の向こうから人が来たからだ。


大陸では清朝の崩壊後に旗揚げした群雄が覇を競い、中国全土は戦国時代の様相を呈していた。農村は兵站として食い荒らされ、税は軍閥ごとに二重三重に課され、逃げ場を失った民が海に向かった。朝鮮半島でも事情は似たようなものだった。

英国の後ろ盾で独立を維持する大韓帝国は、宗主国の政治的思惑と国内の党派争いに引き裂かれ、地方の疲弊は深刻だった。職を求めて関釜連絡船に乗る者が後を絶たなかった。


中国人に朝鮮人。彼らは下関に、長崎に、神戸に、大阪に上陸し、工場の求人に群がった。日本語が話せなくても、体が動けば仕事があった。鉄道工事の飯場、製鉄所の溶鉱炉の前、紡績工場の深夜番。過酷な現場ほど人手が足りなかったし、過酷な現場ほど大陸からの移民は厭わなかった。故郷の境遇よりも、遥かにましだったからだ。


移民の数は1920年代を通じて右肩上がりに増え続け、30年代に入ると年間十万人を超えるようになった。むろん摩擦はあった。安く働く移民が日本人労働者の賃金を押し下げるという批判も根強かった。だが産業界は移民なしには回らなくなっており、政府も本格的な規制には踏み込めなかった。


やがて二世、三世が生まれ、日本語を母語として育つ子供たちが街に溢れていった。東京の下町では日本語と朝鮮語と広東語が混じり合う路地が現れ、大阪の工場街では昼食の屋台に三種類の言語の看板が並んだ。かつて「一億一心」を謳った島国は、誰も意図しないまま、雑然と多様な顔を持ち始めていた。


かくして国内は活況を呈していたが、外を向けば風景は穏やかではなかった。


太平洋という広大な水面を挟んで、日本は二つの大国と向き合っていた。

一方はアメリカ。恐慌の痛手を引きずりながらも、その工業力と人口は日本の比ではない。


もう一方は、大戦の戦勝国として依然南太平洋諸島に居座るドイツ帝国。欧州の覇者は赤道以南の島々に海軍基地を並べ、太平洋への触手を伸ばし始めていた。


世界中の商船が行き交うその海は、二つの巨人が睨み合う舞台でもあった。


そして、大きすぎる存在になった日本は、それを無視できる立場ではもうなかった。

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