2話 日本戦前史(〜1906年)
社会システムが激変し、爆発的に科学技術が発達し、欧州列強が世界分割に邁進する十九世紀。その大波は日本にも波及し、二百五十年続いた江戸幕府から政権を禅譲した明治日本は幾分の内紛を経つつ、その秘めたる活力を力強く大陸へと押し出した。同世紀中にアジアの覇権国たる清国を降し、朝鮮を勢力圏に収めるまでに至った。
猛烈な勢いで列強の階段を駆け上がる日本にとって、次の二十世紀は栄光に満ち溢れているはずであった。だがその最初の十年間は、悪夢そのものだった。
日本は次の拡張先である満州を巡り、南下政策を推し進めるロシアと1904年に激突した。十倍以上の国力差ながら、自国民の熱烈な戦争支持と帝政ロシアの不安定な内政に助けられ善戦。翌年三月には奉天会戦で数に勝るロシア軍に辛勝し、五月には対馬沖にて海戦史上稀に見ぬ一方的大勝利を連合艦隊が収めるなど、日本優勢で戦争が進んでいく。
だが1905年6月1日、すべてが変わった。
午前十一時四十分。奉天郊外の上空に、それは現れた。生き残った目撃者の証言は揃って支離滅裂だった。光、とある者は言った。影、とある者は言った。音はなかった、と全員が一致した。ただ何かが空を塞いだと思った次の瞬間、地面が白く焼けた。巨大な構造物が落下したのだと判明するのは、後になってからのことである。
落下点の満州軍司令部と兵站基地は文字通り蒸発した。焼けた大地に残ったのは銃器の残骸と、溶けた金属と有機物の塊だけだった。奉天の空が再び晴れたとき、そこには巨大な楕円形のくぼみと、落下した巨大構造物の残骸が残されていた。直径およそ三十キロ。植物も建物も、地上のあらゆるものがきれいに消えていた。
満州軍総司令官・大山元帥は落下の瞬間、司令部天幕の中にいた。参謀総長・児玉中将も同様である。両名の遺体は永遠に発見されなかった。指揮系統ごと失われた満州の残存部隊は、補給も命令もなく、戦闘継続など論外だった。
九月、ポーツマスにて講和会議が開かれた。米国の仲介のもと日露両国の全権が着席したが、交渉らしい交渉は起きなかった。ロシア側もまた限界に達していたからだ。互いに何も主張できるものがなかった。
条約の内容は白紙和平に等しかった。国民が望んだ賠償金も、韓国の権益も、満州の鉄道も、樺太も、何も得られなかった。日本が血と国債を費やした二年間はすべて無に帰した。政府はこれを「列強ロシアに対する名誉ある勝利」と喧伝したが、巨額の債務と十万を超える犠牲を負ったことを知った国民は、怒り狂い暴れた。
九月五日、日比谷公園で開かれた講和条約反対集会は夕刻までに暴動へと転じた。群衆は内務大臣官邸に火を放ち、政府系新聞社を打ち壊し、交番を次々と襲った。騒乱は翌日には大阪、神戸、横浜へと飛び火し、鎮圧に出た警察隊と市街で衝突した。戒厳令が敷かれ、軍が首都に展開して鎮圧するまでに三カ月かかった。死者は千百七十名を超え、その被害は日本史に深く刻まれる事になる。
当時の内閣は責任を取って総辞職し、薩長藩閥は永遠に日本政界から退いた。
後継の内閣もまた同じ問いに晒された。戦費で膨らんだ国債をどう返すか。怒りの冷めない国民をどう宥めるか。大陸の権益という幻を、どう処理するか。答えは翌年に出た。
1906年、日本は韓国の保護権を英国に譲渡した。日英同盟の「深化」という外交的粉飾のもとで行われた取引だったが、実態は売却に近かった。財政再建のための借款と引き換えに、明治日本が二十年かけて築いた大陸への足場を丸ごと手放したのだ。こうして日本の大陸進出の野望は潰えた。
三国干渉に次ぐ屈辱を味わいながら、以降の日本は植民地獲得による勢力圏拡大ではなく、貿易推進と技術発展による立国へと舵を切ることになる。
結論からいえば、この方針転換は正解だった。後に日本は米独に追随する第三位の経済大国へと浮上することになる。
英国の勢力圏に完全に組み込まれたことで、日本の貿易環境は一変した。インド洋から地中海に至る英国の海上交通網に接続した日本商船隊は、戦前には想像もできなかった規模で市場を開拓した。国債の重荷は重かったが、貿易黒字がそれを少しずつ溶かしていった。
だがより決定的だったのは、同じ1906年に発足した「奉天国際調査団」の成果だった。英米日独中の五カ国が共同出資して落下した巨大構造物の調査を開始したこの組織は、当初は一年のみの予定だった。実際には、参加国が大戦で引き裂かれながらも、八年かかった。それだけの時間を要したのは、対象があまりに異質だったからだ。
構造物はただの隕石ではなかった。それは船だったのだ。直径三十キロに及ぶ、高度な文明によって製造された巨大な宇宙船の残骸。調査団がこの結論を五カ国政府に報告すると、世界は静かに震撼した。報告書は即座に機密指定されたが、内容は半年と経たずに主要各紙に漏れた。
人類は宇宙で孤独ではなかった。そしてその文明は、こちらに向かって何かを送り届けていた。
船の内部から発見された電子データ記録体は損傷が激しかったが、一部は辛うじて読み取ることができた。驚くべきことに、記録の一部は人類が解読できる形式で残されていた。数学的な基礎から始まり、材料構造の図解、エネルギー機関の原理図、そして機械が人間の形を取るための設計思想の断片。
意図的に残されたのか、偶然の産物なのか、今もって不明である。
各国の研究機関がこのデータに群がり、解読と実装の競争が始まった。人類の技術発展の速度は、この日を境に三倍以上に早まったとも言われている。
世界は後にこの転換点を「イノベーション・ディ」と呼ぶようになる。
1905年6月1日──あの構造物が奉天に落ちた日を、人類の技術史が変わった日として。




