28話 上奏
1953年1月、帝都東京。
皇居の松の廊下を歩く統合軍総長・高野五十六の足取りは、重くも軽くもなかった。統合軍総長就任以来の7年間、幾度となく通った道だ。しかし、今日の聖断を仰ぐ奏上は、これまでとは比較にならないほど重い意味を持っていた。
謁見の間を退下した時、すっと首相が隣に並んだ。二人は、静まり返った長い廊下をしばらく無言で歩いた。
「……陛下のご様子、どう拝察した」
高野が周囲に響かないよう、低い声で水を向けた。
「表向きは我が軍の計画に賛意を示された」
首相は正面を見据えたまま、苦渋をにじませた。
「しかし、御目が笑うておられなかった。陛下は嘘をつかれぬ方だ。北米での隠しようない劣勢、そして今回の投機的作戦──御心のご不安は、微塵も拭えておられん」
「当然でしょう」高野は自嘲気味に呟いた。
「私とて、不安で胃が捩れそうだ」
最高指揮官としてのあまりに正直な告白に、首相は一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、それ以上は何も言わなかった。
外に出ると、一月の鋭い冷気が容赦なく頬を刺した。車寄せには、黒塗りの公用車が2台、排気ガスを白く吐き出しながら待機している。高野は首相と短く一礼を交わすと、後方の一台へと乗り込んだ。
後部座席の奥、薄暗がりに長田叡山が深く腰掛けていた。
「奏上はどうだった」
「無事に終わった」高野は外套を脱ぎながら応じた。
「形の上では御裁可をいただいた。しかし……」
「しかし、か」
「無理もない。未だに統合軍内部の反対は根強い」
車が静かに滑り出す。高野は言葉を継いだ。
「各部の責任者らは『反転攻勢は時期尚早であり、あまりに投機的すぎる』と詰め寄ってくる。幸いなことに、現地で実務を握るカナダの大幡司令と、陸戦兵団の縞野が極めて前向きなのが救いだ」
「大幡は肝が据わっているからな」長田は冷淡に言った。
「戦力が絶対的に不足している。それは事実だ」
高野は窓の外へ目をやった。凍てつく皇居の濠が、冬の鈍い光を跳ね返している。
「それでも、我々は打って出るしかない」
長田は小さく、しかし深く頷いた。
「中東の動向だな」
「イランもトルコも、今は辛うじて中立を装っている。だが、彼らは日英同盟がカナダで押し込まれ続ける様を冷徹に見極めている。大ゲルマン帝国が北米を完全制覇する──そんな『大勢』が世界に決定づけられれば、中立国は雪崩を打ってベルリンへ跪く。南米諸国も同様だ。彼らかの資源と石油輸入が止まれば、我々の戦時経済は半年と保たん」
「そして、西海岸の存在だ」長田が付け加える。
「それが最大の生命線だ」
高野は疲れたように目を閉じた。
「カリフォルニアの『臨時合衆国政府』は、じっとこちらの実力を見定めている。日英が、大ゲルマン帝国を本気で押し戻せるだけの牙を有しているのかどうかをな。西海岸という限定的な地域とはいえ、彼らの残存する資源と圧倒的な工業力の供給がなければ……大ゲルマン帝国に勝つなど、私には到底不可能に思える」
「そうだ。我々には猶予がない。ここで攻勢に出ねば、日本に──いや、人類に未来はない」
長田はそこまで言うと、おもむろに懐から、厳重に自身の電子端末を取り出し、高野に手渡した。
「? これは何だ」
「先ほど、大ゲルマン帝国の心臓部に潜伏させている我が方の特務機関から、直接上がってきた情報だ。どうやら、我々は致命的な思い違いをしていたらしい。ベルリンの『狂人たち』の目的は、アメリカの完全解体や、日英同盟の打倒などという矮小なレベルに留まっていなかった」
高野は不審に思いながらも端末を起動し、表示されたテキストに目を走らせた。
だが、最初の数行を読んだ時点で、彼の網膜は凍りついた。
視線をさらに下へ進める。指が止まる。呼吸すら忘れていた。最後まで読み終えた時、高野は端末を握ったまま、石像のように硬直していた。
車が赤信号で止まり、再び動き出す。その間、車内にはただ駆動音だけが虚しく響いていた。
「……これは」
高野はようやく、掠れた声で言葉を絞り出した。
「確度はどの程度だ」
「極めて高い」長田の返答は冷酷だった。
高野は弾かれたように端末をもう一度見つめ、冒頭へとスクロールした。
大ゲルマン帝国最高機密──「ファルゴルト計画」。その全体像を示す断片。
そこに記されていたのは、北米の制圧でも、日英の抹殺でもなかった。世界征服すら、彼らにとっては副産物、あるいは通過点に過ぎない。
「……これに比べれば、世界征服を企む悪魔のほうが、まだ愛嬌がある」
「ああ」長田の影が揺れる。
「真の恐怖だな。奴らの定義する我々、旧人類にとってな」
「どれほどの規模で進行している」
「少なくとも5年以上、おそらくはそれ以前からだ。我々がかつて放棄した『七号計画』を元に、帝国の『ライプニッツ研究所』の主導で一気に加速した形跡がある」
高野は再び窓外を見た。帝都の街並みが流れていく。何ひとつ知らず、今日を必死に生きる人々の営み。いつもと変わらない、一月の東京の景色。
「……となると、カナダでの『突号作戦』の意味が、根底からひっくり返るな」
「その通りだ」長田は冷たく微笑んだ。
「単なる失地回復や防衛戦ではない。あの『計画』が完成し、取り返しのつかない破滅が引き起こされる前に……何としてでも、戦局を挽回し、北米を制し、帝国の中枢へ至る道を抉り開けねばならん」
高野は端末を長田に突き返した。
「他に中央の人間で誰がこれを知っている」
「まだ誰も。七号計画、そして『吉岡の死』の真実を知る人間──お前だけだ」
高野は深く椅子に背をもたれ、目を閉じた。
脳裏に「突号作戦」の様子が浮かび上がる。カナダの極寒の荒野、凍てついた補給線、泥を捏ねる戦機部隊、そして反転攻勢を示す無数の矢印。そのすべてが今、世界の存亡を賭けた「最終防衛線」へと変質していた。
「急がなければならない理由が……また一つ、増えてしまったな」
黒塗りの公用車は、冷たい霧が立ち込め始めた東京の街を、音もなく走り続けていた。




