27話 日米英事前交渉
ロサンゼルス、ウィルシャー大通りに面した旧連邦ビル。
最上階の会議室から見下ろす太平洋は、今日も残酷なほど穏やかだった。
東部を覆う鉄と硝煙の嵐など、まるで別の惑星の出来事であるかのように思わせる、静謐な凪の海だった。
「──現状を、整理させてください」
合衆国西海岸臨時政府の外交担当次官、ハロルド・スティーブンスが乾いた声を響かせた。40代半ば。弁護士出身の切れ者であり、かつて混迷を極めた「第二期ロング政権」において、日本、そしてドイツの双方で大使を歴任した経歴を持つ──つまり、これから敵対する大帝国の底知れなさと、今目の前にいる同盟国候補の実力を、誰よりも骨の髄まで知っている男だった。
スティーブンスは卓上に、折り目の白い北米大陸の戦域地図を滑らせた。
「現在、ニューヨークをはじめとする東部全域は、大ゲルマン帝国東部軍集団の過酷な軍政下にあります。五大湖沿岸の巨大工業地帯も同様です。ヒューイ・ロング前大統領は『精神疾患』という便利な病名を宛がわれて弾劾され、現在はベルリンの据えた傀儡行政府が暫定統治を行っています」
彼の長い指先が、地図の南部を冷酷になぞる。
「南部は御存知の通りです。テキサス、ミシシッピ、アラバマ……各大州は次々と無防備都市宣言を乱発し、実質的に独軍を無血受け入れしている。戦火から郷土を守るための『大人の選択』と言えば聞こえは良いですが、結果として彼らはベルリンへ従属する姿勢を示した。独軍はその親独的な南部を大きく迂回するように西進を続けており、現在の最前線はオクラホマ、およびカンザス近郊にまで達しています」
日本大使・橘幸太郎は表情を変えずに深く頷いた。英国大使・セシル・バウアーは、腕を組んだまま険しい目付きでその赤い進撃線を睨みつけている。
「つまり」スティーブンスは言葉を区切った。
「独軍の次なる目標が、我らが西海岸であることは地図を見れば自明です。ロッキー山脈という天然の障壁はありますが、それが永続的な絶対防衛線になると盲信している者は、我が政府には一人もいません」
「だからこそ、我々がここに集っているのです」
橘が静かに応じた。
「その通りです」
スティーブンスはテーブルに両手を突き、身を乗り出した。その双眸には、隠しきれない焦燥が宿っている。
「単刀直入に申し上げましょう。我が臨時政府の内部は今、真っ二つに叩き割れています」
「知っております」バウアー英国大使が、低く掠れた声で応じた。
「軍部はほぼ全員、対独徹底抗戦で一致しています。前線で踏みとどまっているリー大佐率いる連邦軍の将校たちも、各州の州兵指揮官たちも、大ゲルマンの軍靴をこれ以上許す気はない。……しかし、政財界は違う。特に、西海岸へ資本を退避させた経済界の一部は、大ゲルマン帝国との『早期講和』を水面下で模索し始めている。ベルリンの悪魔と取引してでも、己の財産と生き残った工場さえ守れれば、それで十分だという腹積もりです」
「人間として、当然の選択です」橘が淡々と言った。「だが……」
「ええ、それを許せば自由な合衆国という概念そのものが完全に死滅する!」
スティーブンスが橘の言葉を遮った。その声には激しい激情が混じっていた。
「私も、そして前線のリーたちも、断じて講和など認めない。だが、降伏派の財界人たちを黙らせるには、論理や愛国心では足りんのです。我々には……どうしても『事実』が必要だ」
会議室に、張り詰めた静寂が落ちた。
「日英同盟が、あの無敵を誇るゲルマン帝国軍を、実際に対抗できるという確かな事実が不可欠なのです。率直に申し上げて、現在のカナダ戦線の有様は芳しくない。世界にはすでに『大ゲルマン帝国優勢』の空気が定着しつつある。中東の産油国がいつベルリンへ鞍替えするか分からない現状で、西海岸の資本家たちが日英への賭けを躊躇するのは、彼らの基準からすれば『ある意味で合理的な判断』なのです」
橘が、その鋭い眼光をスティーブンスに向けた。
「つまり、我々の実力を示す『信頼の証』が欲しい、と」
「そうです」
スティーブンスは机を一度、強く叩いた。激昂ではなく、血を吐くような懇願だった。
「明確な戦果を見せてください。独軍を実際に叩き潰し、戦線を押し戻したという決定的な事実を。それさえあれば、私は政府内の有象無象を完全にねじ伏せることができる。しかし……今のままでは、私の努力にも限界があります」
バウアーがパイプを灰皿に置き、口を開いた。
「タイムリミットは」
「早ければ早いほど良い」スティーブンスは即答した。
「独軍の西進が続く限り、一刻ごとに状況は悪化している。……冬が明けた後では、おそらくすべてが遅すぎる」
冬が明ける前──その言葉の重みを、日英の外交官は正確に理解していた。
二人の間に、数秒の濃密な沈黙が流れる。
橘はゆっくりと居住まいを正し、衣服の皺を伸ばした。
「……分かりました。本国、および統合軍総司令部と直ちに暗号通信を入れ、改めて正式な回答をいたします。ただ、次官。一点だけ、確実なことを申し上げておきたい」
「どうぞ」
「我々日英同盟も、貴方と全く同じ結論に達しているということです。だからこそ──我々は今、この瞬間にも、次なる一歩を踏み出そうとしている」
スティーブンスはその言葉の背後にある強大な「軍事的意思」の質量を測るように、じっと橘の瞳を見つめた。やがて、外交担当次官の強張っていた肩から、わずかに力が抜けた。
「……期待していますよ、大使」
窓の外では、ロサンゼルスの海原が、傾きかけた冬の太陽を反射して、まるで冷徹な鋼鉄のように鈍く光り輝いていた。




