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26話 再編②

「あ゙あ゙あ゙……生き返る、本当に生き返るわぁ……」

 

白く濃密な蒸気が漂うサウナ室。木製のベンチに大の字で横たわった浅見中尉が、絞り出すような声を上げた。

バンクーバー市内にある民間の浴場施設だった。前線から引き上げて早々、浅見が「骨まで錆びつく前に蒸かしておかないと」と言い出し、舞草と坂巻を半ば引きずるようにして連れてきたのだ。

 

同じ水着を着た舞草は、壁際のベンチで背筋を伸ばし、膝の上で律儀に手を重ねていた。その隣では、坂巻が濡れタオルを頭に乗せたまま、ぼんやりと天井の木目を仰いでいる。

 

「……本当に、良いんでしょうか」

 

低く、湿り気を含んだ声で舞草が呟いた。

 

「何がさ〜」

 

浅見は目を閉じたまま、のんびりと応じる。

 

「私たちだけ、こんな温い場所にいて。寒さに震える前線の味方はいま、この瞬間も……」

 

「良いんだよ、それで」

 

浅見は起き上がりもせず、遮るように言った。


「前線を気にかける殊勝な心がけは立派だけどさ。お前たちはやるべきことをやったろ。伏野を失いながらも後衛の任務を全うして、五体満足でここにいる。それは誰かに申し訳を立てなきゃいけないようなことじゃない」

 

坂巻がゆっくりと天井から目を離し、浅見の横顔を見た。

 

「だけど、中尉。伏野は……」

 

「伏野は死んだ」

 

浅見はあっさりと言い切った。

 

「それは動かしようのない事実だ。だからといって、生き残ったお前たちが後ろめたさに縮こまって、ここに座っている理由にはならないよ」

 

舞草が言葉を失い、小さく俯いた。浅見はのそりと上体を起こし、肌を流れる汗を不躾に拭った。

 

「よく聞きな。私は前の大戦から戦機に乗ってる。死線を潜った回数なら、お前たちの数倍だ。そのたびに生き残った側が罪悪感で腹を壊してたら、心も体も瞬く間に消えてなくなる。休める時に休む、食える時に食う、笑える時に笑う。……それが、この地獄を長く生き延びる唯一の技術だよ」

 

「浅見中尉は、怖くないんですか」

 

舞草が、縋るような目で訊ねた。

 

「再び戦場に戻れば、今度は自分が死ぬかもしれないって」

 

浅見は動きを止め、少しだけ間を置いた。

 

「怖いよ。毎回めちゃくちゃに怖い。慣れたことなんて一度もないさ」

 

湯気の向こうで、ベテランの瞳が冷たく光った。

 

「どれだけ用心しようが、どんな凄腕だろうが、死ぬ時は一瞬で死ぬ。自慢じゃないけど、前の大戦の私は下手くそな部類だった。私より遥かに操縦技術が上の奴なんて、それこそ腐るほどいたよ。でもね、そういう優秀な奴から順番に死んでいった。一体何の差だと思う?」

 

坂巻が、重い背中を壁に預けた。

 

「……運、ですか」

 

「そういうことさ」

 

浅見は満足げに頷いた。

 

「上手い下手じゃない。最後は運なんだ。伏野だって、あの日あの場所で、あの角度で飛び出さなければ今頃一緒にサウナに入ってたかもしれない。ただ、それだけのことだよ」

 

舞草が小さく息を吸い込む。

 

「でも、それじゃあ……あまりに割り切れません」

 

「割り切れないさ。運で片付けられたら、これまでの努力が無意味に思えるもんな。でも、そうじゃない」

浅見はタオルを肩にかけ、言葉を継いだ。

 

「技術や判断力、体力ってのは、『死ぬ確率を下げる』ためにある。でも、どれだけ鍛えてもその確率をゼロにはできない。どんな天才でも、死ぬ時は死ぬ。それが戦場だ。伏野もそうだったし、私も、お前たちだっていつかそうなる」

 

沈黙が落ちた。熱い蒸気だけが、三人の間を静かに循環していく。

 

「だからこそ、だよ」

 

浅見の声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「生きてるうちに、生きてる人間らしくしとけって言ってるの。伏野は死んで、私たちは生きてる。その差はただの運だ。だけど、生きてる側にしかできないことがある。休める今日、サウナに入って汗をかいて、美味い飯を食って、泥のように寝る。それが、明日また戦える体を作るんだ」

 

浅見は二人の顔を順番に見据えた。

 

「お前たちは十分戦った。伏野が死んだあの夜も、その後の撤退戦も。生死の境目を何度も潜り抜けてここにいる。このサウナは、お前たちが正当に稼ぎ出した報酬だ。遠慮なく受け取りな」

 

舞草が、張り詰めていた肩の力を抜き、ゆっくりと背もたれに体を預けた。坂巻は、再び濡れタオルを顔に乗せて天井を仰ぐ。

 

「……中尉」

 

タオルの下から、坂巻の声が響いた。

 

「俺たち、今回の大戦を生き抜けますかね」

 

「さぁね。だけど──」

 

浅見は悪戯っぽく笑った。

 

「前の大戦じゃ、私の前を飛んだ奴はみんな死んだけど、後ろにくっついてた奴は私を含めて全員生き残った。だから、お前たち二人も大丈夫だよ。たぶんね」

 

白く濃い蒸気が、三人の体を等しく包み込んでいった。


───

 

同じ日の夜。バンクーバー市内の場暮れた居酒屋の片隅に、七宮と南の姿があった。

テーブルには、すでに空になった酒瓶が三本転がっている。まだ宵の口だというのに、二人の顔は一様に赤く染まっていた。

 

「俺さ……」

 

七宮はグラスを両手で包むように持ち、視線を落とした。

 

「あの時、秘密回線でお前に何て言ったか、覚えてるか」

 

「覚えてる」

 

南が短く、低く応じる。

 

「『俺たち、戦争に向いてるのかも』……って、言ったんだよ」

 

七宮は自嘲気味に笑い、グラスの酒を煽った。

 

「笑えないよな。あんな不遜なことをぬかしてすぐに、伏野が死んだんだ」

 

南は何も言わず、ただ手元のグラスを見つめている。

 

「出撃前、大隊長は言ってたよな。『戦場で慢心するな。気を許したら死ぬのは一瞬だ』って。本当にその通りだった」

 

「ああ、大隊長が正しかった」

 

「そうだよ。間違ってたのは俺たちだ。自分たちが少し戦えるからって調子に乗って、慢心して……その結果、伏野が……」

 

七宮は言葉を詰まらせ、それ以上は声にならなかった。

 

「伏野は、俺たちの慢心で死んだわけじゃない」

 

南が静かに、しかし断固とした口調で遮った。

 

「あの奇襲は完全な罠だった。俺たちがどんな心持ちで飛び出していようが、アドラーの伏撃があそこにあった以上、誰かが死んでいた。伏野だったのは……ただ、位置が悪かっただけだ」

 

「それが、浅見中尉の言う『運』ってやつか」

 

「そうだ。だが」

 

南は自分のグラスを見つめたまま、拳を握りしめた。

 

「俺たちが慢心していたのは事実だ。それは認めなきゃならない。認めた上で、この悔しさを次に活かすしかないんだ」

 

七宮は、居酒屋の煤けた天井を見上げた。

 

「……伏野に、謝りたいな」

 

「俺もだ」

 

南の声から、いつもの尖った響きが消えていた。

 

「だけど、もう謝る相手がどこにもいない」

 

二人は黙り込んだ。周囲の喧噪が、まるで遠い世界の出来事のように掠れて聞こえる。

 

「南」

 

「何だ」

 

「生き抜こう。俺たちが死んだら、伏野がここにいたことを知ってる人間が、一人減る」

 

南は少しの間、沈黙を守った。それから、静かにグラスを持ち上げた。

 

「……同感だ」

 

二人のグラスが重なり、小さく鈍い音を立てた瞬間、すぐ傍らで椅子を引く音がした。

 

「随分と安酒を煽っているな、お前たちは」

 

振り返ると、そこにいたのは桐島だった。私服のコートを着たまま、鋭い眼差しで二人を見下ろしている。

 

「桐島大尉!?」

 

七宮が目を丸くした。


「どうしてここに」

 

「鹿嶽副長から聞いた。若いのが二人、荒れているとな」

 

桐島は空いている椅子を引き、当然のように腰掛けた。そして通りがかった店員に、一言だけ告げる。

 

「同じものを」

 

七宮と南は、呆然と顔を見合わせた。

 

「……大尉も、混ざるんですか」

 

南が怪訝そうに訊ねる。

 

「悪いか」

 

「いえ、悪くはないですけど……大尉はお酒を飲まないものだと思っていました。この前の宴席でも、ずっと麦茶でしたし」

 

運ばれてきたグラスを、桐島は無骨な手で受け取った。

 

「たまには飲む。ただ、あまり酒に強くないのを他人に知られたくないだけだ。だから、一人で飲むか、あるいは──」

 

桐島は一度言葉を切り、グラスを傾けた。

 

「本当に気心の知れた人間としか、飲まないことにしている」

 

それだけ言うと、桐島はふいと前を向いた。

七宮の口元に、ようやく小さな苦笑が戻り、南は無言で「もう一本」と店員に指を立てた。

 

三人はしばらく、何も語らずに酒を飲んだ。だが、その無言の時間が、今の彼らには何よりも雄弁で、十分な救いだった。

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