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22話 伏撃②

「伏野ォッ!」

 

七宮の叫びが、氷結した湖畔に虚しく響き渡る。

先ほどまで「九戦九勝」を共に祝い、笑い合っていた戦友の喪失。あまりに一方的で、あまりに無機質な死。七宮と南の機体は、戦場にあっては致命的な「虚脱」に陥り、その場に棒立ちとなった。

獲物の硬直を、アドラーの電子眼は見逃さない。

谷底から這い上がってきた二機のアドラーが、滑らかな挙動で双子の銃口を七宮機と南機へ向けた。不可視の死神が、再び鎌を振り下ろそうとしたその瞬間──。

 

「動けッ、死にてえのか!」

 

咆哮とともに、桐島の六式が割り込んだ。

重量級の盾を強引に構え、七宮機を庇うように立ち塞がる。直後、大気を震わせる衝撃音が連続した。アドラーの電磁砲弾が桐島のシールドを真っ赤に焼き、火花が散る。

 

「七宮、南、機体引きずるぞ! 舌噛むなよ!」

 

間髪入れず、浅見の機体が二機の腕を強引に掴み、背後の斜面へと引きずり戻す。その頭上を、鹿嶽機が放つ援護射撃の弾幕が、追いすがろうとするアドラーを牽制するように横切った。

 

「浅見、二人を連れて下がってろ! ここは俺と桐島が食い止める!」

 

鹿嶽の鋭い声。だが、彼らも理解していた。

かつての王者「レーヴェ」を子供扱いする自分たちの戦技が、この新型機の前では、単なる「時間稼ぎ」にすらなっていないことを。

その喧騒から切り離されたかのように、谷道の中央では、二つの影が火花を散らしていた。

一ノ瀬の零式と、クーメルが駆るアドラー。

他機とは明らかに次元の異なる、重力を無視したような高速機動の応酬。一ノ瀬は、全身の神経を零式のセンサーと同期させていた。

アドラーが、その長い腕に備わった高周波ブレードを振り下ろす。

一ノ瀬はコンマ数秒、衝撃が届くよりも早く機体を反転させ、真空を切り裂くような一撃を紙一重で回避した。

その時だ。

機密設定されているはずの通信回線に、ノイズ混じりの、しかし透き通るように穏やかな声が割り込んできた。

 

『……素晴らしい。今のは、標準的な人間の反射限界を超えていた』

 

一ノ瀬の背筋に、冬の夜気よりも冷たい何かが走る。

『アドラー』のコクピットから発せられているであろうその声には、戦場の昂りも、殺意すらも混じっていない。ただ、純粋な好奇心だけがあった。

『私の予測では、今の斬撃で君のコクピットは両断されているはずだった。だが君は、刃が空気を震わせる前に「答え」を知っていたかのように動いた。最初の一撃をかわした時もそうだった』

アドラーが、優雅な仕草で一ノ瀬の零式を指し示した。

その機体から放たれるプレッシャーは、一ノ瀬が過去に対峙したどんなエースパイロットとも異なっていた。冷徹な精密機械と、純粋な狂気が同居している。

 

幽霊(ゲシュペンスト)、一つ聞いておきたい。……君は、我々の側の人間か?』

 

「……何だと?」


一ノ瀬は歯を食いしばり、スロットルを押し込んだ。

 

『その反応速度、戦闘センス。君の中に流れているのは、旧弊な旧人類の血ではなく、選ばれた素体だけが持つ高貴な輝きだ。……君も、「アーキタイプ」の一人なのか?』

 

「ふざけるな」

 

一ノ瀬は叫び、プラズマジェットを咆哮させた。

 

「俺は人間だ。貴様らのような、化物どもと一緒にされる覚えはない」

 

『ほう……「人間」、か』

 

クーメルの声が、微かに愉快そうに揺れた。

 

『ならば、その「人間」の限界とやらを見せてほしい。壊れゆく一瞬、君が何と叫ぶのか……実に楽しみだ』

 

アドラーの金色の光彩を帯びた電子眼が、闇の中で不気味に輝いた。

次の瞬間、世界が加速した。

アドラーが動いた。上ではなく、下へ。

一ノ瀬は反射で上昇した。しかしクーメルはそれを読んでいた。予測ではなく、計算として。一ノ瀬が上昇した軌跡の先に、アドラーの高周波ブレードが待っていた。

金属が断ち切られる音が、二回した。

零式の両足が、膝関節の直上から切り落とされた。

バランス制御が狂い、機体が傾く。一ノ瀬はスラスターで姿勢を保とうとしたが、推力配分のパラメータが自動修正を試みて一瞬だけ誤作動した。その一瞬で、零式は谷道の壁面に背中をぶつけた。

岩肌に背を預けた格好で、零式は静止した。

アドラーが正面に立った。

ゆっくりと、ブレードを持つ腕を引いた。止めを刺す動作だった。急がない。逃げられないとわかっているから。

 

『残念だ』とクーメルの声が通信に流れた。本当に残念そうだった。『もう少し長く楽しめると思っていた』

一ノ瀬は操縦桿から左手を離した。

コンソールの下、非常用の蓋を外した。その中に、零式にだけ存在する装備がある。二次大戦当時、整備班の鶴木が「念のため」と言って取り付けた、接近戦用の固定短刀。全長八十センチ。電磁加速なし。ただの鋼鉄の刃。

レーヴェの重装甲では刃幅が足らない。

しかし比較的軽装甲なアドラーなら或いは。

 

「俺は人間だと言った」

 

一ノ瀬は短刀の射出レバーを握った。

 

「人間は、最後まで諦めない」

 

アドラーのブレードが振り下ろされた瞬間、零式の右腕が殴り掛かるように前方に跳んだ。盾ではなく、囮として。

アドラーのブレードが零式の右腕を両断した。その刃がわずかに止まった、コンマ二秒の隙。

零式の胴体が、残った左腕だけでアドラーに向かってのめり込んだ。

短刀が、アドラーの胴部装甲の継ぎ目に深々と刺さった。

機関部だった。動力炉への接続ラインが密集する、装甲の最も薄い場所だった。

アドラーの電子眼が一瞬、明滅した。

 

『……なるほど』とクーメルの声が言った。驚きではなく、納得のような響きだった。『どこまでも楽しませてくれる……!』

 

動力炉の過負荷警告音が、アドラーのコックピットに響いた。

零式の機体各所でも、連鎖的に警告が点灯した。短刀が貫いた衝撃で、零式自身の動力系にも致命的な損傷が走っていた。

二機は、谷道の中央で静止した。どちらも動けなかった。


十秒ほどの沈黙が落ちた。

 

「一ノ瀬!」

 

鹿嶽の声が通信に飛び込んだ。直後、六式が谷道の入口から駆け込んできた。桐島が続いた。アドラーの残存機は、いつの間にか射線の外に下がっていた。

一ノ瀬はコックピットの中で、計器を確認した。動力喪失。脚部切断。右腕切断。緊急電源のみ生きている。機体として、もう動く余地はない。

 

「無事か」と鹿嶽が零式の胴体を支えながら言った。

 

「生きている。コックピットは無傷だ」

 

「奇跡だな」

 

「腕と足がない機体を奇跡と呼んでいいなら」

 

鹿嶽が短く笑った。緊張が解けかけた音だった。

その時、アドラーの通信が再び割り込んだ。

 

『楽しい時間だった、一ノ瀬少佐。今日はこの辺でお開きにしようか』

 

名前を知られた一ノ瀬は奥歯を噛んだ。

 

『次に会う時は、もう少し余裕のある状況で話したい。機体の心配をせずに済む場所で』

 

「次はない」と一ノ瀬は言った。

 

『それはどうかな』

 

クーメルの声が、かすかに笑った。

 

『我々は惹かれ合う運命なのだから。同じ新たな根源人種(アーキタイプ)として』

 

通信が切れた。アドラーの機影が谷道の奥へ消えていく。追撃しようとした桐島機を、一ノ瀬が止めた。

 

「追うな」

 

「しかし」

 

「追うな、と言った」

 

桐島が止まった。一ノ瀬は損傷した零式の中で、クーメルの去り際を反芻していた。

潔すぎる。

零式を仕留め損ねたとはいえ、こちらの損害は大きい。伏野を失い、七宮と南は虚脱状態で、零式は廃機同然だ。アドラーの残存機が数機残っていれば、今の状況で押せば壊滅させられた。それをしなかった。

 

「鹿嶽」と一ノ瀬は言った。

 

「何だ」

 

「奴らが引いた理由を考えろ。勝てる状況で引いた。なぜだ」

 

その答えを出す前に、軍本部からの緊急通信が入った。

 

『こちらカナダ日英合同軍本部。後退中の第9師団本隊が、サドベリー南方で強襲を受けた。戦機部隊による奇襲で、後衛が壊滅状態。近隣の部隊に支援を要請する。繰り返す──』


一ノ瀬は目を閉じた。

 

「囮だった」と鹿嶽が静かに言った。

 

「ああ」と一ノ瀬は答えた。


「俺たちを釘付けにしている間に、本命は別のところへ向かっていた。クーメルが引いたのは任務を終えたからだ。俺たちを潰す必要がなくなった」

 

谷道の冷気の中で、零式の緊急電源が小さく点滅し続けていた。

戦略的にも戦術的にも、一ノ瀬らは第七独立戦機大隊の完敗であった。

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